京都のある真言宗のお寺に、ほの暗い小さなお部屋がございます。線香がほのかにくゆり、ろうそくの灯りが金に塗られた木彫のお姿を静かに照らしております。お水のお椀、いきいきとしたお花、お果物が一つ。派手さはございません。けれど、このお部屋にお入りになる方はすぐにお感じになります ― ここは何かが違う、ここには中心がある、と。
そこに祀られておりますお方を 御本尊 ― 御本尊 ― と申しあげます。西洋でいう「祭壇」よりも、はるかに深いお働きを担っておられます。目に見える世界と目に見えない世界とが、静かに触れあう場所でございます。真言の伝統のなかで、御本尊はあらゆる御行のお心臓でございます。建物でも、儀礼でもなく ― お祭壇でございます。

三つの漢字 ― 御本尊とはどのような意味でございますか 御本尊
合わせて 御本尊 ― 「尊き本来のお敬いの御方」。御本尊はただのお祭壇ではございません。お中心となる霊性のお力が祀られ、お感じいただける場所でございます。真言宗のお寺ごとに、御本尊はその中心となるお方 ― すべてが整えられる軸でございます。
あらゆる仏様が御本尊となられます 仏
真言の伝統のなかには、唯一の御本尊というものはございません。お寺ごとに、それぞれの御本尊がいらっしゃいます。京都の東寺では薬師如来(やくしにょらい)薬師如来 ― お医しと内なる光の仏様 ― がお祀りされております。高野山の金剛峰寺では大日如来(だいにちにょらい)大日如来 ― あらゆるものが湧き出る宇宙の仏様 ― がご本尊でいらっしゃいます。
ここに大切なお気づきがございます。真言宗のなかでは、あらゆる仏教のお方 ― 仏様、菩薩様、明王様 ― がお本尊となりうるのでございます。御本尊をお選びすることは義務ではなく、お結びでございます。修行される方がご本尊をお選びになるのではなく、ご本尊のほうから静かにお呼びになる ― あるいは、共鳴が自ずから生まれる、と申しあげたほうが近いかもしれません。慈悲の菩薩・観音様観音に深いお結びを感じる方もいらっしゃいます。不動の智慧・不動明王様不動明王に結びをお感じになる方もいらっしゃいます。武人と旅人のお守り・摩利支天様摩利支天に結びをお感じになる方もいらっしゃいます。
ご自宅の個のお祭壇 ― ご個人の御本尊 ― は、このお結びを静かに映します。飾りものではございません。ご自身の霊性のお結びに、身を置く場所を静かに差しあげる ― それが御本尊のお働きでございます。
両界曼荼羅 ― 胎蔵界と金剛界 曼荼羅
御本尊のお働きをご理解いただくには、曼荼羅をお知りいただくのがよろしゅうございます。真言の伝統には、霊性のすべてを静かにお映しになる二つの大きな曼荼羅がございます。胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)金剛界曼荼羅でございます。
胎蔵界は、慈悲のお世界をお表しになります ― あらゆる御方が同じみ本に養われている、お母さまの胎内のように、というお働きでございます。開き、育み、なってゆくお力。お中央に大日如来様がおられ、その周りに幾百の仏様、菩薩様、護法のお方々がそれぞれのお場所に座しておられます ― それぞれが同じ普遍のお力の、一つひとつのお顔でいらっしゃいます。
金剛界は、智慧のお世界をお表しになります ― ダイヤモンドのように壊れることのないお清らかさでございます。お明らかさ、構造、ご気づきのお働き。こちらにも大日如来様がお中央におられますが、そのご配置は幾何学的に、水晶のように整えられております。

これらの曼荼羅にお姿を現される御方は、どなたも御本尊となられます。お祭壇の上の御本尊は、気まぐれにお選びになるものではございません ― 宇宙の御縁の網のなかに、それぞれのお場所がございます。観音様をご自宅の御本尊にお祀りされる方は、お一つのお姿だけをお敬いになっておられるのではなく、曼荼羅のなかでお示しになっておられる普遍の真実のあるお側面を、お敬いになっておられるのでございます。お祭壇は、小さなる曼荼羅となります ― 大いなるものを静かに映す小宇宙でございます。
御本尊は宗教的な道具ではございません。門でございます。お祭壇を通して、曼荼羅の宇宙のお秩序が日々のお暮らしのなかにお入りになります。ご自身のお部屋がお寺となり、毎日のお務めが聖なるものとのお出会いとなるのでございます。
お祭壇に現れる五大 五大
真言の伝統のなかでは、お祭壇の上の何もかもが偶然ではございません。一つひとつが、五つの大いなる要素 ― 五大(ごだい)五大 ― のうちのお一つを担っておられます。日本の宇宙観のなかで、真実を形づくる本でございます。地地、水水、火火、風風、空空でございます。
五つの要素がそろいますと、部分を足したものを越える何かが静かに立ち現れます。日本ではこれを曼荼羅と申します ― 真実の整えられたお姿でございます。お祭壇は世界の小さなる映しとなり、その前に坐される方は、その世界のお中央にお坐りになるのでございます。

仏壇 ― 暮らしのなかのお祭壇 仏壇
日本では、ご家庭のお祭壇を仏壇(ぶつだん)仏壇と申しあげます ― 文字どおり「仏様のお壇」でございます。伝統的な日本のお家には、ほとんどに仏壇がございます。大切なお部屋に置かれ、ときには床の間のなかに納められます。その前でお祈り申しあげ、お線香をたて、ご家族がお静かに坐します。
仏壇は博物館ではございません。生きておられるお場でございます。毎日、きれいなお水をお供えし、お花がしおれればお取り替えになります。ろうそくに火をともし、また消します。これらの毎日のお務めは義務ではなく、調べでございます。お仕事の仕方を越える、一日のお形を整えてくださいます。朝は目覚まし時計から始まるのではなく、お線香をおたきになるところから始まるのでございます。
真言の伝統のなかでは、仏壇はさらにもう一つお奥へお入りになります。ご先祖様をしのぶお場であるだけでなく、御行のお場でいらっしゃいます。お祭壇の前で瞑想させていただき、お祭壇の前で真言をお唱え申し、お祭壇の前で印をお結びになります。仏壇は三つの密かなるもの ― お身体、お言葉、お心 ― が静かに合わさるお場でございます。
真言霊気のなかでの個のお祭壇 靈氣
真言霊気のなかでは、個のお祭壇が大切なお働きをいたします。義務ではございませんが、修めておられる方々の多くが、ごく自然な歩みとしてお祭壇をお持ちになります。御行のお歩みのなかで、霊性のご体験に具体的なお場をお差しあげたい、というお気持ちが静かに湧き上がってまいります。なされなければならないからではなく、しっくりおさまるお感じが生まれてくるからでございます。
日本の伝統のなかで、お祭壇は「建てる」ものではございません。お育ちになっていくものでございます。御行とともに育っていくものでございます。お静かなる場所に、まずろうそくが一つ。やがてお線香が添えられ、ある日にお姿が ― 悉曇のお字であったり、大日如来様のお姿であったり、お書きの掛け軸であったり ― が加わってまいります。お祭壇は歩みを静かにお映しになります。進むべき方向を示すのではなく、ご自身がいまどこにおられるかを静かにお示しになるのでございます。
お祭壇に何がお姿を現しになるかよりも、どのようなお心持ちでお向かいになるかが、ずっと大切でございます。真言宗にはこのために加持(かじ)加持というお言葉がございます ― 普遍のお力と、受けとめさせていただく器との、静かなお働き合いでございます。お祭壇は、御行される方がお差しになるものをお受けになります ― お気持ち、お静けさ、お在りようでございます。そして御方に必要なるものを静かにお返しになります ― 中心に戻られるお力、お明らかさ、お結びでございます。
西洋では「お祭壇を正しく整えるにはどうすればよろしゅうございますか」とお尋ねされます。日本では「ご自身の御本尊とは、どのようなお結びでございますか」とお尋ねされます。このちがいは、大切でございます。お並べ方や規則のお話ではなく、お出会いのお話でございます。お祭壇が生きておられるのは、お結びが生きておられるからでございます。
加持 ― お祭壇がお応えくださるとき 加持
御行される多くの方々が、ある瞬間のお話をされます。お祭壇の前にお坐りになります。お線香に火をおつけになります。お手を合わせるか、印をお結びになります。そして ― お静けさ。不在のお静けさではなく、臨在のお静けさでございます。何かが、おられます。何かが、お応えくださっておられます。
真言の伝統のなかで、これは偶然でも思い込みでもございません。加持(かじ)でございます ― 加(か)加(普遍のお力が降ってこられること)と、持(じ)持(御行される方がお受けとめになること)との、静かなお働き合いでございます。真言宗のお開きでいらっしゃる弘法大師は、これを宇宙の仏様と御行される方とのお出会いとお表しになりました ― 抽象的なお考えではなく、体でお感じいただけるご体験でいらっしゃいます。
御本尊は、加持が静かに起こるお場でございます。唯一のお場ではございませんが、もっとも自然なお場でございます。五大がそろい、お線香でお場が清められ、儀礼でお心が整えられているからでございます。お祭壇は条件を整えてくださいます。そのあとに起こるお働きは、お言葉を越えております。
細かいお話 ― どの仏様がお祭壇にお姿を現しになりうるのか、どのような儀礼をお祭壇の前でなさせていただくのか、御本尊と伝授とがどのようにお結びになっておられるのか ― は、直のお出会いのなかで、人から人へと、幾世紀にもわたり静かにお伝えされてまいりました。
ここに記させていただけることは、これだけでございます。これらのお言葉を読まれて、何かをお感じになったとしたら ― あこがれ、湧き上がるもの、聖なる場へのお静かなる引き合い ― 御本尊はすでに、その方のお暮らしのなかでお働き始めておられるのかもしれません。物としてではなく、その御名前のとおり ― お敬い申しあげるのを静かにお待ちくださっておられる、尊き本なるお方として。