京都のある真言宗のお寺に、ほの暗ぐらい小ちいさなお部屋へやがございます。線香せんこうがほのかにくゆり、ろうそくの灯ひりが金きんに塗ぬられた木彫もくちょうのお姿すがたを静しずかに照てらしております。お水みずのお椀わん、いきいきとしたお花はな、お果物くだものが一ひとつ。派手はでさはございません。けれど、このお部屋にお入はいりになる方かたはすぐにお感かんじになります ― ここは何なにかが違ちがう、ここには中心ちゅうしんがある、と。

そこに祀まつられておりますお方かたを 御本尊 ― 御本尊ごほんぞん ― と申もうしあげます。西洋せいようでいう「祭壇さいだん」よりも、はるかに深ふかいお働はたらきを担になっておられます。目めに見みえる世界せかいと目めに見みえない世界せかいとが、静しずかに触ふれあう場所ばしょでございます。真言の伝統でんとうのなかで、御本尊はあらゆる御行ごぎょうのお心臓しんぞうでございます。建物たてものでも、儀礼ぎれいでもなく ― お祭壇でございます。

マーク・ホサック博士の悉曇のお書き ・ 御本尊にお祀りされる文字
悉曇 ・ 御本尊にお祀まつりされる梵字ぼんじ

三つの漢字 ― 御本尊とはどのような意味でございますか 御本尊

御
御(ご) ― お敬うやまいを表あらわす接頭せっとうのお文字もじでございます。御神体(ごしんたい)(神道しんとうのお社やしろに宿やどる神様のお身体)や御影(ごえい)(尊たっとき御姿みすがた)にも用もちいられます。御の文字もじがそえられるところから、聖せいなるご領域りょういきが静しずかに始はじまるのでございます。
本
本(ほん) ― 根源こんげん、本もと、真しんのもの。日本 日本 という御国みくにのお名前なまえにもございます ― 「太陽たいようの本もと」。本はお始はじめの地点ちてんを表あらわすのではなく、核かくを ― あらゆるものが湧わき出でて、あらゆるものが還かえっていく、その本もとを静しずかに表あらわします。
尊
尊(そん/ぞん) ― お敬うやまい申もうしあげる御方おかた、尊たっとき御存在ごそんざい。仏教では尊(そん)はお敬うやまいの対象たいしょうとなる御存在ごそんざいを意味いみします。本尊(ほんぞん)とは「本来ほんらいのお敬うやまいの対象たいしょう」 ― あらゆる御行ごぎょうがそのまわりを静しずかに巡めぐる、お中心ちゅうしんのことでございます。

合あわせて 御本尊 ― 「尊たっとき本来ほんらいのお敬うやまいの御方おかた」。御本尊はただのお祭壇さいだんではございません。お中心ちゅうしんとなる霊性れいせいのお力が祀まつられ、お感かんじいただける場所ばしょでございます。真言宗のお寺ごとに、御本尊はその中心ちゅうしんとなるお方かた ― すべてが整ととのえられる軸じくでございます。

あらゆる仏様が御本尊となられます 仏

真言の伝統でんとうのなかには、唯一ゆいいつの御本尊というものはございません。お寺ごとに、それぞれの御本尊がいらっしゃいます。京都の東寺とうじでは薬師如来(やくしにょらい)薬師如来 ― お医いやしと内うちなる光ひかりの仏様 ― がお祀まつりされております。高野山こうやさんの金剛峰寺こんごうぶじでは大日如来(だいにちにょらい)大日如来 ― あらゆるものが湧わき出でる宇宙うちゅうの仏様 ― がご本尊ほんぞんでいらっしゃいます。

ここに大切たいせつなお気きづきがございます。真言宗のなかでは、あらゆる仏教のお方かた ― 仏様、菩薩様、明王様 ― がお本尊となりうるのでございます。御本尊をお選えらびすることは義務ぎむではなく、お結むすびでございます。修行しゅぎょうされる方かたがご本尊をお選えらびになるのではなく、ご本尊のほうから静しずかにお呼よびになる ― あるいは、共鳴きょうめいが自おのずから生うまれる、と申もうしあげたほうが近ちかいかもしれません。慈悲じひの菩薩・観音様観音に深ふかいお結むすびを感かんじる方かたもいらっしゃいます。不動ふどうの智慧ちえ・不動明王様不動明王に結むすびをお感かんじになる方かたもいらっしゃいます。武人ぶじんと旅人たびびとのお守まもり・摩利支天様摩利支天に結むすびをお感じになる方もいらっしゃいます。

ご自宅じたくの個このお祭壇 ― ご個人こじんの御本尊 ― は、このお結むすびを静しずかに映うつします。飾かざりものではございません。ご自身の霊性れいせいのお結むすびに、身みを置おく場所ばしょを静しずかに差さしあげる ― それが御本尊のお働きでございます。

「御本尊は家具かぐではございません。お約束やくそくでございます。『ここに坐すわらせていただきます。ここで開ひらかせていただきます。ここで、大おおいなるお方かたとお会あいさせていただきます』とお伝えする場所ばしょでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

両界りょうかい曼荼羅まんだら ― 胎蔵界たいぞうかいと金剛界こんごうかい 曼荼羅

御本尊のお働きをご理解りかいいただくには、曼荼羅をお知しりいただくのがよろしゅうございます。真言の伝統でんとうには、霊性れいせいのすべてを静しずかにお映うつしになる二ふたつの大おおきな曼荼羅がございます。胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)金剛界曼荼羅でございます。

胎蔵界たいぞうかいは、慈悲じひのお世界をお表あらわしになります ― あらゆる御おん方かたが同おなじみ本もとに養やしなわれている、お母かあさまの胎内たいないのように、というお働はたらきでございます。開ひらき、育はぐくみ、なってゆくお力。お中央ちゅうおうに大日如来様がおられ、その周まわりに幾百いくひゃくの仏様、菩薩様、護法のお方々かたがたがそれぞれのお場所ばしょに座ざしておられます ― それぞれが同おなじ普遍ふへんのお力の、一ひとつひとつのお顔かおでいらっしゃいます。

金剛界こんごうかいは、智慧ちえのお世界をお表あらわしになります ― ダイヤモンドのように壊こわれることのないお清きよらかさでございます。お明あきらかさ、構造こうぞう、ご気づきのお働はたらき。こちらにも大日如来様がお中央ちゅうおうにおられますが、そのご配置はいちは幾何学的きかがくてきに、水晶すいしょうのように整ととのえられております。

歴史ある悉曇の写本 ・ 正中元年(1321) ・ 金剛界曼荼羅
悉曇 ・ 正中元年(1321)の写本しゃほん

これらの曼荼羅にお姿すがたを現あらわされる御方おかたは、どなたも御本尊となられます。お祭壇さいだんの上の御本尊は、気きまぐれにお選えらびになるものではございません ― 宇宙うちゅうの御縁ごえんの網あみのなかに、それぞれのお場所ばしょがございます。観音様をご自宅じたくの御本尊にお祀まつりされる方かたは、お一ひとつのお姿すがただけをお敬いになっておられるのではなく、曼荼羅のなかでお示しになっておられる普遍ふへんの真実しんじつのあるお側面そくめんを、お敬いになっておられるのでございます。お祭壇は、小ちいさなる曼荼羅となります ― 大おおいなるものを静しずかに映うつす小宇宙しょううちゅうでございます。

核かくとなる思おもい

御本尊は宗教的しゅうきょうてきな道具どうぐではございません。門もんでございます。お祭壇を通とおして、曼荼羅の宇宙うちゅうのお秩序ちつじょが日々ひびのお暮くらしのなかにお入はいりになります。ご自身のお部屋へやがお寺となり、毎日まいにちのお務つとめが聖せいなるものとのお出会であいとなるのでございます。

お祭壇に現あらわれる五大ごだい 五大

真言の伝統でんとうのなかでは、お祭壇の上の何なにもかもが偶然ぐうぜんではございません。一ひとつひとつが、五いつつの大おおいなる要素ようそ ― 五大(ごだい)五大 ― のうちのお一ひとつを担になっておられます。日本の宇宙観うちゅうかんのなかで、真実しんじつを形かたちづくる本もとでございます。地ち地、水すい水、火か火、風ふう風、空くう空でございます。

地
地(ち) ― お祭壇の御お花はなやお果物くだもので表あらわされます。固かたく、根ねを持もつもの。地ちから育そだち、地ちへお還かえりになる、いのちの本もと。御本尊にお供そなえされるお花は飾かざりではなく、大地だいちそのもの ― あらゆるいのちの礎いしずえを静しずかにお担にないになります。
水
水(すい) ― きれいなお水みずのお椀わんが、伝統的なお祭壇には必かならずございます。お水は清きよめ、流ながれ、変かわってゆくお力。どんな形かたちにもなり、それでいてお姿すがたを失うしなわれません。儀礼ぎれいのなかでは、お心こころのお清らかさを ― 執とらわれから離はなれた、静しずかなる湖みずうみのようなお姿すがたを ― 象徴しょうちょうなさっておられます。
火
火(か) ― ろうそくでございます。闇やみを静しずかに抜ぬけてくる光ひかり。変容へんようのお力。真言の伝統でんとうのなかで、火は護摩(ごま)護摩のお力でいらっしゃいます ― 儀礼ぎれいの火のなかで、お執とらわれが静しずかに燃もえていきます。お祭壇のろうそくは、その大おおいなる儀礼ぎれいのお響ひびき ― お部屋へやを静しずかに変かえてくださる小ちいさな火でございます。
風
風(ふう) ― お線香せんこうのお煙けむりでございます。立たち昇のぼり、動うごき、広ひろがってゆく ― 目めに見みえるお姿すがたになられた風かぜでございます。お香こうがお部屋へやのすみずみまで染しみわたり、場ばを整ととのえてくださいます。日本のお寺では、お煙は御行ごぎょうに先立さきだってお場ばをお清めくださると申もうします。目めに見みえるものと見みえないものとの、お橋渡はしわたしでございます。
空
空(くう) ― あらゆるものを包つつみこむお働はたらき。何なにもないというお意味ではなく、あらゆるものが立たち現あらわれる、開ひらけたるお場ばでございます。お祭壇では、空はお場ばそのもの ― 物ものと物ものとのあいだの静しずかなご領域りょういきでございます。あらゆるものをお担にないになる、お空くう。五いつつめのお要素は具体ぐたいのお姿すがたを必要ひつようとされません ― お物ものと物もののあいだのお働はたらきでいらっしゃいます。

五いつつの要素ようそがそろいますと、部分ぶぶんを足たしたものを越こえる何なにかが静しずかに立たち現あらわれます。日本ではこれを曼荼羅と申もうします ― 真実しんじつの整ととのえられたお姿すがたでございます。お祭壇は世界せかいの小ちいさなる映うつしとなり、その前に坐ざされる方かたは、その世界せかいのお中央にお坐りになるのでございます。

日本の歴史的な仏様の曼荼羅
曼荼羅 ・ 真実しんじつの整ととのえられたお姿すがた

仏壇ぶつだん ― 暮くらしのなかのお祭壇 仏壇

日本では、ご家庭かていのお祭壇を仏壇(ぶつだん)仏壇と申もうしあげます ― 文字もじどおり「仏様のお壇だん」でございます。伝統的でんとうてきな日本のお家うちには、ほとんどに仏壇ぶつだんがございます。大切たいせつなお部屋へやに置おかれ、ときには床とこの間まのなかに納おさめられます。その前まえでお祈いのり申もうしあげ、お線香をたて、ご家族かぞくがお静しずかに坐ざします。

仏壇ぶつだんは博物館はくぶつかんではございません。生いきておられるお場ばでございます。毎日まいにち、きれいなお水をお供そなえし、お花がしおれればお取とり替かえになります。ろうそくに火ひをともし、また消けします。これらの毎日まいにちのお務つとめは義務ぎむではなく、調しらべでございます。お仕事しごとの仕方しかたを越こえる、一日いちにちのお形かたちを整ととのえてくださいます。朝あさは目覚めざまし時計どけいから始はじまるのではなく、お線香をおたきになるところから始はじまるのでございます。

真言の伝統でんとうのなかでは、仏壇ぶつだんはさらにもう一ひとつお奥おくへお入はいりになります。ご先祖せんぞ様をしのぶお場ばであるだけでなく、御行ごぎょうのお場でいらっしゃいます。お祭壇の前で瞑想めいそうさせていただき、お祭壇の前で真言をお唱となえ申もうし、お祭壇の前で印いんをお結むすびになります。仏壇ぶつだんは三みっつの密ひそかなるもの ― お身体からだ、お言葉ことば、お心こころ ― が静しずかに合あわさるお場ばでございます。

「深ふかみへとお進すすみになるのに、お寺は必要ひつようではございません。『ここは聖せいなる地ちでございます』とお伝えしてくれる場所ばしょが必要ひつようでございます。そして、その場所ばしょはご自身の御手みてでおつくりになれます。」 マーク・ホサック博士はかせ

真言霊気のなかでの個このお祭壇 靈氣

真言霊気のなかでは、個このお祭壇が大切たいせつなお働きをいたします。義務ぎむではございませんが、修おさめておられる方々かたがたの多おおくが、ごく自然しぜんな歩あゆみとしてお祭壇をお持もちになります。御行ごぎょうのお歩みのなかで、霊性れいせいのご体験たいけんに具体的ぐたいてきなお場をお差さしあげたい、というお気持きもちが静しずかに湧わき上あがってまいります。なされなければならないからではなく、しっくりおさまるお感かんじが生うまれてくるからでございます。

日本の伝統でんとうのなかで、お祭壇は「建たてる」ものではございません。お育そだちになっていくものでございます。御行ごぎょうとともに育そだっていくものでございます。お静しずかなる場所ばしょに、まずろうそくが一ひとつ。やがてお線香が添そえられ、ある日にお姿すがたが ― 悉曇のお字じであったり、大日如来様のお姿であったり、お書かきの掛かけ軸じくであったり ― が加くわわってまいります。お祭壇は歩あゆみを静しずかにお映うつしになります。進すすむべき方向ほうこうを示しめすのではなく、ご自身じしんがいまどこにおられるかを静しずかにお示しになるのでございます。

お祭壇に何がお姿すがたを現あらわしになるかよりも、どのようなお心持こころもちでお向むかいになるかが、ずっと大切たいせつでございます。真言宗にはこのために加持(かじ)加持というお言葉ことばがございます ― 普遍ふへんのお力と、受うけとめさせていただく器うつわとの、静しずかなお働はたらき合あいでございます。お祭壇は、御行ごぎょうされる方かたがお差さしになるものをお受けになります ― お気持きもち、お静しずけさ、お在ありようでございます。そして御方おかたに必要ひつようなるものを静しずかにお返かえしになります ― 中心ちゅうしんに戻もどられるお力、お明あきらかさ、お結むすびでございます。

視点してんの転てんじ

西洋では「お祭壇を正ただしく整ととのえるにはどうすればよろしゅうございますか」とお尋たずねされます。日本では「ご自身の御本尊とは、どのようなお結むすびでございますか」とお尋ねされます。このちがいは、大切たいせつでございます。お並ならべ方かたや規則きそくのお話ではなく、お出会であいのお話でございます。お祭壇が生いきておられるのは、お結びが生いきておられるからでございます。

加持 ― お祭壇がお応こたえくださるとき 加持

御行ごぎょうされる多おおくの方々かたがたが、ある瞬間しゅんかんのお話はなしをされます。お祭壇の前にお坐すわりになります。お線香に火をおつけになります。お手てを合あわせるか、印をお結びになります。そして ― お静しずけさ。不在ふざいのお静けさではなく、臨在りんざいのお静けさでございます。何なにかが、おられます。何なにかが、お応えくださっておられます。

真言の伝統でんとうのなかで、これは偶然ぐうぜんでも思おもい込こみでもございません。加持(かじ)でございます ― 加(か)加(普遍ふへんのお力が降くだってこられること)と、持(じ)持(御行ごぎょうされる方かたがお受うけとめになること)との、静しずかなお働はたらき合あいでございます。真言宗のお開きでいらっしゃる弘法大師こうぼうだいしは、これを宇宙うちゅうの仏様と御行ごぎょうされる方かたとのお出会であいとお表あらわしになりました ― 抽象的ちゅうしょうてきなお考かんがえではなく、体からだでお感かんじいただけるご体験たいけんでいらっしゃいます。

御本尊は、加持が静しずかに起おこるお場でございます。唯一ゆいいつのお場ではございませんが、もっとも自然しぜんなお場でございます。五大ごだいがそろい、お線香でお場が清められ、儀礼ぎれいでお心こころが整ととのえられているからでございます。お祭壇は条件じょうけんを整ととのえてくださいます。そのあとに起おこるお働はたらきは、お言葉ことばを越こえております。

細こまかいお話 ― どの仏様がお祭壇にお姿すがたを現あらわしになりうるのか、どのような儀礼をお祭壇の前でなさせていただくのか、御本尊と伝授でんじゅとがどのようにお結むすびになっておられるのか ― は、直じかのお出会であいのなかで、人ひとから人ひとへと、幾世紀いくせいきにもわたり静しずかにお伝つたえされてまいりました。

ここに記しるさせていただけることは、これだけでございます。これらのお言葉ことばを読よまれて、何なにかをお感かんじになったとしたら ― あこがれ、湧わき上あがるもの、聖せいなる場ばへのお静しずかなる引ひき合あい ― 御本尊はすでに、その方かたのお暮くらしのなかでお働はたらき始はじめておられるのかもしれません。物ものとしてではなく、その御名前みなまえのとおり ― お敬うやまい申もうしあげるのを静しずかにお待まちくださっておられる、尊たっとき本もとなるお方かたとして。

道みちをお感かんじいただく

真言霊気へのお入はいり口ぐち

御本尊のお深ふかみは、生いきた御行ごぎょうのなかで静しずかに開ひらかれてまいります。どのお入はいり口ぐちがご自身に合あっておられるか、静しずかにお確たしかめください。

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