源を必要としないお光がございます。影を落とすことなく、燃えつきることもないお光。真言の伝統のなかで、そのお光には大光明(だいこうみょう)大光明というお名前がございます ― 「大いなる明らかな光」でございます。多くの象徴のなかの一つではございません。象徴でございます。霊気の体系のお心臓。すべてが静かに集まる場でございます。
西洋では大光明は「マスターシンボル」と呼ばれてまいりました ― 第三の段階でお受けする象徴、霊気の伝授のいただきとして。けれど、そのご説明はおもてに触れるだけかもしれません。三つの漢字のうしろに、真言の密教のまんなかへの直のお結びが静かに息づいております ― 大日如来大日如来、真言の宇宙の仏尊、宇宙ぜんたいに染みわたるそのお光へのお結びでございます。

大光明の漢字 大光明
合わせますと 大光明 ― 「大いなる明らかな光」でございます。限りないお光(大)、輝きまわるお光(光)、すべてに染みわたるお光(明)。これは譬えではございません。真言の伝統では、大光明は真理のご本性そのもののお名前でございます ― すべての根もとに息づくお光、生まれたことも消えることもないお光でございます。
大光明はほかの象徴の「アップグレード」ではございません。すべての象徴がそこから静かに流れていく源でございます。直霊、静平気、本者是正念 ― そのいずれも、この一つのお光のご側面でございます。同じダイヤモンドの面でございます。師伝の象徴は、ダイヤモンドそのものを静かに映しだしてくれます。
大日如来 ― 宇宙の仏尊 大日如来
大光明をご理解させていただくには、大日如来を静かにご理解させていただかなくてはなりません。そして大日如来を静かにご理解させていただくには、「仏」というお言葉についてご存じだったすべてを静かに手放してくださることが必要かもしれません。
大日如来大日如来 ― 文字どおり「大いなる日のごとき如来」 ― は、歴史のなかで歩かれた釈尊のような方ではいらっしゃいません。真言の密教の宇宙の仏尊 ― 法身(真理のお身体)でいらっしゃいます。大日如来はどこか「上のほう」にいらっしゃるのではございません。宇宙そのもののご本性でいらっしゃいます。原子のひとつひとつのなかに輝かれるお光でございます ― 息のひとつひとつのなかに、瞬間のひとつひとつのなかに。
サンスクリットでは マハーヴァイローチャナ ― 「大いに輝かれる方」でいらっしゃいます。そのお光はあらゆる処に届かれます。届かない処はございません。除かれる御方はいらっしゃいません。大日経(だいにちきょう)大日経 ― 真言の根本の経典のなかで ― 宇宙ぜんたいが大日如来のお身体であると静かに説かれております ― ひとつひとつの山、ひとつひとつの川、ひとりひとりの御方、いきものひとつひとつ。

大光明 ― 「大いなる明らかな光」 ― が霊気のなかで用いられるとき、抽象的な象徴が描かれているのではございません。すべてに染みわたるそのお光とのお結びが静かに立ちあがっているのでございます。宇宙そのものでいらっしゃるお力とのお結びでございます。真言の伝統のなかで、このお結びは修行すべての奥のお願いでございます ― ご自身の仏性が大日如来と同じであるというお気づきでございます。似ているのではございません。同じでございます。
悉曇の阿と阿字観 阿字観
真言の修行のまんなかに、すべてを一つの点に静かに集めてくださる瞑想がございます ― 阿字観(あじかん)阿字観、悉曇の音「阿」を静かに観じる瞑想でございます。悉曇文字で書かれるこの音は、大日如来の種字(ビージャ)でございます。
「阿」は最もはじめの音でございます。原初の音でございます。インドの伝統のなかで「阿」は、すべてのほかの音がそこから静かに立ちあがる音でございます ― 文字のはじまり、言葉のはじまり、意識のはじまり。真言の密教のなかで「阿」は存在の本を表します ― 本不生(ほんぷしょう)本不生、「本来生まれざる」というお真理でございます。存在するすべてが、そのご本性において生まれず、消えないというお気づきへの静かな入口が、悉曇の「阿」でございます。
阿字観のなかで修行者は、月輪と蓮華に囲まれた悉曇の「阿」のお姿の前に静かに坐します。その文字を静かに観じます。息とともにお迎えします。その文字と静かに溶けあっていきます。そしてそのご瞬間に、真言の伝統が 即身成仏(そくしんじょうぶつ)即身成仏と呼ぶことが静かに立ちあがるかもしれません ― このお身体のままで、この命のなかで仏のご本性が姿を現される、というお気づきでございます。
大光明と阿字観のお結びは直でございます。両者とも同じところを向いておられます ― 大日如来のお光、すべての御方のなかに息づくお光のことを。阿字観はそのお光への瞑想のお道でございます。大光明はそのお光のお名前でございます。真言霊気のなかで、その両方の流れがひとつに結ばれていくのでございます。
「マスターシンボル」では収まりきれないお姿 師
西洋の霊気のなかで、大光明は「マスターシンボル」と呼ばれてまいりました ― 第三の段階を表す象徴、伝授のいただきのお名前として。このお名前はわかりやすいものですが、視野を狭めてしまうことがあるかもしれません。「マスター」という言葉は上下を思わせます ― ほかの御方より高いところに立たれる御方を、と。
真言の伝統のなかで、師のお姿は別のお意味を担っております。ほかの御方を支配することではございません。ご自身のご本性に静かに気づかれることでございます。お光を外に探すのではなく、内に静かに見いだされたからでございます。大光明のお意味での「師」とは、大いなる明らかな光をご自身のなかに静かに気づかれた御方 ― そしてそれゆえにほかの御方のなかに静かに呼びさましをお手伝いできる御方のことでございます。
大光明は勲章ではございません。位でも、肩書きでもございません。ご体験でございます ― 宇宙を染めるそのお光と、ご自身のお胸のなかのお光とが同じであるというご体験でございます。そのご体験はすべてを静かに変えてしまうことがあるかもしれません。新しい何かをいただくからではなく、常にそこに息づいていたものに、静かに気づかれるからでございます。
西洋では「いつわたしは霊気のマスターになるのでしょうか」とお尋ねします。日本の伝統では「いつわたしは、お光から分かれているという感じをそっと手放すのでしょうか」とお尋ねします。大光明はそのお答えでございます ― 言葉としてではなく、ご体験として。お光はずっとそこに居られたのでございます。ご自身は分かれていらっしゃらなかったのでございます。ただ、眼を向けることをお忘れになっておられただけでございます。
曼荼羅の次元 ― 胎蔵界と金剛界 曼荼羅
真言の密教には、大きな曼荼羅が二つございます ― 大日如来のお視点から宇宙をお表しになる宇宙の地図でございます。両方のまんなかには同じ仏尊がいらっしゃいます ― 大日如来。すべてに染みわたるそのお光でございます。
胎蔵界曼荼羅胎蔵界曼荼羅 ― 「いのちの蔵の曼荼羅」 ― は、蓮華のように静かに開かれていく宇宙を表しております。大日如来がまんなかに坐され、そのご側面を体現される菩薩、明王、諸尊が静かに取り巻いておられます。これは慈悲のお働きをお表しになります ― まんなかから外へとお輝きになるお力でございます。
金剛界曼荼羅金剛界曼荼羅 ― 「ダイヤモンドの曼荼羅」 ― は、九つの場から成る幾何学的な構造として宇宙をお表しになります。ここでもまんなかには大日如来がいらっしゃいます。けれどここでは、智慧のお働きが静かにお表しになっております ― 目覚めたお心の、壊れることのない清みわたりでございます。

大光明は、両曼荼羅が静かに出会うお場でございます。慈悲と智慧を結びます。いのちの蔵とダイヤモンドを。愛のやわらかなお力と、気づきのきっぱりとした清みわたりを。真言の伝統のなかで、その両方が必要であると大切に伝えられてまいりました ― 智慧のない慈悲は盲目でございます。慈悲のない智慧は冷たうございます。両者がひとつに結ばれるとき、大いなる明らかな光が静かに立ちあがるのでございます。
大光明と伝授のご体験 灌頂
真言の伝統のなかに、修行者が完全な伝えにお入りになる瞬間を表すお言葉がございます ― 灌頂(かんじょう)灌頂、「いただきにそそぐ」儀礼でございます。修行者が ― 目を覆われたまま ― 曼荼羅のうえに花を静かにお落としになります。花が落ちられた場所が、修行者と特に結ばれた仏尊を静かにお示しになります。目のお覆いが静かにとられます。曼荼羅が静かに立ちあらわれます。そしてそのご瞬間 ― 伝統のお伝えのとおり ― 修行者は大日如来のお眼で宇宙を御覧になることがあるかもしれません。
霊気の場で大光明への伝授をお受けになるとき、その静かなご体験のお香りがそこに息づきます。合格されるご試験ではございません。お取りになる肩書きでもございません。お気づきの瞬間でございます ― 大いなる明らかな光が、もう外のものとして感じられず、御自身のご本性のもっとも奥のところに息づくものとして静かに感じられる、その瞬間でございます。お名前と姿を越えて。
そのご瞬間に起こることは、公開のテキストにはおさめられません。密の伝統のなかで千年を越えて大切に受け継がれてきたとおり、守られた場のなかでの直のお伝えのなかにのみ居場所がございます。ここで申し上げられるのは、静かなお誘いだけでございます ― このお言葉を読まれて、何かをお感じになる方 ― あたたかさ、ひろがり、言葉にできない何かを静かに思いだされる方 ― そのとき、大光明はすでに静かに輝かれておられます。ご自身が働きかけてくださったからではなく、これまで一度も輝くことをやめられなかったからでございます。