静平気(せいへいき)。西洋では「感情かんじょうのための象徴しょうちょう」「メンタルヒーリングのシンボル」として知しられてまいりました。感情かんじょうのとどこおりに、ご不安ふあんに、ご悲かなしみに ― そのように多おおくの本ほんに記しるされてまいりました。多おおくの場ばで、心こころのばんそうこうのように用もちいられております。けれど、そのご説明せつめいはうわべに触ふれているだけかもしれません。

もし、静平気が個別こべつの感情かんじょうを「修理しゅうり」するためのものではなく、お心こころそのものを、本来ほんらいの秩序ちつじょへと静しずかに連つれもどしてくれるものだとしたら ― いかがでしょうか。意識いしきのなかで天てんと地ちが出会であうご秩序ちつじょ。真言しんごんの密教みっきょう、神道しんとう、修験道しゅげんどう、そしてシャーマニズム的てきな道教どうきょうの流ながれのなかで、目覚めざめたお心こころの基もととなるご状態じょうたいとして大切たいせつにされてきたお姿すがたでございます。

静平気 ・ お心がやすらぎへ戻る霊気の象徴
静平気 ・ 霊気の象徴

静平気の漢字かんじ 聖平氣

静平気のお名前なまえは三みっつの漢字かんじから成なっております。それぞれが、それだけで一ひとつの世界せかいでございます。合あわせますと、「感情かんじょうのバランス」というご説明せつめいをはるかに越こえる、静しずかなお話はなしになってまいります。

聖
聖(せい) ― 聖せいなる、賢かしこき、けだかい。聖ひじりや賢人けんじんに用もちいられる文字もじでございます。仏教ぶっきょうのなかで 聖 は、真理しんりを直じかに感かんじとられる御方おかたのご状態じょうたいを表あらわします ― お考かんがえではなく、直じかのお体験たいけんのなかで。神道しんとうのなかで 聖 は、神々かみがみと響ひびき合あって暮くらされるときに静しずかに立たちあがる清きよらかさをあらわします。道徳どうとくの言葉ことばではなく、意識いしきのひとつのご姿すがたでございます。
平
平(へい) ― たいら、おだやか、釣つり合あい、やすらか。ここに静しずかな驚おどろきがございます ― 平 は受うけ身みの言葉ことばではございません。疲つかれきった静しずけさではなく、天てんを映うつす湖みずうみのお静しずけさでございます。日本の文化ぶんかのなかで 平 は、対あい立たいするものたちが静しずかに釣つり合あいに至いたるときのご姿すがたでございます ― なくなるからではなく、互たがいに支ささえあうから。天てんと地ち、陰いんと陽よう、火ひと水みずのように。
氣
氣(き) ― いのちのお力ちから、息いき、宇宙うちゅうのお力ちから。霊気のなかと同おなじ 気 でございます。古ふるい字体じたいでは、お米こめを炊たく湯気ゆげがのぼるお姿すがたを描えがいておりました ― 目めに見みえるものと見みえないものを、同時どうじに。気 は、すべてに染しみわたるお力ちからでございます ― お体からだに、お心に、物事ものごとのあいだの空間くうかんに。

合あわせますと 聖平氣 ― 「聖せいなる、たいらかなお力」あるいは「静しずかで賢かしこいお心のお力」となります。静平気は修理しゅうりの仕掛しかけではなく、状態じょうたいを表あらわしております ― お心が本来ほんらいの秩序ちつじょに静しずかに憩いこうご様子ようすでございます。聖せいなる、たいらかな、いきいきとした。

核かくとなる思おもい

静平気は感情かんじょうを「修理しゅうり」するものではございません。お心に、その本来ほんらいのご姿すがたを静しずかに思おもいださせてくれるかもしれません。天てんと地ちが出会であう静しずけさのなかでございます。そのご姿すがたのなかで、感情かんじょうはおのずから整ととのっていくことがございます ― 抑おえこまれるからではなく、自由じゆうに流ながれていてもよいお場ばが静しずかに立たちあがるから。

真言の密教みっきょう ― お心こころの瞑想めいそう 真言

真言の密教みっきょう ― 「真まことの言葉ことば」のお道みち ― には、千年せんねんを越こえて息いきづくお心のお観み方かたのお道みちがございます。お心は解決かいけつすべき問題もんだいとは見みられておりません。そのご本性ほんしょうにおいてすでに清すみわたっている場ばとして ― 雲くもに覆おおわれていても、天てんであることを止やめない空そらのように、大切たいせつにされてまいりました。

真言の中心ちゅうしんの瞑想めいそうである阿字観(あじかん)阿字観は、まさにこのお働はたらきにそって進すすみます。修しゅう行者ぎょうじゃは悉曇文字もじ「阿あ」 ― すべての存在そんざいの本もととなる音おとを表あらわす文字もじを静しずかに観かんじます。お心はその本もとへと静しずかに戻もどっていきます。思おもいを止とめるためではございません。思おもいのうしろにある場ばを、静しずかに見出みいだすためでございます。

静平気は、まさにこのお道みちに立たっております。心理学しんりがくの道具どうぐではなく、瞑想めいそうのお体験たいけんへの門もん ― お心はその奥おくのご本性ほんしょうにおいてすでに清きよらかである、というお体験たいけんへの静しずかな入口いりぐちでございます。傷きずを知しらないからではなく、どの傷きずのうしろにも、触ふれられぬまま残のこっているお場ばが静しずかに息いきづいているからでございます。

「お心は水みずに映うつる月つきのようでございます。水みずは揺ゆれていても ― 月つきはやすらかにとどまっておられます。静平気は、その月つきのことを静しずかに思おもいださせてくれるのでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

真言のお道みちのなかで、お心は戦たたかわれたり、正ただされたりはいたしません。静しずかに眺ながめられるのでございます。古ふるいお寺てらに足あしを踏ふみいれるときと同おなじお心持こころもちで ― 畏おそれと静しずけさと、開ひらかれたお心で。そのお心持ちのなかで、歪ゆがんでいたものが静しずかに整ととのっていくことがあるかもしれません。お力ちからをこめてではなく、ただ居いてくださることによって。

神道と修験道しゅげんどう ― 祓はらいと自然しぜんのお力 祓

神道のなかに、静平気を別べつのお角度かくどから照てらしてくれる言葉ことばがございます ― 祓はらえ祓、清きよめの儀礼ぎれいでございます。祓はらえはよごれを取とり除のぞくこと自体じたいではございません。本来ほんらいの秩序ちつじょを静しずかに取とり戻もどすお働はたらきでございます。神道のなかで「穢けがれ」とは、よごれているということではなく、宇宙うちゅうの秩序ちつじょとのつながりが細ほそくなっている、というお意味いみでございます。祓はらえは、そのつながりを静しずかに結むすびなおしてくれるのでございます。

修験道しゅげんどう ― 神道、真言の密教みっきょう、シャーマニズム的てきな道教どうきょうを結むすぶ山岳さんがくの修行しゅぎょうの道みち ― では、その清きよめは自然しぜんとの直じかのお出会であいを通とおして行おこなわれます。山伏やまぶしは滝たきの下したに立たちます ― 己おのれを鍛きたえるためではなく、本来ほんらいのご本性ほんしょうに属ぞくさないものを、静しずかに洗あらい流ながすために。冷つめたい水みずはそのお道具どうぐでございますが、本当ほんとうのお力ちからは、その働はたらきに身みを委ゆだねる静しずかなご覚悟かくごから生うまれるのでございます。

静平気 ・ 補助線つき
静平気 ・ 補助線

静平気にも、その清きよめのお姿すがたが静しずかに息いきづいております。個こ々の感情かんじょうを「処置しょち」するためのものではなく、結むすびを静しずかに取とり戻もどすためのお働はたらきでございます ― 個人こじんのお心と、宇宙うちゅうの秩序ちつじょのあいだの結むすび。天てん天と地ち地のあいだの結むすび。その結むすびが静しずかに戻もどるとき、ものごとはおのずから整ととのっていくことがございます。

静平気の平は、まさにそのご瞬間しゅんかんを表あらわしております ― お心の表面ひょうめんが静しずかにととのっていく、その瞬間しゅんかんを。空むなしいではなく、透すき通とおるかたちで。天てんを映うつす鏡かがみ。山やまを映うつす湖みずうみのように。

「メンタルヒーリング」では収おさまりきれないお姿すがた 心

西洋では静平気は、しばしばあるお姿すがたに狭せばめて語かたられてまいります。「感情かんじょうのバランス」「心こころのクリアさ」「精神的せいしんてきな支ささえ」。これらの言葉ことばはあやまりではございませんが、宇宙的うちゅうてきな原理げんりを治療ちりょうのための働はたらきへと収おさめなおしてしまうことがあるかもしれません。

日本のこころ心という言葉ことばが、その奥行おくゆきを静しずかに教おしえてくれます。こころはしばしば「心こころ」「胸むね」と訳やくされますが、両方りょうほうを、そしてもう少すこし多おおくを含ふくみます。こころは、考かんがえと感かんじが静しずかに出会であうお場でございます。外そとの世界せかいと内うちの世界せかいが触ふれあうお場ば。日本の伝統でんとうのなかで こころ は個人こじんのものだけではなく、人ひとと宇宙うちゅうのあいだの静しずかな接点せってんでもございます。

静平気がこころに働はたらくとき、それは西洋的せいようてきな意味いみでの「心しん理り」に働はたらくということではございません。お出会であいの場ばに静しずかに働はたらくのでございます。人ひとがご自身じしんを全体ぜんたいの一部いちぶとして感かんじることがある、その場ばを静しずかに開ひらくことがあるかもしれません ― 切きり離はなされておらず、独ひとりでもなく、感情かんじょうと一人ひとりでぽつんと残のこされることもなく、個々ここのお気持きもちよりも大おおきな何なにかに包つつまれていることに、お気きづかれるのでございます。

視点してんの転換てんかん

西洋では「この感情かんじょうをどうやって取とり除のぞくか」とお尋たずねします。日本の伝統でんとうでは「この感情かんじょうはどのようなお場のなかにいてもよいのか」と静しずかにお尋たずねします。静平気は、その場ばを静しずかに開ひらいてくれます。気持きもちそのものを変かえるのではなく、その気持きもちが居いる枠わくを静しずかに変かえてくれるかもしれません。そこに、本来ほんらいのお力が静しずかに息いきづいているのでございます。

シャーマニズムの結むすび ― 天てんと地ち 天地

静平気には、あまりお耳みみにしないご側面そくめんがございます ― シャーマニズム的てきなお姿すがたでございます。日本の霊性れいせいの最もっとも古ふるい層そう ― 仏教よりはるかに古ふるくから ― 人ひとは天てんと地ちのあいだに立たつ御方おかたとして大切たいせつにされてまいりました。シャーマン、巫女みこ、神主かんぬし ― いずれも、世界せかいと世界せかいのあいだの静しずかな接点せってんに立たたれておられました。

シャーマニズム的てきな道教どうきょう ― 朝鮮ちょうせんと中国を通とおして日本にも静しずかに影響えいきょうをおよぼしました ― では、人ひとは小宇宙しょううちゅうとして大切たいせつにされております。お頭あたまは天てんに。お足あしは地ちに。お心 ― こころ ― は、その両方りょうほうが静しずかに出会であわれる点てんにございます。その点てんが釣つり合あっているとき、天てんと地ちのお力ちからは人ひとを通とおして静しずかに流ながれていきます。人ひとそのものが、お通とおり道みちになっていくのでございます。

静平気は、まさにそのお釣つり合あいを表あらわしております。聖 ― 上うえから来くる聖せいなるもの。氣 ― すべてに染しみわたるいのちのお力。そしてそのあいだに 平 ― たいらかな、釣り合いの、静しずかな点てん。象徴しょうちょうは、宇宙の仲立なかだちとなる人ひとのお姿すがたを静しずかに描えがいてくれるのでございます。

マーク・ホサックによる悉曇のお書き
悉曇のお書かき ・ 天と地のあいだの軸じくとしての人ひと

これはたとえ話ばなしではございません。修験道の修行しゅぎょうのなかで、お体は本当ほんとうに天てんと地ちのあいだの軸じくとして体験たいけんされます。山伏は山やまに入はいられ ― 地が天てんに最もっとも近ちかづかれる場ばへ ― 儀礼ぎれいと真言しんごんと瞑想を通とおして、ご自身じしんのお体がお寺てらへとなっていかれます。静平気はそのお体験たいけんを静しずかに担になっております ― 人ひとは宇宙の秩序ちつじょから切きり離はなされてはおらず、その生いきたあらわれそのものである、というご体験たいけんを。

実践じっせんのなかでの静平気 ― 技法ぎほうを越こえて 修行

西洋の「使つかい方かた」の枠わくを越こえて、静平気にどのようにお会あいさせていただけるのでしょうか。真言霊気の伝統でんとうのなかで、象徴しょうちょうは「適用てきようする」技法ぎほうとしては伝つたえられません。身みのうちに静しずかにお迎むかえするご体験たいけんとして伝つたえられます。

その違ちがいは根本こんぽんでございます。技法ぎほうは外そとにとどまります ― 行おこなって、結果けっかを願ねがう。ご体験たいけんはそれをなさる御方おかたを静しずかに変かえます。伝授でんじゅのなかで、静平気は道具どうぐのように「お渡わたし」されません ― すでに修行者しゅぎょうしゃのなかに息いきづくものとして、静しずかにお呼よびさましいたします。伝授でんじゅはその入口いりぐちを静しずかに開ひらきます。続つづきは、実践じっせんのなかで静しずかに育そだっていくのでございます。

日々ひびの実践じっせんのなかで、静平気は瞑想の対象たいしょうとしてお傍そばにおいておくこともできます ― 真言の伝統でんとうでの悉曇文字もじと同おなじように。静しずかに眺ながめさせていただきます。息いきとともに味あじわわせていただきます。ご自身じしんのこころのなかに静しずかに息いきづかせていただきます。そして少すこしずつ、力ちからみのないところで、何なにかが静しずかに整ととのっていくことがあるかもしれません。無理むりに引ひき寄よせたからではなく、整ととのうことができる場ばが静しずかに立たちあがるからでございます。

「静平気は、長ながく閉とざされていたお部屋へやの窓まどを静しずかに開あけるようなものでございます。新あたらしい風かぜは押おしこむから来くるのではございません。道みちを静しずかに開あけるから、来きてくれるのでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

静平気の本ほん当の深ふかみは、直じかな伝授でんじゅのなかで ― 象徴しょうちょうを担になう御方おかたと、受うけとめさせていただく御方おかたのお出会であいのなかで 静しずかにあらわれてまいります。そのお出会であいはブログの記事きじにはおさめられません。ここで申もうし上あげられるのは、静しずかなお誘さそいだけでございます ― 「感情かんじょうのための象徴しょうちょう」のうしろに、気持きもちのお仕事しごとよりも遠とおくまで届とどく何なにかをお感かんじになる方かた ― そのとき、ご自身じしんのこころはすでに静しずかに思おもいだしはじめておられます。お場ばを。静しずけさを。失うしなわれたことのない秩序ちつじょを。

個別こべつのご体験たいけんでございます。 お声こえはそれぞれの方かたの個別こべつのご体験たいけんでございます。結果けっかには個人差こじんさがございます。霊気と霊性れいせいの実践じっせんは、医療いりょうや心理療法しんりりょうほうの代かわりとなるものではございません。
象徴しょうちょうとのお出会であい

真言霊気への心こころの道みち

霊気の象徴しょうちょうは、直じかな伝授でんじゅのなかで、その深ふかみを静しずかにあらわしてまいります。どのお道みちがご自身じしんにとっての静しずかなはじめの場ばになるのか、ご一緒に見みつけてまいりましょう。

真言霊気への心こころの道みち 霊気の象徴しょうちょうすべて