ある方は「儀式ぎしき」とおっしゃいます。ある方は「波長合はちょうあわせ」と呼よばれます。西洋せいようのいくつかの流派りゅうはでは、まるでスイッチを入いれるかのように語かたられることもございます。 けれど、霊気の伝授でんじゅでは、本当のところ、何が起おこっているのでしょうか。そして、このお伝つたえはどこから来たものなのでしょう。

その答えは、はるか遠くまで遡さかのぼってまいります ― インドへ、中国へ、そして日本へ。 そしてその始はじまりは、霊気そのものではなく、もっと古くから息いきづく仏教の儀礼ぎれい ― 灌頂かんじょうに遡さかのぼります。

灌頂かんじょう ― 光ひかりのそそぎ 灌頂

灌頂
灌かん ― そそぐ、水みずをそそぐ、清きよめる。 頂ちょう ― いただき、頭あたまのてっぺん。文字通もじどおり「頭あたまのいただきにそそぐ」という意味いみでございます。 この所作しょさは古代こだいインドにまで遡さかのぼり、王の戴冠たいかんのとき、聖なる水みずがいただきにそそがれたと伝つたえられております。 密教みっきょうのなかで、これは霊性れいせいの儀礼ぎれいへと姿すがたを変かえました ― 師匠ししょうが、お受うけになる方のいただきへ、お力をお伝つたえになるのでございます。

灌頂かんじょうは、密教みっきょうのなかで知られている最もっとも古い、霊性れいせいのお伝つたえのかたちでございます。 インドで生まれ、中国を経へて日本へと渡わたり、今に至るまで真言宗のまんなかにあり続けてまいりました。 日本の真言の祖そ、空海くうかいもまた、805年に中国にて、お師匠ししょうであられる恵果けいかから灌頂かんじょうをお受けになりました。 そしてそのお伝つたえを日本へお持もち帰かえりになり、1200年以上にわたって絶たえることなく受うけ継つがれてきたのでございます。

灌頂かんじょうでは、確たしかなことが静しずかに起おこっております。 師匠ししょうはある霊性れいせいのお力 ― 仏、菩薩ぼさつ、明王みょうおう、守護しゅごのお力 ― と結むすばれ、その結むすびを、お受うけになる方へとお渡わたしになります。 これは象徴しょうちょうの所作しょさではございません。お力の、直接ちょくせつのお渡わたしでございます。 お受うけになった方は、その瞬間しゅんかんから、その結むすびをご自身のうちに携たずさえていらっしゃるのでございます。

マーク・ホサック博士がアイリーンの頭に手を置く ― 霊気の古典的な手の置き方
霊気 ・ 頭あたまに添そえる手て

阿毘遮迦あびしゃか ― インドの源流げんりゅう 阿毘遮迦

この儀礼ぎれいのサンスクリットの呼よび方が、アビシェーカ(阿毘遮迦)でございます。 「そそぐこと」「清きよめること」を意味いみし、もとは王が即位される際の儀礼ぎれいでございました。 聖なる川のお水が王のいただきへとそそがれ、聖せいなる権威けんいがそこに宿やどるとされたのでございます。

仏教の師匠ししょう方は、この姿すがたを受うけ継つぎ、姿すがたを変かえていかれました。 お水のかわりに、霊性れいせいのお力が。世俗せぞくの権威けんいのかわりに、お悟さとりとの結むすびが。 その本質ほんしつは変かわりません ― 上うえから下したへと、何かがお渡わたしになる。源みなもとからお受うけになる方へ。師匠ししょうからお受うけになる方へ。いただきを通とおって。

中心ちゅうしんにあるもの

伝授でんじゅは、知識ちしきのお授さずけではございません。 知ることが渡わたるのではなく、結むすびが結むすばれるのでございます。 お受うけになる方と、その方より先さきからそこにあり、その方の後あともそこにあり続つづけていく霊性れいせいのお力との間あいだに。 ― 知しっていることと、身みに携たずさえていることの違い、と申もうしてもよろしいかもしれません。

伝授でんじゅのとき、何が起おこっているのか 伝法

真言の伝統でんとうでは、伝授でんじゅは三みっつの働はたらきが同時どうじに動うごくものとされてまいりました。 これを 三密さんみつ 三密 ― 三つの奥深おくぶかい働はたらき ― と呼よびます。

身密しんみつ ― 身みの奥深おくぶかき働はたらき

伝授でんじゅされる師しのお手は、印いん(ムドラー)を結むすばれます ― それぞれの印いんは、固有こゆうのお力をかたちにしたものでございます。お受うけになる方の身体からだには、定さだめられたところ ― いただき、額ひたい、喉のど、胸むね ― が静しずかに触ふれられます。それぞれの触ふれが、結むすびを呼よびさますのでございます。

口密くみつ ― 言葉ことばの奥深おくぶかき働はたらき

真言しんごん(マントラ)が声こえに出して、あるいは心こころのうちで唱となえられます。これは西洋せいようの祈いのりとは少すこし違ちがうものでございます ― ある響ひびきを担になう音おとのからだなのでございます。サンスクリットのマントラは「心こころを守まもるもの」を意味いみし、日本語にほんごでは 真言しんごん 真言、真まことのお言葉ことばと申もうします。

意密いみつ ― 心こころの奥深おくぶかき働はたらき

伝授でんじゅされる方は、お渡わたしなさる霊性れいせいのお力を観想かんそうなさいます。悉曇しったんの文字 ― 密教みっきょうに受うけ継つがれてきた聖なる文字もじ ― が内うちなる像すがたに現あらわれます。光ひかりが流ながれます。感かんじられるよりも先さきに、結むすびの姿すがたが立たち現あらわれるのでございます。

身みと言葉ことばと心こころ。三みっつの奥深おくぶかき働はたらきが同時どうじにうごくとき、真言の伝統でんとうのなかで 加持かじ 加持 と呼よばれてきたものが立たち現あらわれます ― 仏のお力と人の心こころとが、互たがいに通とおり合あうのでございます。 伝授でんじゅなさる方は、お力ちからの通かよい路みちとなります。お受うけになる方は、お力ちからを受うける器うつわとなります。

霊授れいじゅ ― 臼井甕男の伝つたえのかたち 霊授

霊授
霊れい ― 霊、霊性れいせいのお力、聖せいなるもの。 授じゅ ― さずける、渡わたす、授さずける。 文字通り「霊性れいせいのお力をお渡わたしになること」でございます。 ― 臼井うすい甕男みかおがご自身の伝授でんじゅのために用いられた、日本の呼よび方でございます。

臼井うすい甕男みかおは灌頂かんじょうの伝統でんとうをご存ぞんじでいらっしゃいました。仏教の実践じっせんを修おさめておられ、密教みっきょうの儀礼ぎれいにも通つうじていらっしゃいました。 そして鞍馬山くらまやまでみずから深ふかい霊性れいせいの体験たいけんをなさったお方でもございます。 ご自身の伝授でんじゅのかたち ― 霊授れいじゅ ― は、灌頂かんじょうのお姿すがたを、ご自身のお方法ほうほうに沿そって静しずかに整ととのえなおしたものでございます。

骨組ほねぐみは同おなじでございます ― 伝授でんじゅなさる方が、お受うけになる方の身体からだのあるところを静しずかに触ふれていらっしゃる。 悉曇しったんの文字や仏教の伝統でんとうから受うけ継つがれてきた象徴しょうちょうがはたらきます。 そして、お受うけになった方が、その瞬間しゅんかんから携たずさえていく結むすびが立たち上あがるのでございます。

「霊授れいじゅは、用もちいる技わざではございません。何かが静しずかに開ひらかれる瞬間しゅんかん ― そして、その後あとはそこにある、というものでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

西洋せいようで変かわってしまったこと 変化

第二次世界大戦だいにじせかいたいせんのあと、霊気が西洋せいようへと渡わたるうちに、伝授でんじゅのお姿すがたはすこしずつ変かわってまいりました。 かたちは残のこったものの、背景はいけいが失うしなわれていったのでございます。 西洋せいようの多おおくの実践者じっせんしゃの方は、伝授でんじゅのときの手てのかたちが印いん(ムドラー)の伝統でんとうから来ていることを知しる機会きかいがございませんでした。 描えがかれる象徴しょうちょうが悉曇しったんの文字を整ととのえたものであること、触ふれられるところが灌頂かんじょうのところと重かさなっていることも、静しずかに忘わすれられていったのでございます。

西洋的せいようてきな実践じっせん

伝授でんじゅはしばしば一度どきりの「アチューンメント」と受うけ取とられます ― スイッチを入いれるように。その後あとは霊気が「できる」のだ、と語かたられます。象徴しょうちょうは抽象的ちゅうしょうてきな道具どうぐとして扱あつかわれ、その由来ゆらいはあいまいなままになっていることもございます。

真言霊気では

伝授でんじゅは、ご関係かんけいのはじまりでございます。象徴しょうちょうは、それぞれの歴史れきしとお力ちからを担になう、生きた御みすがたでございます。伝授でんじゅは一度いちどきりではなく、道みちを歩あゆむなかで結むすびを深ふかめていく節目ふしめでございます。

日本の伝統でんとうでは、霊授れいじゅは一度いちどきりではなく、繰くり返かえしお受うけになるものでございました。 繰くり返かえすたびに、結むすびは深ふかまってまいります。楽器がっきのお稽古けいこのようなもの、と申もうしてもよろしいかもしれません ― 一度どの触ふれではなく、源みなもとと繰くり返かえし出会であうことで、お力は育そだっていくのでございます。

伝授でんじゅのなかの象徴しょうちょう 符号

霊気の象徴しょうちょうは、臼井甕男のご創作そうさくではございません。 悉曇しったんの文字 ― 7世紀にインドから日本へ渡り、密教みっきょうの儀礼ぎれいの礎いしずえとなった聖なる文字もじ ― から受うけ継つがれてきたものでございます。 悉曇しったんの一文字もじ一文字もじが、仏や真言しんごん、お力ちからそのものをお姿すがたにしたものでございます。

真言霊気の伝授でんじゅでは、これらの文字はただ描えがかれるだけではなく、お力が呼よびさまされます。 伝授でんじゅなさる方が文字もじのお力ちからと結むすばれ、それをお受うけになる方へお渡わたしになるのでございます。 この文字もじは、西洋せいようでいうところの「象徴しょうちょう」とは少すこし違ちがいます ― 何かの代かわりでもなく、譬たとえ絵えでもございません。 文字もじそのものがお力ちからでございます。

真言の原理げんり

真言の伝統でんとうでは、文字もじとそれが担になうものとの間あいだに隔へだたりはございません。 悉曇しったんの文字もじはその仏そのものでございます。 伝授でんじゅでその文字もじがはたらくとき、その仏が共ともにいてくださる ― これが、伝授でんじゅがはたらく、もっとも深ふかいゆえんでございます。

真言霊気の道を共に歩む方々の実践の様子
共ともに歩あゆむ場ばでの実践じっせん

段階だんかい ― はしごではなく、道みち 段階

霊気は段階だんかいを追おって受うけ継つがれてまいります。 それぞれの段階だんかいに、新しい伝授でんじゅ、新しい象徴しょうちょう、新しい実践じっせんがございます。 けれど、これは西洋的せいようてきな意味いみでの序列じょれつではございません ― 深ふかまっていく道みちのことでございます。 それぞれの段階だんかいが、すでにそこに備そなわっていたものを、新しい層そうとして静しずかに開ひらいていくのでございます。

はじめの段階だんかい ― 初伝しょでん 初伝

はじめの伝授でんじゅが、通かよい路みちを静しずかに開ひらきます。お手てが働はたらきはじめます。お力ちからを感かんじる方もいらっしゃいます ― おそらくははじめて、意識いしきのうえで。実践じっせんはご自身の身体からだから始はじまります。霊気のお力ちからとの結むすびが立たち上あがります。

二につ目の段階だんかい ― 奥伝おくでん 奥伝

象徴しょうちょうが加くわわってまいります。それぞれの象徴しょうちょうが固有こゆうのお力ちからを担になっております ― お力ちからを強つよめるはたらき、調ととのえるはたらき、時空じくうを越こえて結むすぶはたらき。伝授でんじゅは、お受うけになる方をこれらのお力と結むすびます。実践じっせんはよりこまやかに、より狙ねらいを定さだめて、より深ふかくなってまいります。

さらに奥おくへ ― 神秘伝しんぴでん 神秘伝

師匠ししょうの象徴しょうちょうとのご結むすび。みずから伝授でんじゅをお渡わたしになる力ちから。お力ちからのはたらきへの理解りかいが深ふかまってまいります。実践じっせんは、霊性れいせいのあり方そのものへと静しずかに溶とけ合あっていくのでございます。

真言霊気では、道みちはさらに奥おくへと続つづいてまいります。 仏教の仏尊ぶっそんとのご瞑想めいそう、真言しんごんの唱となえ、印いんのお稽古けいこ、悉曇しったんの文字との深ふかいお仕事しごと。 それぞれの段階だんかいに、新しい伝授でんじゅがございます ― そして、それぞれの伝授でんじゅが、すでにそこにあるものを、より深ふかく静しずかに開ひらいていくのでございます。

伝授でんじゅのなかでの体験たいけん 体験

お一人お一人、伝授でんじゅのなかでの体験たいけんは違ちがっております。 温あたたかさを感かんじる方もいらっしゃいます ― お手てのなかに、いただきの辺あたりに、お身体からだのすべてに。 瞼まぶたの裏うらに色や光ひかりを見みる方もいらっしゃいますし、深ふかい静しずけさ ― これまで感かんじたことのなかった澄すみきった感かんじ ― を味あじわわれる方もいらっしゃいます。 なみだを流ながす方もいらっしゃいます ― 悲かなしみからではなく、長ながく抱かかえていらっしゃった何かが、静しずかにゆるんでいくのを感かんじられて。

「正ただしい」体験たいけんというものはございません。 儀礼ぎれいの最中さいちゅうに何を意識いしきのうえで感かんじておられるかにかかわらず、伝授でんじゅははたらいてまいります。 変かわってまいったものは、しばしば後あとの日々ひびのなかで姿すがたを現あらわします ― お力ちからの感かんじ方かたのなかに、ご自身のお身体にお手てを添そえたときの感かんじのなかに、感受性かんじゅせいの細こまやかさのなかに。

「伝授でんじゅは種たねを蒔まきます。実践じっせんがそれを育そだてます。両りょうそろってひとつのもの ― どちらか一方いっぽうでは、まだ満みちきっていないのでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

伝授でんじゅは本ほんからは渡わたらないということ 直伝

ご自身で身みにつけられるものもございます。瞑想めいそうの本ほんを読よみ、瞑想めいそうを始はじめることもできます。 解剖学かいぼうがくを修おさめて、お身体からだを理解りかいすることもできます。けれど、伝授でんじゅは少すこし違ちがうものでございます。 その結むすびをすでに携たずさえていらっしゃる人がいて、渡わたしてくださる ― それがどうしても必要ひつようなのでございます。

これが系譜けいふということの意味いみでございます。 805年に空海くうかいが恵果けいかからお受うけになったお力ちからは、師匠ししょうからお受うけになる方へ、幾いく世紀せいきにもわたって、大陸たいりくを越こえて、今に至るまで受うけ渡わたされてまいりました。 伝授でんじゅはひとつだけの出来事できごとではなく、源みなもとへと遡さかのぼる鎖くさりのひとつの環わでございます。 ― だからこそ、本ほんからも、動画どうがからも、お渡わたしすることのできないものなのでございます。

直じきのお渡わたし

日本では 直伝じきでん 直伝 ― 直接ちょくせつのお伝つたえ ― と呼よばれてまいりました。 記録きろくを介かいさず、間あいだを挟はさまず。人ひとから人ひとへ、心こころから心こころへ。 ― これが、知識ちしきの受うけ渡わたしとは異ことなる、霊気の伝授でんじゅのいちばんの核かくでございます。

ですから、霊気の伝授でんじゅはいつも、お一人お一人の瞬間しゅんかんでございます。 場ばがいり、静しずかなお支度したくがいり、互たがいの出会であいがいるのでございます。 そして、系譜けいふを携たずさえていらっしゃる方がそこにあって、お力ちからを ― 技わざとしてではなく、生きた体験たいけんとして ― 渡わたしてくださることが、必要でございます。

個人こじんの体験たいけんでございます。 お一人お一人のお声こえは、それぞれの体験たいけんにもとづくものでございます。結果けっかは人によって異なる場合ばあいがございます。霊気のセッションは、医療いりょうや心理しんりの治療ちりょうに代かわるものではございません。
道を歩まれた方々のお声 →
次つぎの一歩いっぽ

真言霊気にお触ふれになる

伝授でんじゅ、瞑想めいそう、実践じっせん ― 日本の伝統でんとうから直じかに。 どの段階だんかいがご自身にとっての静しずかなはじめの場ばになるのか、ご一緒に見みつけてまいりましょう。

真言霊気への心こころの道みち 次つぎのイベント