日本の真言のお寺へはじめて足をお運びになると、思いがけないものに出会います。お祭壇の左右に、二つの大きな掛け軸がかかっております ― 金の輝きをまとい、仏、菩薩、守護の方々で満たされ、幾何学のお形が宇宙の都の地図のように走っております。 ― 二つの大いなる曼荼羅でございます。 その間のお場は、ただの空いた場所ではございません。お実践がはじまる、その場でございます。
西洋では、曼荼羅は色を塗る絵 ― 気を静めるための丸い模様 ― として知られていることが多くございます。 これは、大聖堂を「色つきの窓のすてきな建物」とお呼びになるのに似ております。間違いではございません。けれども大切なものがすべて抜けてしまっております。 真言密教では、曼荼羅は儀礼の図でございます ― 宇宙のすべてを映し、同時にお目覚めのお道を映すお図でございます。
二つのお世界 ― 両部 両部
真言の伝統のまんなかには、二つの大いなる曼荼羅がございます。あわせて 両部 両部 ― 「二つの部」と呼ばれてまいりました。 それぞれが、真の一つの面を映しております。共に合わさって、まったきものとなります。
ひとつめは 胎蔵界曼荼羅 胎蔵界曼荼羅 ― 胎蔵のお世界の曼荼羅でございます。 慈悲のお働き ― ひらかれて育む、宇宙のお母のような面を映しております。 まるで胎のように、すべての命、すべての可能性、すべてのお目覚めのお姿をうちに包んでまいります。 その中央には 大日如来 大日如来 ― 宇宙のお仏様がおいでになり、同心に並ぶ菩薩と守護の方々が、蓮華の花びらのように外へとひらかれてまいります。
二つめは 金剛界曼荼羅 金剛界曼荼羅 ― 金剛のお世界の曼荼羅でございます。 智慧のお働きを映しております ― 毀れることなく、透き通って、金剛石のように切れ味のあるお力です。 胎蔵界が流れて育むのに対して、金剛界は整って明らかでございます。 九つの四角のお場からなり、それぞれにお仏様たちのお集まりが描かれております ― そして、それぞれの中央には、ふたたび大日如来がおいでになります。

真言のお寺では、この二つの曼荼羅がお互いに向かい合っておかけになります。お実践をなさる方は、その間に立ち、お座りになります ― 文字通り、慈悲と智慧のあいだに。 この場のお並びは偶然ではございません。体験そのもののお建てつけでございます ― 二つのお世界の間にお立ちになる方は、真のまんなかにお立ちになっているのでございます。
悉曇 ― 曼荼羅のなかの生きたお字 梵字
大いなる曼荼羅をよくよくご覧になりますと、姿だけではなく、お字もご覧になります。 悉曇 悉曇 ― 密教の聖なるお字 ― が、まるで神経のように曼荼羅のなかを巡っております。 お一人お一人の仏、菩薩、守護の方には、それぞれ固有の悉曇のお字がございます。お音を目に見えるかたちにしたもの、本質をお字に結んだものでございます。
日本の真言の祖 空海は、9世紀に中国からこのお伝えをお持ち帰りになりました。 ― 儀礼とお伝えをお受けになっただけでなく、悉曇のお筆のお道もお受けになりました。 空海にとって、これらのお字は近代的な意味での象徴ではなく、墨のなかに息づくお仏様のお声でございました。 ― 悉曇を書き、唱え、観じる方は、その背にあるお力に触れていらっしゃるのでございます。
曼荼羅のなかでは、悉曇がお仏様のお姿のかわりに置かれていることもございます。 ひとつの曼荼羅そのものが悉曇のお字だけからなることもございます ― 絹の上にお字として描かれた、宇宙のお力のお集まりでございます。 これは簡たんなお姿ではございません ― お音、お姿、お意味がひとつのお字のなかに結ばれてゆく、もう一つのお姿でございます。お実践のなかでは、とりわけ力強くお働きになります。

お身体としての曼荼羅 ― 五輪と霊気のつながり 五輪
真言密教の曼荼羅は、お掛け軸のなかにのみあるのではございません。お身体のなかにもございます。 ― これがおそらく、この伝統のいちばん深い気づきでございます ― お一人のお身体ご自身が曼荼羅であり、宇宙の構造を映す小さな宇宙でございます。
この結びを整えてくださるお道が 五輪 五輪 ― 地、水、火、風、空の五大でございます。 お膝からお足のうらまでが地、お下腹が水、お胸が火、お首が風、お頭のいただきが空。 五大は、それぞれ固有の悉曇のお字、お色、お働きをそなえております。 瞑想のなかでは、これらの悉曇がそれぞれのお場に映されてまいります。お実践をなさる方ご自身が、生きた曼荼羅になられるのでございます。
― そしてここに、霊気との橋が見えてまいります。 臼井甕男がお実践のなかにお結びになった霊気の象徴は、本質的に整った曼荼羅でございます。 ひとつひとつの象徴が、ある質への戸でございます ― お力、調和、遠隔のお働き、師匠の道。 西洋の霊気では、これらの象徴はしばしば抽象的な道具として扱われてまいりました ― 描き、お名前を唱えると、何かが起こる、というように。 ― 真言霊気では、本来の場のなかでお受け取られてまいります。千年以上にわたって磨かれてきた、生きた伝統のなかの、静かに濃く結ばれたお姿として。
曼荼羅は地図でございます。霊気の象徴は鍵でございます。 真言霊気では、その両方が共になります ― 象徴がひらく戸は、大いなる曼荼羅のなかにそのお場を持っております。 場をご存じの方は、象徴を離れたお字としてではなく、生きた宇宙の網のなかへの戸として、お受けになるのでございます。
お実践のなかで本当に何が起こっているのか ― どの悉曇がそれぞれの象徴の背にあるのか、曼荼羅と気のお働きとがどのように結ばれてまいるのか、どの真言とお印がともになるのか ― これらは直接のお伝えに属するものでございます。 整えられたイベントの場に属するものであり、ホームページに属するものではございません。 ― けれども、このお結びがあるということ自体は、秘められた教えではございません。 歴史のなかにたしかに記され、空海のお書のなかに残され、日本のお寺のなかで今に至るまで生きているものでございます。
大日如来 ― 二つのお世界のまんなか 大日
二つの曼荼羅のまんなかには、同じおひとりがおいでになります ― 大日如来 大日如来、宇宙のお仏様。文字通り「大いなる日のお光」でございます。 胎蔵界曼荼羅では、瞑想のお姿でお座りになり、お手は禅定印を結ばれていらっしゃいます ― お受け、お包みになり、お育みになります。 金剛界曼荼羅では 智拳印 をお結びでございます ― 左のお指を右のお拳がお包みになり、智慧と方法がひとつになっております。
大日如来は、多くの仏のうちの一人ではございません。 ― すべての仏が生まれていらっしゃる、その本の働きでございます。 大いなる曼荼羅は、その無限のお働きを映すお姿でございます ― プリズムを通るお光が、幾つもの色に分かれてゆくように。 曼荼羅のなかのお一人お一人の仏は、大日の一つの面でございます。お一人お一人の悉曇のお字は、その固有の音のひびきでございます。
霊気のお実践にとりまして、これは大きな意味を持ちます ― 霊気のお力とともにお働きになるとき、真言の視かたから申すと、その源を大日如来に持つお力とともにお働きになっているのでございます。 これは神学のお考えではございません。20世紀のはじめの日本で息づいておりました ― 密教、修験道、神道、シャーマニズムの道教 ― これらの伝統のなかで、臼井はそのお実践を育まれたのでございます。

真言密教の曼荼羅に心をお寄せになる方は、色を塗る絵や気を静めるお道具のはるか先にある、長い道のはじめにいらっしゃいます。 大いなる曼荼羅は、1200年以上にわたって探られてきた、内なる地理のお地図でございます。 お身体は聖なるお場であること、お字は生きたお力を携えていること、そして霊気は ― 本来のお姿でお受け取るとき ― 慈悲と智慧を瞬間ごとに結ぶ、宇宙のお網の一部であること。 ― 大いなる曼荼羅は、それを静かにお示しになります。