楽(らく)。霊気の象徴しょうちょうのなかで最もっともあまり知しられていない象徴しょうちょうでございます。日々ひびの実践じっせんのなかには姿すがたを現あらわしません。水みずの上うえに描かいたり、お部屋へやに描かいたり、受うけとめになる御方おかたのお体からだに描かいたりするものではございません。伝授でんじゅのなかで、ただ一度いちどだけお会あいいたします。そしてまた静しずかに姿すがたを消けします。まるでもとからなかったかのように。

けれど、たしかにそこに居いられたのでございます。そしてほかのどの象徴しょうちょうもできないことを、静しずかに運はこんでくださいました ― お扉とびらを静しずかに閉とじてくださったのでございます。終おわりという意味いみではなく、封ふうじるという意味いみで。開ひらかれたものを、静しずかに根ねづかせてくださいました。伝つたえられたものを、静しずかに地ちに結むすびつけてくださいました。楽は、伝授でんじゅをお体からだのなかに静しずかに根ねづかせる稲妻いなずまでございます ― 宇宙的うちゅうてきなものが、お身体しんたいとして静しずかに姿すがたをあらわすご瞬間しゅんかんでございます。

HRIH と静平気 ・ 種字と霊気の象徴のお結び
HRIH ・ 静平気と響ひびき合あうお姿すがた

二ふたつの漢字かんじ、一ひとつの音おと 楽 / 洛

楽の不思議ふしぎなところは ― 一ひとつではなく二ふたつの漢字かんじがこのお名前なまえに使つかわれてきたことでございます。両方りょうほうとも、象徴しょうちょうの独自どくじのご側面そくめんを静しずかに映うつしだしてくれます。

楽
楽(らく) ― やすらぎ、軽かろやかさ、ほっとされること、ゆったり。この漢字かんじはたのしい(楽たのしい・愉たのしい)とも読よまれ、雅楽(ががく)雅楽 ― 日本の古ふるい宮廷きゅうていの音楽おんがく ― にも息いきづきます。やすらぎとしての楽は、うわつらの楽たのしさを表あらわすのではございません。重おもたさが静しずかに降おりるときに立たちあがる軽かろやかさを ― 緊張きんちょうのあとの深ふかいお息いきつきを ― 到来とうらいのお姿すがたを表あらわします。
洛
洛(らく) ― 京都の古ふるいお呼よび名な。正確せいかくには洛陽(らくよう)洛陽、中国の古ふるい都みやこ洛陽にちなんでおります。日本では洛はお都みやこ ― 最もっともまんなかにあるお場ば所 ― と同おなじお意味いみになりました。「洛らくへ上のぼる」(上洛・じょうらく上洛)とは、お都みやこへとお入はいりになることでございます。到来とうらいのお言葉ことば ― まんなかへのお到来とうらいでございます。

両方りょうほうのお読よみは不思議ふしぎなほど静しずかに結むすびあいます。楽 ― やすらぎ、軽かろやかさ、お体への到来とうらい。洛 ― まんなかへの到来とうらい、核かくへのお到来とうらい、お力の場ばへのお到来とうらい。楽は、伝授でんじゅのお力が「上うえのほう」に漂ただよっているのではなく、静しずかにここに到来とうらいされる瞬間しゅんかんを表あらわしております。お体からだのなかに。お胸むねのなかに。まんなかに。

核かくとなる思おもい

楽は到来とうらいの瞬間しゅんかんでございます。伝授でんじゅは天てんを静しずかに開ひらいてくださいます ― 楽らくはそのお力を静しずかに地ちへとお戻もどしになります。このご段階だんかいがございませんと、伝授でんじゅは不完全ふかんぜんになりかねません ― 根ねのないお光ひかり、炉ろのないお火ひのままで。楽は、お光ひかりに居場所いばしょを静しずかに差さし上あげてくれるのでございます。

金剛こんごうの稲妻杵いなずまきね 金剛

楽のお姿すがた ― 上うえから下したへと引ひかれるジグザグの線せん ― は稲妻いなずまを思おもわせます。偶然ぐうぜんではございません。タントラの伝統でんとう ― 真言の密教みっきょうと修験道しゅげんどうの一部いちぶがそこから生うまれてまいりました ― のなかに、ひとつの核かくとなる象徴しょうちょうがございます。金剛(こんごう・Vajra)金剛 ― ダイヤモンドの稲妻杵いなずまきねでございます。

金剛こんごうはアジアで最もっとも古ふるい宗教的しゅうきょうてきな象徴しょうちょうのひとつでございます。もとはヴェーダの神かみインドラのお武器ぶき ― 真しんでないものすべてを静しずかに断たつ稲妻いなずまでございました。仏教のなかでは壊こわれることのない智慧ちえの象徴しょうちょうとなりました。金剛こんごうは「ダイヤモンド」 ― 硬かたく、清すみわたり、永遠えいえんでございます。金剛こんごうは幻まぼろしを静しずかに断たちます ― 稲妻いなずまが夜よるを断たつように。急きゅうに、完全かんぜんに、戻もどることなく。

大光明 ・ 真言霊気の伝統の師伝の象徴
大光明 ・ 師伝しでんの象徴しょうちょう

楽の稲妻いなずまのお形かたちはそのお働はたらきを静しずかに担になっております。やわらかな着地ちゃくちを表あらわすのではございません。落雷らくらいを表あらわします ― 宇宙うちゅうのお力が受うけとめになる御方おかたのお体からだのなかに静しずかに降おりられ、そこに静しずかに根ねづかれる瞬間しゅんかんでございます。地ちに稲妻いなずまが降おりるように。壊こわすお働はたらきではなく、根ねづかせるお働はたらきでございます。稲妻いなずまはお力を天てんから地ちへと静しずかに運はこびます ― そして楽はまさにそれを伝授でんじゅのなかで静しずかに担になってくださるのでございます。

「楽は伝授でんじゅの金剛こんごうでございます。稲妻いなずまのように静しずかに ― 速はやく、まっすぐ、戻もどることなく。そして降おりられた場ば所では、地つちが静しずかにみのり豊ゆたかになっていくのでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

伝授でんじゅのなかでのお働はたらき 灌頂

楽は霊気のなかで一ひとつの場ば面にしか姿すがたを現あらわしません ― 伝授でんじゅの結むすびでございます。ほかのすべての象徴しょうちょうがお仕事しごとを終おえられたあとに ― 直霊、静平気、本者是正念、大光明のあとに ― 楽が静しずかにいらっしゃいます。

なぜ結むすびにいらっしゃるのか。地ちのお力がございませんと、伝授でんじゅは不完全ふかんぜんになりかねないからでございます。ほかの象徴しょうちょうはお通とおり道みちを静しずかにお開ひらきになり、お結むすびを静しずかにお立たちあげになり、意識いしきを静しずかにお広ひろげになります。けれど、その広ひろがりが体からだのなかに根ねづきませんと、はかないままに残のこるかもしれません ― 目覚めざめるときに静しずかに消きえていく夢ゆめのように。楽はそのお錨いかりでございます。細さい密みつな領域りょういきで起おこったことが、静しずかに身体的しんたいてきになっていく瞬間しゅんかんでございます。

真言の伝統でんとうのなかにも、これに通つうじる原理げんりがございます ― 入自心(にゅうじしん)入自心、「ご自身じしんのお胸むねのなかに静しずかに入はいる」原理げんりでございます。伝授でんじゅや瞑想めいそうのお力が、外そとのものとしてではなく、ご自身じしんのなかに到来とうらいされたものとして静しずかに感かんじられる瞬間しゅんかんでございます。楽はその一歩ぽを静しずかに担になってくださいます。

伝授でんじゅの過程かていの細こまかなところ ― お順序じゅんじょ、お所作しょさ、内側うちがわのお姿勢しせい ― は公開こうかいのテキストにはおさめられません。守まもられた直じかのお伝つたえのなかに居場所いばしょがございます。申もうし上あげられるのは ― 楽は選えらべる付つけ足たしではございません。伝授でんじゅのアーチを静しずかに支ささえてくださる、要かなめの石いしでございます。

日本の伝統でんとうのなかの地ち 地

西洋の霊性的れいせいてきな場ばでは「グラウンディング」(地ちに立たつこと)はしばしば後回あとまわしに扱あつかわれます ― 本来ほんらいのお仕事しごとのあとにする何なにかのように。お足あしを地ちに。お水みずを飲のむ。深ふかく息いきをする。あたかも安全あんぜんのための後始末あとしまつのように受うけとられがちでございます。

日本の伝統でんとうのなかで、地ち地は後始末あとしまつではございません。聖せいなるお力でございます。真言の五大ごだい五大(地ち、水みず、火ひ、風かぜ、空くう)のなかで、地ちはお土台どだいでございます。安定あんてい、確たしかさ、具体的ぐたいてきに姿すがたを現あらわすお力でございます。地ちがございませんと、すべては宙ちゅうに浮ういたままになります。形かたちのないお考かんがえ。実体じったいのないお光ひかり。お体からだのないお心。

修験道しゅげんどうでは、地ちとのお結むすびは儀礼的ぎれいてきに静しずかに立たちあげられます。山伏は裸足はだしで岩いわのうえを歩あるかれ、お寺てらのお床ゆかに跪ひざまずかれ、山やまのお地ちのうえに静しずかにお休やすみになります。譬たとえ話ばなしではございません。お体からだを意識的いしきてきにお地ちと触ふれさせられ、その触ふれあいを通とおして霊性的れいせいてきなご体験たいけんが静しずかに根ねづくのでございます。山やまはお寺てらになります。地つちはお祭壇さいだんになります。

視点してんの転換てんかん

西洋では「どのように上うえに ― お光ひかりへ、お悟さとりへ、超越ちょうえつへ ― 到達とうたつするか」とお尋たずねします。日本の伝統でんとうでは「どのようにお光ひかりを下したへと ― お体からだのなか、日常にちじょうのなか、地ちのなかへと ― 静しずかにお運はこびするか」とお尋たずねします。楽は、後者こうしゃのお尋たずねへの静しずかなお答こたえでございます。地ちに根ねづかない霊性れいせいには根ねがない、と静しずかにお気きづかせてくださいます。根ねがございませんと、育そだつものがないかもしれません。

楽と楽焼らくやき 楽焼

あまり取とり上あげられない、静しずかなお結むすびがございます。楽というお言葉ことばは、まったく別べつのお場ばにも息いきづきます ― 楽焼らくやき楽焼、日本の茶道さどうの最もっとも大切たいせつな伝統でんとうのひとつのお陶器とうきのなかにございます。

楽焼は轆轤ろくろで形かたちづくられません。一ひとつひとつ手てで静しずかに形かたちづくられます。そして大切たいせつな瞬間しゅんかんは結むすびにいらっしゃいます ― 燃もえるようなお碗わんがお窯かまから静しずかに引ひき出だされます ― 極きょくの熱ねつから冷ひややかな空気くうきのなかへ。この急きゅうな温度おんどのお変かわりが、楽焼らくやきのお碗わんを一ひとつひとつ独自どくじの姿すがたにする、特徴的とくちょうてきな貫入かんにゅうと模様もようを静しずかに立たちあげます。衝撃しょうげきの瞬間しゅんかんでございます ― そしてその衝撃しょうげきこそが、お碗わんに美うつくしさをお授さずけになるのでございます。

伝授でんじゅとの並行へいこうは静しずかに胸むねを打うちます。そこにも、極きょくの開ひらきと地ちのお力が静しずかに出会であわれる瞬間しゅんかんがございます。そこにも、移うつり変かわりのなかで独自どくじの何なにかが立たちあがります ― 個このご瞬間しゅんかんに属ぞくするため、繰くり返かえすことができない模様もようでございます。そしてそこでもまた、地ちとのお触ふれあい(冷ひやたい空気くうき、冷つめたい水みず)が、お形かたちを静しずかに定さだめてくださるのでございます。

「楽焼らくやきのお師匠ししょうは燃もえるお碗わんをお火ひから静しずかにお引ひき出だしになります ― そして冷ひやたい空気くうきに触ふれる瞬間しゅんかんに、お碗わんはそのまま未来みらいへと続つづくお姿すがたに静しずかに定さだまります。伝授でんじゅもそうでございます。楽は、火ひと地ちの触ふれあいの瞬間しゅんかんでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

なぜ楽は一度いちどしかいらっしゃらないのか 一

楽は日々ひびの実践じっせんのなかで用もちいられません。水みずのうえに描かかれません。瞑想めいそうのお対象たいしょうにもなりません。伝授でんじゅのなかでお会あいし、その後あとはもうお会あいになりません。なぜでしょうか。

楽は道具どうぐではないからでございます。出来事できごとでございます。稲妻いなずまは同おなじ場所ばしょに二度にど落おちる必要ひつようはございません ― 必要ひつようがないのでございます。地ちを静しずかに変かえるには一度いちどで足たりました。天てんと地ちのお結むすびを静しずかに立たちあげるには一度いちどで足たりました。そのあとに来くるのは、実践じっせん ― ほかの象徴しょうちょうと共ともに歩あるむ、静しずかな日々ひびの実践じっせんでございます。けれど楽が担になわれた根ねづきは、一度いちどだけ立たちあがり、静しずかに続つづいてまいります。

真言の伝統でんとうのなかにも、修行者しゅぎょうしゃのお命いのちのなかで一度いちどだけ行おこなわれる儀礼ぎれいがございます。伝法でんぽう灌頂かんじょう伝法灌頂は、その一ひとつでございます。戻もどることのできない移うつり変かわりを静しずかに表あらわします。繰くり返かえす必要ひつようはございません。お伝つたえされたものは、そのまま静しずかにとどまります。楽もそのお姿すがたを担になっております ― 戻もどることなく、一度いちどだけ、確たしかなものとして。

これは楽が「消きえてしまった」ということではございません。根ねづきのなかに静しずかに息いきづき続つづけております ― 伝授でんじゅのお力が日々ひびのなかで静しずかに感かんじられるかたちのなかに、お体からだがそれを静しずかに覚おぼえていてくれるかたちのなかに、霊気を流ながれさせるときに手てがあたたかくなっていくかたちのなかに。楽は消きえていません。到来とうらいされたのでございます。

この象徴しょうちょうがお胸むねに触ふれる方かた ― 壊こわすのではなく、根ねづかせる稲妻いなずまのお姿すがたに何なにかをお感かんじになる方かた ― そのとき楽はすでに静しずかに働はたらきはじめておられます。描かかれる記号きごうとしてではなく、お誘さそいとしてのお力として ― 深ふかくへ、より根ねづくほうへ、お光ひかりを探さがすだけでなく地ちのなかにお結むすびになるほうへ ― ご自身じしんのお体からだのなかへ。ご自身じしんの暮くらしのなかへ。

個別こべつのご体験たいけんでございます。 結果けっかには個人差こじんさがございます。霊気と霊性れいせいの実践じっせんは、医療いりょうや心理療法しんりりょうほうの代かわりとなるものではございません。
伝授でんじゅとのお出会であい

真言霊気への心こころの道みち

楽は、伝授でんじゅのなかで ― 守まもられた直じかのお場ばのなかで 静しずかに姿すがたをあらわします。どのお道みちがご自身じしんにとっての静しずかなはじめの場ばになるのか、ご一緒に見みつけてまいりましょう。

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