五つの漢字。西洋では「遠隔ヒーリングのシンボル」というお名前で呼ばれてまいりました。大きな図書館のお話を、小さなメモ用紙にお包みするようなお姿でございます。けれど、その五つの文字がお伝えくださっているのは、仏教の哲学の奥まで静かに届く完全な一つの文章でございます。この象徴についてご存じであったすべてを、静かに変えてしまうかもしれない、お言葉でございます。
本者是正念 ― 「真の人とは正しき念である」。遠隔のお働きの取扱説明書ではございません。これは公案でございます。頭でほどくのではなく、お体ぜんたいで味わわせていただくお言葉でございます。そして、その静かなお姿のなかに、この象徴のお力が息づいているのでございます。

五つの漢字 ― 一文字ずつ 本者是正念
完全な文章として ― 本者是正念「真の人とは正しき念である」。あるいは「本来のご本性とは、まさにこれでございます ― お心が完全に今このときに憩うご様子です」。これは技法ではなく、目覚めたお心のご本性を静かに表しているのでございます。
本者是正念は、距離を越えてエネルギーをお送りする方法を表すものではございません。距離そのものが消えていく意識のご様子を表しております。意識が完全に今このときに憩うとき ― 念がまっすぐにあるとき ― 分かれているということがなくなってまいります。こことあそこのあいだに。今とあのときのあいだに。ご自身とわたくしのあいだに。
禅の仏教 ― 分かれていないという公案 禅
禅に、本者是正念を静かにお伝えくださるお話がございます。あるお師匠が修行者にお尋ねになります。「今、どこに居られますか。」修行者は「ここでございます」とお答えします。お師匠は続けて「ではブッダはどこにいらっしゃいましたか。」修行者は静かに沈黙なさいます。お師匠は「まさに、それでございます」と静かにおっしゃいます。
お話の奥のところは ― 意識が完全に今このときに憩うとき、「ここ」と「あそこ」のあいだに違いはないということでございます。空間がちぢんでいくのではなく、分かれているという幻が静かにほどけていくのでございます。禅の伝統のなかで、このお気づきは頭のなかの概念ではございません。お体ぜんたいで味わわせていただく直のご体験でございます。
本者是正念は、まさにこのお気づきを担っております。テレキネシスのような「遠隔のシンボル」ではございません。修行者に静かに映す鏡でございます ― ご自身とほかの御方とのあいだの分かれているように感じられるご様子は、ご自身のお心が静かに組み立てておられるものなのです、と。その組み立てが静かに見とおされるとき ― 頭でなく、体験として ― 霊気のお力は遮るものなく流れていくことがございます。越えるべき距離がもう残っていないからでございます。
真言と加持のお働き 加持
真言の密教のなかに、本者是正念のお働きを別のお角度から照らしてくださるお働きがございます ― 加持(かじ)加持でございます。加持は二つのお力の静かなお働き合いを表しております ― 大日如来から降ってこられる宇宙のお力と、修行者の側から立ちあがる受けとめさせていただく器でございます。
加持は一方通行ではございません。共鳴のお働きでございます。一つの音叉がもう一つを静かに振るわせるように ― お力ではなく、同じ調べが呼びさましてくださるのでございます。真言のなかでは、その共鳴は空間にも時間にも縛られないと大切に伝えられてまいりました。大日如来はあらゆる処に、あらゆる時に居られます。大日如来と修行者のあいだの「距離」は零でございます ― お身体的に近くあられるからではなく、大日如来こそが真理そのもののご本性でいらっしゃるからでございます。
本者是正念をこの文脈のなかで受けとめさせていただきますと、「遠隔のお結び」のお意味が静かに変わってまいります。何かをお送りすることではなく、すでにあらゆるところに息づくお調べに、静かに波長を合わせさせていただくこと。「真の人」(本者)はすでに「正しき念」(正念)に「居られます」(是) ― お結びはほどけたことがなかったのでございます。ただ意識に上っていなかっただけでございます。

悉曇の実践と本尊瞑想 梵字
真言の伝統のなかに、本者是正念のお働きと直に結びついた実践がございます ― 本尊瞑想本尊でございます。本尊は「本となる尊き御方」 ― 修行者がご関わりさせていただく仏尊でございます。
本尊瞑想において、修行者は悉曇文字を静かに観じます ― ブッダや菩薩のおお姿として大切にされてきたインドのお文字でございます。静かに観じることを通して、お結びが静かに立ちあがります ― 頭のなかではなく、直のご体験として。修行者と悉曇が静かに一つになっていきます。観る者と観られる者のあいだの境目が、ほどけていくのでございます。
これは神秘的な不思議のお話ではございません。千年を越えて真言のなかで大切に受け継がれてきた瞑想のお道でございます。そして、本者是正念がお伝えくださっているまさにそのご瞬間 ― 「お送りになる御方」と「受けとめになる御方」のあいだの分かれが静かに消えていくご瞬間を表しております ― 意識が、分かれている世界を越えていくご姿を。
西洋では「距離を越えてどのように霊気をお送りするか」とお尋ねします。日本の伝統では「距離のないご状態に、どのように静かに入らせていただくか」とお尋ねします。本者是正念は、そのお答えでございます ― 正しき念のなかへ。完全な今このときへ。真の人はもう分かれていない、というご気づきへ。
時間、空間、ご気づき 今心
本者是正念のなかで西洋でよく取り上げられますご側面に、時間を越えた「遠隔」のお働きがございます。過去に霊気を「送る」、未来に「送る」というお話でございます。詩的なお話ですけれど、修行者が瓶のなかにお手紙を入れて時間のなかへお送りするように受けとられがちでございます。
念(ねん)というお文字は、別のお話を静かに伝えてくれます。念は今今(いま)と心心(こころ)から成っております。完全に今このときに居られるお心を表しております。そのご状態のなかでは ― 仏教の哲学のお話のとおり ― 線的な順序としての時間はもう働いておりません。
過去は「あちら側」にあるのではございません。ご自身のお体のなかに、ご自身のおふるまいの型のなかに、ご自身のお反応のなかに静かに息づいております。未来は「遠い先」にあるのではございません。今このときのご自身のなかから静かに立ちあがってまいります。念がまっすぐにあるとき ― お心が完全に今このときに憩うとき ― その両方に同時に触れることがあるかもしれません。時間を旅するのではなく、過去と現在と未来のあいだの分かれが、気がそらされたお心の組み立てだったというお気づきの瞬間でございます。
技法を越えて ― 道としての本者是正念 道
西洋の霊気のなかで、本者是正念は「技法」として伝えられます ― 象徴を描き、お名前を唱え、お結びを立ちあげる。この実践にもお働きがございます。けれどそれは始まりであって、終わりではございません。
真言霊気のなかで本者是正念は、お道として大切にされております ― 修行者を、分かれていないというご体験へと静かに導いてくれるお道でございます。初めには、霊気が距離を越えて「働く」という静かなご体験 ― それだけでも十分に不思議でございます。続いてお尋ねがやってまいります ― 「どのように働くのでしょうか」と。そのお答えは、新しい技法ではなく、静かなお気づきへと導いてくれます。
ご自身とほかの御方とのあいだの分かれは、ご自身のお心が静かに立ちあげている幻であるというお気づき。「正しき念」とは瞑想の実践であるだけでなく、真理のご本性が静かに姿を現すご状態であるというお気づき。「真の人」 ― 本者 ― は到達すべき御方ではなく、見いだされる御方であるというお気づきでございます。すでに居られるからでございます。常に居られたからでございます。
このご体験はブログの記事のなかにはおさめられません。直のお出会いのなかにこそ ― 伝授のなかに、実践のなかに、このお道をともに歩む御方がたとの生きたお結びのなかに ― 居場所がございます。ここで申し上げられるのは、静かなお誘いだけでございます ― この五つの文字がお胸に触れる方、「遠隔のシンボル」のうしろに、つながりのご理解を静かに整えなおしてくださる真理が息づいているとお感じになる方 ― そのとき、念はすでに静かに始まっておられます。お心はすでにここに居られます。真の人はすでに、ご自身のほうを静かに御覧になっておられるのでございます。