いつつの漢字かんじ西洋せいようでは「遠隔えんかくヒーリングのシンボル」というお名前なまえばれてまいりました。おおきな図書館としょかんのおはなしを、ちいさなメモ用紙ようしにおつつみするようなお姿すがたでございます。けれど、そのいつつの文字もじがおつたえくださっているのは、仏教ぶっきょう哲学てつがくおくまでしずかにとど完全かんぜんひとつの文章ぶんしょうでございます。この象徴しょうちょうについてごぞんじであったすべてを、しずかにえてしまうかもしれない、お言葉ことばでございます。

本者是正念 ― 「しんひととはただしきねんである」。遠隔えんかくのおはたらきの取扱説明書とりあつかいせつめいしょではございません。これは公案こうあんでございます。あたまでほどくのではなく、おからだぜんたいであじわわせていただくお言葉ことばでございます。そして、そのしずかなお姿すがたのなかに、この象徴しょうちょうのお力がいきづいているのでございます。

本者是正念 ・ 隔たりを越えて働く霊気の象徴
本者是正念 ・ 隔たりを越える象徴

いつつの漢字かんじ一文字ひともじずつ 本者是正念

本(ほん)もと、まことなるもの。のところにひとつのせんかれたかたちで、表面ひょうめんしたにあるものへとしずかにおさそいします。はおたずねします ― 「本当ほんとう大切たいせつなものは何でしょうか。外側そとがわのすべてがのぞかれたあとにのこるのは何でございましょうか。」
者(しゃ)ひと、ある御方おかた、その御存在ごそんざい抽象的ちゅうしょうてきではなく、具体的ぐたいてき御方おかたあらわ文字もじでございます。わせて 本者 ― 「しんひと」「本来ほんらいのご本性ほんしょうざしておられる御方おかた」となります。
是(ぜ) ― 〜である、まさにれ。確認かくにんとご同一どういつのお言葉ことばでございます。ひとしいものをしずかにむすびます ― 「Aは Bでございます」と。仏教ぶっきょう哲学てつがくのなかで、このちいさな文字もじ稲妻いなずまのおはたらきをいたします ― 主体しゅたい客体きゃくたいかれているというまぼろしを、しずかにのぞいてくださるのでございます。
正(しょう)ただしい、まっすぐ。仏教の八正道はっしょうどうでももちいられる でございます ― 正見しょうけん正思惟しょうしゆい正語しょうご完全かんぜんであることをあらわすのではなく、方向ほうこうあらわします ― しんのものへとしずかにかう、その方向ほうこうでございます。
念(ねん) ― ごづき、おもい、こころめること。うえ部分ぶぶんは「いました部分ぶぶんは「こころでございます。は、いまこのときに完全かんぜんいこうお心でございます。がそらされておらず、過去かこにも、未来みらいにもない。ここに。

完全かんぜん文章ぶんしょうとして ― 本者是正念しんひととはただしきねんである」。あるいは「本来ほんらいのご本性ほんしょうとは、まさにこれでございます ― お心が完全かんぜんいまこのときにいこうご様子ようすです」。これは技法ぎほうではなく、目覚めざめたお心のご本性ほんしょうしずかにあらわしているのでございます。

かくとなるおも

本者是正念は、距離きょりえてエネルギーをおおくりする方法ほうほうあらわすものではございません。距離きょりそのものがえていく意識いしきのご様子ようすあらわしております。意識いしき完全かんぜんいまこのときにいこうとき ― ねんがまっすぐにあるとき ― かれているということがなくなってまいります。こことあそこのあいだに。いまとあのときのあいだに。ご自身とわたくしのあいだに。

ぜん仏教ぶっきょうかれていないという公案こうあん

ぜんに、本者是正念ほんじゃぜしょうねんしずかにおつたえくださるおはなしがございます。あるお師匠ししょう修行者しゅぎょうしゃにおたずねになります。「いま、どこにられますか。」修行者は「ここでございます」とおこたえします。お師匠はつづけて「ではブッダはどこにいらっしゃいましたか。」修行者はしずかに沈黙ちんもくなさいます。お師匠は「まさに、それでございます」としずかにおっしゃいます。

お話のおくのところは ― 意識いしき完全かんぜんいまこのときにいこうとき、「ここ」と「あそこ」のあいだにちがいはないということでございます。空間くうかんがちぢんでいくのではなく、かれているというまぼろししずかにほどけていくのでございます。ぜん伝統でんとうのなかで、このおづきはあたまのなかの概念がいねんではございません。おからだぜんたいであじわわせていただくじかのご体験たいけんでございます。

本者是正念は、まさにこのおづきをになっております。テレキネシスのような「遠隔えんかくのシンボル」ではございません。修行者しゅぎょうしゃしずかにうつかがみでございます ― ご自身とほかの御方おかたとのあいだのかれているようにかんじられるご様子ようすは、ご自身じしんのお心がしずかにてておられるものなのです、と。そのてがしずかにとおされるとき ― あたまでなく、体験たいけんとして ― 霊気のお力はさえぎるものなくながれていくことがございます。えるべき距離きょりがもうのこっていないからでございます。

「霊気の遠隔えんかくのおはたらきとは、距離きょりえておおくりすることではございません。距離きょりとはがそらされたお心のまぼろしでしかないことを、しずかにおづきになることでございます。本者是正念は、そのまぼろしがほどけていくご様子ようすあたえてくださるのでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

真言と加持かじのおはたら加持

真言の密教みっきょうのなかに、本者是正念のおはたらきをべつのお角度かくどかららしてくださるおはたらきがございます ― 加持(かじ)加持でございます。加持かじふたつのお力のしずかなおはたらいをあらわしております ― 大日如来だいにちにょらいからくだってこられる宇宙うちゅうのお力と、修行者しゅぎょうしゃがわからちあがるけとめさせていただくうつわでございます。

加持かじ一方通行いっぽうつうこうではございません。共鳴きょうめいのおはたらきでございます。一つの音叉おんさがもう一つをしずかにるわせるように ― お力ではなく、おな調しらべがびさましてくださるのでございます。真言のなかでは、その共鳴きょうめい空間くうかんにも時間じかんにもしばられないと大切たいせつつたえられてまいりました。大日如来はあらゆるところに、あらゆるときられます。大日如来と修行者しゅぎょうしゃのあいだの「距離きょり」はゼロでございます ― お身体的しんたいてきちかくあられるからではなく、大日如来こそが真理しんりそのもののご本性ほんしょうでいらっしゃるからでございます。

本者是正念をこの文脈ぶんみゃくのなかでけとめさせていただきますと、「遠隔えんかくのおむすび」のお意味いみしずかにわってまいります。なにかをおおくりすることではなく、すでにあらゆるところにいきづくお調しらべに、しずかに波長はちょうわせさせていただくこと。「しんひと」(本者)はすでに「ただしきねん」(正念)に「られます」() ― おむすびはほどけたことがなかったのでございます。ただ意識いしきのぼっていなかっただけでございます。

HRIH ・ 阿弥陀如来の悉曇の種字
HRIH ・ 阿弥陀如来の種字しゅじ

悉曇の実践じっせん本尊ほんぞん瞑想めいそう 梵字

真言の伝統でんとうのなかに、本者是正念のおはたらきとじかむすびついた実践じっせんがございます ― 本尊ほんぞん瞑想めいそう本尊でございます。本尊は「もととなるとうと御方おかた」 ― 修行者しゅぎょうしゃがごかかわりさせていただく仏尊ぶっそんでございます。

本尊瞑想において、修行者は悉曇文字もじしずかにかんじます ― ブッダや菩薩ぼさつのおお姿すがたとして大切たいせつにされてきたインドのお文字もじでございます。しずかにかんじることをとおして、おむすびがしずかにちあがります ― あたまのなかではなく、じかのご体験たいけんとして。修行者と悉曇しったんしずかにひとつになっていきます。ものられるもののあいだの境目さかいめが、ほどけていくのでございます。

これは神秘的しんぴてき不思議ふしぎのおはなしではございません。千年をえて真言のなかで大切たいせつがれてきた瞑想めいそうのおみちでございます。そして、本者是正念がお伝えくださっているまさにそのご瞬間しゅんかん ― 「おおくりになる御方おかた」と「けとめになる御方おかた」のあいだのかれがしずかにえていくご瞬間しゅんかんあらわしております ― 意識いしきが、かれている世界せかいえていくご姿すがたを。

視点してん転換てんかん

西洋では「距離きょりえてどのように霊気をおおくりするか」とおたずねします。日本の伝統でんとうでは「距離きょりのないご状態じょうたいに、どのようにしずかにはいらせていただくか」とおたずねします。本者是正念は、そのおこたえでございます ― ただしきねんのなかへ。完全かんぜんいまこのときへ。しんひとはもうかれていない、というごづきへ。

時間じかん空間くうかん、ごづき 今心

本者是正念のなかで西洋でよくげられますご側面そくめんに、時間じかんえた「遠隔えんかく」のおはたらきがございます。過去かこに霊気を「おくる」、未来みらいに「おくる」というお話でございます。詩的してきなお話ですけれど、修行者しゅぎょうしゃびんのなかにお手紙てがみれて時間じかんのなかへおおくりするようにけとられがちでございます。

(ねん)というお文字もじは、べつのおはなししずかにつたえてくれます。(いま)と(こころ)からっております。完全かんぜんいまこのときにられるお心をあらわしております。そのご状態じょうたいのなかでは ― 仏教ぶっきょう哲学てつがくのお話のとおり ― 線的せんてき順序じゅんじょとしての時間じかんはもうはたらいておりません。

過去かこは「あちらがわ」にあるのではございません。ご自身じしんのおからだのなかに、ご自身じしんのおふるまいのかたのなかに、ご自身じしんのお反応はんのうのなかにしずかにいきづいております。未来みらいは「とおさき」にあるのではございません。いまこのときのご自身じしんのなかからしずかにちあがってまいります。がまっすぐにあるとき ― お心が完全かんぜんいまこのときにいこうとき ― その両方りょうほう同時どうじれることがあるかもしれません。時間じかんたびするのではなく、過去かこ現在げんざい未来みらいのあいだのかれが、がそらされたお心のてだったというおづきの瞬間しゅんかんでございます。

過去かこに霊気をおおくりするのではございません。過去かこがもうったものではなくなる、そのしずかなご状態じょうたいはいらせていただくのでございます ― 過去かこはご自身のなかにいきづいているのでございます。ここで、いま。そしてそのしずけさのなかで、過去かこもまたしずかにわっていくのかもしれません。」 マーク・ホサック博士はかせ

技法ぎほうえて ― みちとしての本者是正念

西洋の霊気のなかで、本者是正念は「技法ぎほう」としてつたえられます ― 象徴しょうちょうき、お名前をとなえ、おむすびをちあげる。この実践じっせんにもおはたらきがございます。けれどそれははじまりであって、わりではございません。

真言霊気のなかで本者是正念は、おみちとして大切たいせつにされております ― 修行者しゅぎょうしゃを、かれていないというご体験たいけんへとしずかにみちびいてくれるお道でございます。はじめには、霊気が距離きょりえて「はたらく」というしずかなご体験たいけん ― それだけでも十分じゅうぶん不思議ふしぎでございます。つづいておたずねがやってまいります ― 「どのようにはたらくのでしょうか」と。そのおこたえは、あたらしい技法ぎほうではなく、しずかなおづきへとみちびいてくれます。

ご自身とほかの御方とのあいだのかれは、ご自身のお心がしずかにちあげているまぼろしであるというお気づき。「ただしきねん」とは瞑想めいそう実践じっせんであるだけでなく、真理しんりのご本性ほんしょうしずかに姿すがたあらわすご状態じょうたいであるというお気づき。「しんひと」 ― 本者 ― は到達とうたつすべき御方おかたではなく、いだされる御方おかたであるというお気づきでございます。すでに居られるからでございます。つねに居られたからでございます。

このご体験たいけんはブログの記事きじのなかにはおさめられません。じかのお出会であいのなかにこそ ― 伝授でんじゅのなかに、実践じっせんのなかに、このおみちをともにある御方おかたがたとのきたおむすびのなかに ― 居場所いばしょがございます。ここでもうげられるのは、しずかなおさそいだけでございます ― この五つの文字もじがおむねれるかた、「遠隔えんかくのシンボル」のうしろに、つながりのご理解りかいしずかにととのえなおしてくださる真理しんりいきづいているとおかんじになるかた ― そのとき、はすでにしずかにはじまっておられます。お心はすでにここに居られます。しんひとはすでに、ご自身のほうをしずかにおんらんになっておられるのでございます。

個別こべつのご体験たいけんでございます。 結果けっかには個人差こじんさがございます。霊気と霊性れいせい実践じっせんは、医療いりょう心理療法しんりりょうほうわりとなるものではございません。
むすびへのおさそ

真言霊気へのこころみち

本者是正念は、じか伝授でんじゅのなかで、そのふかみをしずかにあらわしてまいります。どのおみちがご自身じしんにとってのしずかなはじめのになるのか、ご一緒につけてまいりましょう。

真言霊気へのこころみち 霊気の象徴しょうちょうすべて