お天気のような感情がございます。— ふと立ちのぼり、ふと過ぎ去ってゆく。— そして、地層のような感情もございます。— 何年もかけて重なってまいり、ご自身の一部のように感じ取られるほど深いもの。— 長くともにあるあまり、性格のように感じられる怒り。— 肩のあたりに居ついてしまった悲しみ。— なぜか息を浅くしてしまう、羞じらい。
真言の伝統 — そして真言霊気 — は、これらの層との別の歩みを携えてございます。— 感情を抑える歩みではございません。— 感情を野放しにする歩みでもございません。— 感情を見抜く歩み。— その本性を見つめる歩み。— そしてそれによって、転じが起こってまいる場をそっとお開きする歩みでございます。

煩悩 — まなざしを曇らせる覆い煩悩
仏教における理解では、根となる感情のお筋を煩悩 煩悩(ぼんのう)と申します。— 文字どおりには、濁り、覆い、曇り、でございます。— 三つの根本煩悩は、貪(欲)、瞋(怒り)、痴(迷い)。— ご道徳の判断ではなく、— まことを明らかに見るまなざしを覆ってしまう状態のおご描写でございます。
お窓の越しに、外をお覗きいただくお姿をご想像くださいませ。— お窓は、汚れています。— どなたかが何かを誤られたからではなく、— 風と雨と時のお足跡が残されたからでございます。— 煩悩は、お窓の上のこの埃でございます。— その向こうの世界は清らかでございます。— けれども、ゆがんで見えてしまうのでございます。
真言の伝統の決定的な点でございますが、こうした覆いは、戦われるものではございません。— 押しのけたり、瞑想で消し去ったり、分析で解き去られるものではございません。— 見抜かれるものでございます。— ある覆いの本性をお見抜きになったその瞬間に、— その覆いはお力を失います。— ご自身が覆いより強くおなりだからではなく、— その覆いが、お思いになっていたものではなかったとお気付きになるからでございます。— 真言密教は、さらに一歩奥に入られます。— 煩悩そのものに、悟りの種が宿っております、と。— 煩悩即菩提 煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)。— 感情に抗ってではなく、感情を通して、目覚めへ。
許しと背骨 — 古き手放し、新しき場許
真言霊気の実践には、ひとつの許しの瞑想がございます。— 西洋でしばしば言われる「許し」よりも、もっと深く届くものでございます。— どなたかを「許さねばならぬから」許す、というお話ではございません。— ご自身の身のうちで縛られたまま残ってしまったもの — お力 — を、そっとお離すお話でございます。— 古き物語のなかに、何年も止められてきたお力でございます。
この実践は、真言霊気における背骨のお働きと深く結ばれてございます。— 日本の伝統において、背骨は骨だけではございません。— お力の道筋でございます。— その流れに、滞りがお現れになります。— 古き感情、消化されぬ体験、止められた筋。— その多くは、張り、強ばり、「ここから先に進めない」という気配として、立ち現れてまいります。
許しの瞑想では、この道筋がまなざしをもってお呼びかけされます。— 力ではなく、分析でもなく、— 伝統が慈悲 慈悲(じひ)と呼んでまいる心持ちで。— ご自身への慈悲。— ありし日のことへの慈悲。— いまも抱えていらっしゃるものへの慈悲でございます。— 多くの方の体験では、こうしてお場がお開きになりますとき、長く表面の下に潜んでいた感情が、ふと立ちのぼってまいられます。— 強いられたからではなく、— ようやくお居場所ができたからでございます。

霊気というお場 — 感情が立ちのぼってよろしい場靈氣
はじめて霊気のセッションをご体験になる多くの方々が、思いがけぬことを語られます。— 悲しい思いがおありでないのに、ふと溢れる涙。— お手の震え。— どこからか立ち上がってくる笑い。— あるいは、ようやく「ここに帰ってきた」というご気配のお静けさ。
これは偶然ではございません。— 霊気のセッションは、お身体が「手放してよい」と感じ取れるほどの安心のお場を、そっとお開きいたします。— 何かを「行ずる」からではなく、— ある気配のまなざしが立ち上がり、— 神経の働きに「ここでは、そのままでいてよろしい」と、静かに伝えてまいるからでございます。— 日々の暮らしのなかで居場所を得られなかった感情 — 一日が忙しすぎて、まなざしの抑えが強すぎて、感じることへの恐れが大きすぎて — それらが、この場のなかで姿を見せられるかもしれません。— 多くの方が、これを深い解放としてお感じになります。
アイリーン・ヴィースマンは、真言霊気のセッションのなかで、こうしたお歩みに対する特別なまなざしを宿してお寄り添いいたします。— 感受性の鋭い実践者として、真言の伝統での七年余りのご体験を携えていらっしゃる彼女は、よくご存じでございます。— 感情の道筋には、圧ではなく、— 場と、辛抱と、「現れてくるすべてには、それぞれのお居場所がある」という静かな確かさが必要なのだ、と。— 彼女のお歩みは、真言の実践のお正確さと、ご自身の感情の層に近づきやすい温かさを、静かに結んでまいります。
真言霊気は、心理療法に代わるものではなく、ご診断をお出しするものでもございません。感情のお筋がご自身を解いてゆかれる、ひとつの寄り添う場をお差し上げすることはございますが、医療の意味でのお手当てではございません。— 強い心の負担をお抱えの方は、専門のお支えをどうぞ大切になさってくださいませ。— 真言霊気は、その道に添うことはできても、— 代わるものではございません。
護摩の火の儀礼 — 火に託す護摩
真言の実践のなかで、感情の転じをこれほど象徴するものは、ほかにございません。— 護摩 護摩の火の儀礼でございます。— 千年余りにわたり、真言・天台のお寺で営まれてまいった儀礼でございます。— 真言霊気では、これは生きた実践として伝えられてまいります。
護摩の儀礼では、聖なる火が灯されます。— お願い、妨げ、あるいは古き筋を書きつけた木札 — 護摩木 — が、火にお託されます。— その火は不動明王 不動明王を表します。— 揺るがぬ知恵の王 — 心を縛るすべてのものを、その炎の剣で断たれる尊でいらっしゃいます。
ここで起こることは、ただの象徴ではございません。— 一度でも護摩の場におられた方は、ご存じでいらっしゃいます。— 火の熱、煙、韻のように唱えられる真言 — それらが結ばれて、お言葉だけでは届かなかった何かが、そっと解けてくる気配のお場が、立ち上がってまいります。— 古き怒り、古き負い目、古き恐れ — 火のなかで、それらに形が与えられ、— その形が、火にお託されます。— 魔法ではなく、— お身体とお心の双方に響く、儀礼のご体験でございます。

護摩の儀礼は、真言の伝統が転じをどう受け取ってまいるか、その心を表してございます。— 感情を押し退けるのではなく、知的な分析にとどまるのでもなく、— お身体、お声、お心を同時に呼ぶ実践によって、感情を転じてまいります。— 三密 — 印、真言、観想 — がともに働き、古きものが去り、新しきが居場所を得るお場をお開きいたします。
多くの方が、深い清らかさのご体験としてお語りになります。— 火が外の何かを焼くからではなく、— 内側で手放すことが、ようやく許されたからでございます。— その後に来るものは、人それぞれ。— 思いがけぬ軽やかさを語られる方。— 久しくお感じにならなかった清らかさを語られる方。— ただ、お静けさを語られる方。
これらすべては、お一人お一人のご体験でございます。— 約束されるものでも、見通せるものでも、強いられるものでもございません。— ただ、場が整えられてまいります。— 千年余りにわたり、まさにそのために営まれてまいった、ひとつの実践によって。