お天気のような感情がございます。— ふと立ちのぼり、ふと過ぎ去ってゆく。— そして、地層のような感情もございます。— 何年もかけてかさなってまいり、ご自身の一部のように感じ取られるほど深いもの。— 長くともにあるあまり、性格のように感じられるいかり。— 肩のあたりについてしまったかなしみ。— なぜか息を浅くしてしまう、じらい。

真言の伝統 — そして真言霊気 — は、これらの層との別のあゆみをたずさえてございます。— 感情をおさえる歩みではございません。— 感情を野放しにする歩みでもございません。— 感情を見抜みぬく歩み。— その本性をつめる歩み。— そしてそれによって、転じが起こってまいる場をそっとお開きする歩みでございます。

アイリーン・ヴィースマン · 立ち姿の瞑想
アイリーン · 静かなる瞑想のなかで

煩悩ぼんのう — まなざしをくもらせるおお煩悩

仏教における理解では、こんとなる感情のお筋を煩悩 煩悩(ぼんのう)と申します。— 文字どおりには、にごり、覆い、くもり、でございます。— 三つの根本煩悩は、とん(欲)、しん(怒り)、(迷い)。— ご道徳どうとくの判断ではなく、— まことをあきらかに見るまなざしを覆ってしまう状態のおご描写でございます。

まどの越しに、外をおのぞきいただくお姿をご想像くださいませ。— お窓は、汚れています。— どなたかが何かをあやまられたからではなく、— 風と雨と時のお足跡が残されたからでございます。— 煩悩は、お窓の上のこのほこりでございます。— その向こうの世界はきよらかでございます。— けれども、ゆがんで見えてしまうのでございます。

真言の伝統の決定的なてんでございますが、こうした覆いは、戦われるものではございません。— 押しのけたり、瞑想で消し去ったり、分析ぶんせきき去られるものではございません。— 見抜かれるものでございます。— ある覆いの本性をお見抜きになったその瞬間しゅんかんに、— その覆いはお力をうしないます。— ご自身が覆いより強くおなりだからではなく、— その覆いが、お思いになっていたものではなかったとお気付きづきになるからでございます。— 真言密教は、さらに一歩おくに入られます。— 煩悩そのものに、さとりの種が宿っております、と。— 煩悩即菩提 煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)。— 感情にあらがってではなく、感情を通して、目覚めへ。

「感情は、敵ではございません。— 素材そざいでございます。— 問は、いかにしてすか、ではなく、— まことに出逢われたとき、何が起こるか、でございます。」 マーク・ホサック博士

ゆるしと背骨せぼね — 古き手放し、新しき

真言霊気の実践には、ひとつの許しの瞑想がございます。— 西洋でしばしば言われる「許し」よりも、もっと深く届くものでございます。— どなたかを「許さねばならぬから」許す、というお話ではございません。— ご自身の身のうちで縛られたまま残ってしまったもの — お力 — を、そっとおはなすお話でございます。— 古き物語のなかに、何年も止められてきたお力でございます。

この実践は、真言霊気における背骨せぼねのおはたらと深くむすばれてございます。— 日本の伝統において、背骨は骨だけではございません。— お力の道筋でございます。— その流れに、とどこおりがおあらわれになります。— 古き感情、消化されぬ体験、止められた筋。— その多くは、張り、こわばり、「ここから先に進めない」という気配として、立ちあらわれてまいります。

許しの瞑想では、この道筋がまなざしをもっておびかけされます。— 力ではなく、分析でもなく、— 伝統が慈悲 慈悲(じひ)と呼んでまいる心持こころもちで。— ご自身への慈悲。— ありし日のことへの慈悲。— いまもかかえていらっしゃるものへの慈悲でございます。— 多くの方の体験では、こうしておがお開きになりますとき、長く表面のしたひそんでいた感情が、ふと立ちのぼってまいられます。— 強いられたからではなく、— ようやくお居場所ができたからでございます。

アイリーン・ヴィースマン · 笑い · 手放した後の<ruby>軽<rt>かろ</rt></ruby>やかさ
アイリーン · 手放しのあとの軽やかさ

霊気というお — 感情が立ちのぼってよろしい場靈氣

はじめて霊気のセッションをご体験になる多くの方々が、思いがけぬことをかたられます。— 悲しい思いがおありでないのに、ふとあふれる涙。— お手のふるえ。— どこからか立ち上がってくる笑い。— あるいは、ようやく「ここに帰ってきた」というご気配のお静けさ。

これは偶然ではございません。— 霊気のセッションは、お身体が「手放してよい」と感じ取れるほどの安心あんしんのお場を、そっとお開きいたします。— 何かを「行ずる」からではなく、— ある気配けはいのまなざしが立ち上がり、— 神経の働きに「ここでは、そのままでいてよろしい」と、静かに伝えてまいるからでございます。— 日々の暮らしのなかで居場所を得られなかった感情 — 一日が忙しすぎて、まなざしのおさえが強すぎて、感じることへのおそれが大きすぎて — それらが、この場のなかで姿を見せられるかもしれません。— 多くの方が、これを深い解放としておかんじになります。

アイリーン・ヴィースマンは、真言霊気のセッションのなかで、こうしたおあゆみに対する特別とくべつなまなざしを宿してお寄り添いいたします。— 感受性の鋭い実践者として、真言の伝統での七年余りのご体験をたずさえていらっしゃる彼女は、よくご存じでございます。— 感情の道筋には、あつではなく、— 場と、辛抱と、「現れてくるすべてには、それぞれのお居場所がある」という静かなたしかさが必要なのだ、と。— 彼女のおあゆみは、真言の実践のお正確さと、ご自身の感情の層に近づきやすいあたたかさを、静かに結んでまいります。

大切なお知らせ

真言霊気は、心理療法に代わるものではなく、ご診断をお出しするものでもございません。感情のお筋がご自身を解いてゆかれる、ひとつの寄り添う場をお差し上げすることはございますが、医療の意味でのお手当てではございません。— 強い心の負担をお抱えの方は、専門せんもんのおささえをどうぞ大切になさってくださいませ。— 真言霊気は、その道にうことはできても、— 代わるものではございません。

護摩ごまの火の儀礼 — 火にたく護摩

真言の実践のなかで、感情のてんじをこれほど象徴しょうちょうするものは、ほかにございません。— 護摩 護摩の火の儀礼でございます。— 千年余りにわたり、真言・天台のお寺で営まれてまいった儀礼でございます。— 真言霊気では、これは生きた実践として伝えられてまいります。

護摩の儀礼では、せいなる火が灯されます。— お願い、妨げ、あるいは古き筋を書きつけた木札 — 護摩木ごまぎ — が、火におたくされます。— その火は不動明王 不動明王を表します。— 揺るがぬ知恵の王 — 心を縛るすべてのものを、そのほのおけんたれる尊でいらっしゃいます。

ここで起こることは、ただの象徴ではございません。— 一度でも護摩の場におられた方は、ご存じでいらっしゃいます。— 火の熱、煙、いんのように唱えられる真言 — それらが結ばれて、お言葉だけでは届かなかった何かが、そっとけてくる気配のお場が、立ち上がってまいります。— 古き怒り、古きい目、古き恐れ — 火のなかで、それらにかたちが与えられ、— その形が、火におたくされます。— 魔法ではなく、— お身体とお心の双方に響く、儀礼のご体験でございます。

アイリーン・ヴィースマン · 内へのまなざし
アイリーン · 手放しのお

護摩の儀礼は、真言の伝統がてんじをどう受け取ってまいるか、その心をあらわしてございます。— 感情を押し退けるのではなく、知的な分析にとどまるのでもなく、— お身体、お声、お心を同時に呼ぶ実践によって、感情をてんじてまいります。— 三密さんみつ — 印、真言、観想 — がともに働き、古きものがり、新しきが居場所を得るお場をお開きいたします。

多くの方が、深い清らかさのご体験としておかたりになります。— 火が外の何かをくからではなく、— 内側で手放すことが、ようやくゆるされたからでございます。— そのあとに来るものは、人それぞれ。— 思いがけぬ軽やかさを語られる方。— 久しくお感じにならなかった清らかさを語られる方。— ただ、お静けさを語られる方。

これらすべては、お一人お一人のご体験でございます。— 約束されるものでも、見通せるものでも、強いられるものでもございません。— ただ、ととのえられてまいります。— 千年余りにわたり、まさにそのために営まれてまいった、ひとつの実践によって。

感情の転じをご体験ください

ご自身のみちへ。

許しの瞑想、護摩の火の儀礼、霊気のセッション — 真言の道のなかで、ご自身に添うお入口をお探しくださいませ。

ご自身の道へ 真言霊気の儀礼