日本のすべてのお寺に、それはがっております。— 赤、金、白、紫の小さな布袋ぬのぶくろ。— お守り お守り。— 何百万という方々が、かぎのおたばに、おかばんに、ごまくらのおそばに、これをお持ちになっていらっしゃいます。— ある方には事故からのお守り、ある方には試験のおい、また、お健やかさのおはげまし。— 一見、土地のお土産みやげのように見えるものが、実は千年以上にわたるを持っております。— 真言密教のおく深い実践のなかに。

日本の霊性の伝統において、お守りはあらがいのたたかいではございません。— 壁をきずくことではなく、敵対する世界に立ち向かうことでもございません。— 真言の伝統のまなざしは、別のところにございます。— お守りとは、おいでございます。— ご自身をえるお力とのむすび — 守護尊との、ご先祖のお力との、火のおはたらきとかおりの清めとの結び。— そして何より、実践によって育ってまいる、ご自身の内なるつよさとの結び。

霊気の漢字 · 臼井先生の<ruby>記念碑<rt>きねんひ</rt></ruby>に<ruby>刻<rt>きざ</rt></ruby>まれてございます
霊気の漢字 · 記念碑に刻まれて

不動明王 — るがぬ守りのみこと不動明王

日本でお守りのお話をいたしますとき、まず一つのお名前ががってまいります。— 不動明王 不動明王(ふどうみょうおう) — 揺るがぬ知恵の王。— そのお姿は、はじめて拝された方には、激しくうつるかもしれません。— 火につつまれた明王、剣と縄をたずさえ、ご顔は揺るがぬご決意のお形相ぎょうそう宿やどしていらっしゃいます。— 怒りの尊とけ取られる方もおありかもしれません。— けれども、不動明王のお怒りは、人へ向かうものではございません。— 霊性の道をさえぎるすべてのものに、向けられております。— いつわりに、内と外のさまたげに、私たちをまことの本性ほんしょうからはなすものに。

真言の伝統において、不動明王は最も大切な守護尊のお一柱ひとはしらでいらっしゃいます。— そのけん俱利伽羅剣くりからけん — は、無明むみょうち、— その縄索じょうさく羂索けんさく — は、迷いに陥った方々をおすくい上げます。— ばっするためではなく、— もとの道へおれ戻すために。— その後ろのほのおは、地獄の火ではなく、にごりを焼くてんじの智慧の火でございます。— 真言宗のお寺では、不動明王は加持かじ 加持を通じてお呼びかけされます。— 真言、印、観想を通じて伝えられる、お祈りでございます。— このお祈りは、抽象的なかんがえではございません。— 感じ取れるお力として、お部屋をえるご気配として、ご体験されてまいります。

不動明王の世界に深くけ入る方は、ひとつの象徴をはるかにえる守護尊にお出逢いになります。— 真言霊気において、不動明王とのお結びは、深いお育ての一部でございます。— ご自身のお力の場を、根本こんぽんから強めるひとつの伝授でございます。

焼香しょうこうと清め — 香りとしての守り

日本のお寺の境内に足をお運びになりますと、まずかおりむかえられます。— 白檀びゃくだん沈香じんこう、ときには伽羅きゃら — 煙は静かに立ちのぼり、空間をたし、入られた方々をやさしくつつみます。— 大きなお御堂みどうの前には、しばしば青銅のお香炉こうろえられ、— 参拝の方々は線香に火をともし、その煙をご自身の上にあおぎ寄せられます。— お仕草しぐさ素朴そぼくでございます。— けれども、その意味は、奥深いものでございます。

密教の伝統において、お焼香は気配のこしらえだけのものではございません。— 香りは、仏たちにし上げる六種供養ろくしゅくよう(ろくしゅくよう)のひとつでございます。— 白檀は空間をお清めし、霊性の実践が可能かのうとなる気配を調ととのえます。— 沈香は、見える世界と見えぬ世界のあいだの道を、そっとおひらきいたします。— 真言宗の大きな儀礼 — 護摩の火の儀礼、朝のおごつとめ — のなかで、お焼香はえものではございません。— 真言や印と同じく、儀礼の大柱おおばしらでございます。

不動明王 · 剣と縄索のお姿
不動明王 · 剣と縄索のお姿

よもぎもまた、日本の伝統のなかで特別なやくになってまいりました。— もぐさ (もぐさ)を用いたきゅうでは、お身体のお経穴けいけつの上で、乾いた蓬を静かに燃やしてまいります。— 東アジアの古き養生ようじょうのなかで、長く受け継がれてまいったおいとなみでございます。— 霊性の実践においては、蓬は重き気配をく清らかなくさとしてけ取られております。— 香りと守りの結びは、日本では片隅のものではございません。— お寺のおご勤めから、家のお仏壇ぶつだんまで、— 暮らしの全てに静かにいきづいております。

実践によるお力のととの

真言の伝統における、おそらく最も大切なお守りは、外から来るものではございません。— ご自身の実践から生まれてまいります。— 日々瞑想なさり、真言を唱えられ、霊気の実践をなさる方は、ご自身のお力の場をそだててまいります。— 比喩としてではなく、— 体験されるまことのこととして。— 長年の実践を続けてこられた方々のお声には、ご自身の中にある安定 — 外の働きに容易にはるがぬ、お力の釣合つりあい — の深まりが、しばしばかたられます。

真言霊気では、このお育ては、いくつもの層で起こってまいります。— 日々の霊気の実践は、お身体を流れるお力を強めてまいります。— 悉曇(しったん)の梵字とともにする瞑想は、ご自身のお力の場を、宇宙のお原理と結びます。— 真言の唱えは、お身体のすみずみまでつらぬき、清めてまいるれを生んでまいります。— 魔の影響のお話を分かってまいる方は、こうお気付きづきになります。— 何かに対してあらがうのではなく、— ご自身が清らかに、安定なさることで、さわりが寄りあしがかりを失ってまいる、と。

お力のみそぎ (みそぎ) — もまた、日本の伝統のなかで、清めとお守りとして体験されてまいる実践でございます。— 神社や仏寺では、行ずる方々が冷たい水でご自身を清められ、滝のお下に立たれ、聖なるお御堂みどうに入る前に儀礼として身を清められます。— そのおくのお考えは素朴そぼくで、力強いものでございます。— 水は、ご自身に属さぬものを、そっとはこび去ってまいります。— 残るのは、ご自身のまことの本性でございます。

とくに感受性の鋭い方々にとって、日々の実践によるお力の整えは、深い違いとして体験されてまいります。— 世界からの退しりぞきとしてではなく、ご自身の中心へのづきとして。

真言のまなざし

守護は、世界に対するたてではございません。— ご自身とむすばれていらっしゃるところに、おのずと生まれてまいる清らかさでございます。真言の伝統において、守護はおそれによって呼び起こされるのではございません。— 実践によって — 道の途上でおいくださるお力との、日々のお結びによって、— 自然と立ち上がってまいるのでございます。— 不動明王は、弱き方々をお守りなさるのではございません。— 揺るがぬご決意の方々を、おささえなさるのでございます。

先祖せんぞとのお結び — お記憶きおくを通じての守り

日本では、お守りは見える存在でわるのではございません。— ご先祖せんぞ先祖 先祖 — は、日々の暮らしのなかに、生きていらっしゃるご気配でいらっしゃいます。— 日本のおご家庭のほぼすべてに、— 仏壇 仏壇がございます。— 家のお祭壇でございます。— そこでは、お亡くなりの方々に、ご飯、お茶、お焼香が、日々お供えされてまいります。— 感傷のお仕草ではございません。— 死を越えてつづく結びを、丁寧にはぐくむおいとなみでございます。

真言の伝統において、ご先祖はただおしのびされるのではございません。— お守りとして体験されてまいります。— 旅立たれた方々が、ご子孫しそんを、人生の道のうえでお見守りくださる、というお心でございます。— このお結びを大切にされ、日々ご先祖のことをお思いになり、感謝かんしゃのお気持ちをおし上げ、ご自身の実践のなかにご先祖をおむかえになる方は、— どのお守りよりもおくに届く、お守りの道をお開きになります。

毎年のお盆 お盆のお祭りでは、— お亡くなりの方々のおたましいがお家へお呼びされます。— 提灯が灯され、ご先祖のみちがお示しされます。— 盆おどりが踊られます。— お寺では、おそうがお亡くなりの方々のために経文きょうもんをお唱えになります。— 西洋ではご迷信めいしん退しりぞけられがちなものが、日本では生きた霊性の実践でございます。— 守りは、尊だけからではなく、— 私たちの先を歩まれた方々からも、まことに来るものなのだ、というご体験でございます。

護摩法の火の儀礼 · お<ruby>祭壇<rt>さいだん</rt></ruby>のひととき
護摩法 · お祭壇さいだんのひととき
「お守りは、技法ではじまるのではございません。— ご自身の道に、ご自身をささげるそのお覚悟かくごから、はじまります。— ほかのすべては、それにしたがってまいります。— 守護尊が、ご先祖が、内なるお力が。— ずっとそこにいらっしゃったのでございます。— ただ、ほかをお探しになるのを、おやめになりさえすれば。」 マーク・ホサック博士
ご自身の霊性の道

実践による守護をご体験たいけんくださいませ。

お力の整え、お焼香、不動明王 — 真言霊気では、これらの伝統が生きた実践として息づいております。— ご自身に添うお入口を、お探しくださいませ。

ご自身の道へ 不動明王にお出逢いする