背骨の霊気とは、真言霊気の伝統のなかで、背骨に沿って心を込めて行うお力のお働きでございます。— 首から尾骨まで、霊気の手当ての姿が添えられ、それに、悉曇のお文字、真言、そして五輪の五つの大元素のご観想が静かに編まれてまいります。— 多くの霊性の伝統において、背骨はお身体の中心の気の道として大切にされてまいりました。— インドではスシュムナー、— 日本では気の流れの場として。— 真言霊気のなかで、この古き知るところが、具体のお働きとなってまいります。
他の方の背骨にお手をお添えになられて — 心ある仕方で、椎骨から椎骨へ、上から下へ — その方は、不思議な何かを感じられてまいります。— お手の下で、脈がございます。— ある場所はあたたかく、ある場所は涼しい。— ある椎骨ではお力が滞っているように、別の椎骨では、すぐに流れてまいります。— 背骨は、ものを言わぬ骨ではございません。— ひとつの地図でございます。— その読み方をご存じの方は、その方まるごとに触れてまいるのでございます。

背骨 — 世界を結ぶ軸脊柱
インドの伝統において、背骨に沿った中心の気の道は、スシュムナー・ナーディー と呼ばれてまいります。— 骨盤の底から頭の頂までを通ってまいります。— 下のほうには、クンダリニー — 眠れる蛇として記されてまいるお力 — が静かに横たわっております。— 目覚めると、スシュムナーを通って立ち上がり、チャクラとして知られるお力の中心を、ひとつひとつ貫いてまいります。
日本には、クンダリニーと言うお言葉はございません。— けれども、その体験は息づいております。— 真言宗のお書のなかで、空海さまは、— 行ずる方のお身体のなかに大日如来さま 大日如来の宇宙のお力が顕れてまいる有様を、お記しになっていらっしゃいます。— このお力は、蛇のように下から上へと登るのではございません。— お身体まるごとに同時に満ちてまいります。— 頭頂から足裏まで、内から外まで。— その中心軸が、背骨でございます。
シャーマニズムの根、そして真言の伝統に流れ込んでまいった道教のお流れにも、似た絵姿がございます。— 人は、天と地とをつなぐ結びの場。— 背骨は、その両方をひとつにする軸でございます。— ただの骨と軟骨ではございません。— 宇宙のものと地上のものとが出逢ってまいる、立てる線でございます。
— 脊(せき) 脊 — 背骨。— 文字通りには、人を立てるもの。— 日本の医のお考えにおいても、武の道においても、背骨(背骨 背骨)は、すべての姿勢と動きの中心でございます。— 背骨をお忘れになる方は、ご自身の中心をお見失いになるのかもしれません。
悉曇と五輪、— 背骨に沿って梵字
真言密教では、五つの大元素 — 地・水・火・風・空 — が、お身体に曼荼羅として映し出されてまいります。— それぞれの元素には、悉曇のお文字、お色、お身体の区域がございます。— 真言霊気の背骨のお働きにおいて、これら五つの区域は抽象に留まらず、— お手が区域から区域へとそっと移り、それぞれの区域でその元素の悉曇を、内に観じてまいります。
尾骨と骨盤は、地の元素 — 地 地(ち) — に属してまいります。— ここに、土台、重み、根づきがございます。— 悉曇のアを観じます。— お手は腰のあたりに休み、— この瞬間に多くの方がお話しくださるのは、到着と静けさのお感じでございます。
腰椎は、水の元素 — 水 水(すい) — に応じてまいります。— 流れ、お力を放すこと、添うこと。— ここはまた、腹・丹田 — 日本の伝統におけるいのちのお力の中心 — の場所でもございます。— 悉曇のヴァン(Vaṃ)が、内のまなざしに輝きます。— 多くの方が、この区域で深いお気持ちが、そっとほどけるのを感じられます。
お背中の真ん中は、火 — 火 火(か) — に属してまいります。— 変わり、消化、内のあたたかさ。— 悉曇のラン(Raṃ)。— さらに上へ。胸の区域は風 — 風 風(ふう) — の元素、— 悉曇のハン(Haṃ)と共に。— お息、動き、広がり。— そして、首と後頭部は空 — 空 空(くう) — の元素、— 悉曇のカン(Khaṃ)と共に。— 広やかさ、静けさ、清き気付きでございます。

お手がゆるやかに背骨を下りてまいり、それぞれの区域でその区域の悉曇を保ち続けるとき、ただの手当てを越えたご体験が立ち上がってまいります。— お身体は塔となり、お寺となります。— 真言の古きお書が記すままに。— これは、お話のなかのことではございません。— お手の下で、お感じになることがあるのでございます。
許しの瞑想と背骨許し
西洋の解剖学はあまり語らぬ結びがひとつございます。— けれども、お働きのなかで何度も体験されてまいりますことに、— 背骨は、お気持ちをそっと宿しているのでございます。— 譬えとしてではなく、お身体の現実として。— 背骨にお手を添えてお働きをなさる方は、ご存じでございます。— ある椎骨では、お力が滞ります。— その場所は、固く、強ばり、冷たく、あるいは過ぎたあたたかさを持ちます。— そして、お力がそこに流れはじめるとき、— ときに姿、記憶、涙が、静かに立ち上がってまいります。
ですから、真言霊気では、許しの瞑想が背骨のお働きにそっと添えられてまいります。— 許し — 道徳の命令としてではなく、お力のお営みとして。— 古いお気持ちが、お肉の奥に住みついていたものが、— ほどけることを許されてまいります。— 恨み、悲しみ、恥 — お背中のなかに気付かれずに抱えてこられたものすべてが。— 許しの瞑想は、お部屋をひらいてまいります。— 強いません。— ただ、お招きいたします。— そして、背骨が、そっと応えてまいります。
仏教の伝統には、加持 加持(かじ)というお考えがございます。— 儀礼と心によって運ばれてまいる、お支えのお力でございます。— 背骨のお働きにおいて、加持は大日如来さまのお力と結ばれてまいります。— その光があらゆるものを貫く、宇宙の仏さま。— お手は、その通り道となってまいります。— そして、そこを通ってまいるのは、行ずる方のお力ではなく、— 宇宙そのもののお力でございます。
この、許しの瞑想と、加持と、悉曇の観想との結びが、— 真言霊気のなかの背骨のお働きを、この伝統において味わいうる、もっとも深いご体験のひとつへと育ててまいります。— お身体のお働きと霊性の実践がひとつとなり、— 触れ合いそのものが、儀礼となります。— 日本の真言宗のお寺で、世紀を越えてお営まれてまいったままに。
仏教のお身体ふれと、内の微笑み仏身
触れ合いは、真言の伝統において、ただの治のお営みではございません。— 霊性の実践でございます。— 日本のお寺で営まれてまいる仏教のお身体ふれは、— 心あるお身体のお働きを、真言と観想と結んでまいります。— お手はお身体だけにふれているのではございません。— 気のお場にふれてまいります。— そして、その営みのなかには、お身体を越えた心が宿っております。
真言霊気の背骨のお働きにおいて、この心は、具体になってまいります。— 背中の上のひとつひとつのお手の置き方は、ただの技ではございません。— ひとつの出逢いでございます。— 行ずる方は、その方の気のお場に、まなざしと、悉曇と、真言とをもって、静かに会ってまいります。— そして時に、お言葉では尽くせぬ何かが起こってまいります。— 広がる静けさ。— ひらかれてまいるお部屋。— 内から立ち上ってまいるあたたかさ。
霊気のお働きに添えて、真言霊気では、気功の伝統に源を持つひとつの実践もお用いいたします。— 内の微笑み でございます。— 内の臓 — 心臓、肺、肝、腎、脾 — に、順に優しいまなざしを向けてまいります。— そっと微笑みかけます。— ささやかなように聞こえるかもしれません。— けれども、多くの方のご体験は、おどろくほどでございます。— 内のお臓が、応えてまいります。— あたたかくなり、ほどけてまいります。— そして、微笑みは、お身体まるごとに、— 背骨まるごとに、— そっと広がってまいります。
真言霊気では、三つのお流れが、ひとつに集まってまいります。— 霊気のお力のお働き、悉曇の儀礼のお力、そして仏教のお身体ふれの実践。— 背骨は、この三つのお流れが共に出逢う場所でございます。— ここで、お身体は寺となってまいります。— 考えとしてではなく、お手の下のご体験として。
