子どもの頃、ほかの方には気付けないものを、感じ取られた方もいらっしゃるかもしれません。— お部屋に漂う気配。言葉には出されていないのに、人と人のあいだに張りつめているもの。名のつかぬ何か。— ご自身でそのことをお話しになったとき、「考えすぎでしょう」「気のせいよ」と、そっと退けられたかもしれません。
いつしか、口にすることをおやめになったかもしれません。— けれども、感じ取ることをおやめになったことは、一度もないのでございましょう。
今では、これに名前がついております。— 感能過敏、またはHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)。— 心理学者エレイン・アーロン氏のご研究によりますと、人口のおよそ十五から二十パーセントの方々が、刺激をほかの方より深くお受け取りになる神経系をお持ちでいらっしゃるとのことでございます。— 音、光、ほかの方々の感情に対して。— そして、ご当人の方々のお話を伺いますと、言葉にしにくい、もっと繊細なご感受もまた、おありのようでございます。

過敏か、それとも受けやすさか感受
西洋のご文化には、感受性に対する戸惑いがございます。— 感じ取ることが多いと、弱さのしるしとされてしまう。— 刺激を遮れない方は、耐える力に欠けるとされる。— そして、よく示される処方は、こうでございます。— 境を引くこと、心を閉ざすこと、感じることを少なくすること。
日本の霊性の伝統は、これとはまるで逆でございます。— 真言密教において、繊細なお力を感じ取れることは、異常のしるしではなく、— 霊性の熟しのしるしでございます。— 日本の言葉に感応 感応(かんのう)というお言葉がございます。— 行ずる方と、宇宙を巡る繊細なお力との、ひとつの呼応。— この呼応を感じ取れる方は、社会の端に立っているのではございません。深いご体験のお入口に立っていらっしゃるのでございます。
アイリーン・ヴィースマンは、感受性の鋭い方として、ご自身もこの道を歩んでまいりました。— 彼女はこのように申します。— 感能過敏は、しばしば「うまく付き合うべき」何かのように扱われます。— 真言霊気では、それは前提として受け取られます。— お力の働きを、はじめて可能にしてくれるものとして。— 感受性は抑えられるのではございません。理解されてまいります。— そして、活かされてまいるのでございます。
病腺と響き — お手のお言葉病腺
霊気の実践のなかに、感受性の鋭い方ならすぐお分かりになる、ひとつの現れがございます。— 病腺 病腺と響き 響きでございます。— 病腺とは、行ずる方が、ほかの方のお身体の上にお手をかざしたとき、お手のひらにお感じになる、お力の繊細な変化のことでございます。— 響きは、お身体からの応えでございます。— ぴりりとした感じ、脈打ち、温もり、ひんやりとしたもの、ときには引かれるような、押されるような気配。
多くの方は、病腺をお感じになるまでに、静かなお稽古がいるものでございます。— 感受性の鋭い方々にとっては、その感じ取りが、はじめからそこにあることが多いのでございます。— お手は、どこに違いがあるか、すぐにお感じになります。— お力の繊細な濃淡 — ここでは濃く、あちらでは流れていて、ある場所では滞って — それらが、まるで自然のお言葉のように、開かれてまいります。
これには由がございます。— 病腺の感じ取りと感能過敏は、同じ道筋を用いているからでございます。— つまり、ふだんの意識のしきいの下にある、繊細な違いを受け取るお力でございます。— 周りから「過敏すぎる」と退けられてきたまさにそのものが、霊気の場では、必要とされる道具そのものでございます。— さらにお知りになりたい方は、響きと病腺 — 真言霊気における繊細な感じ取りのご記事にもお立ち寄りくださいませ。

守りと安定 — ご自身の場を保つ護身
感受性の鋭い方々の最大のご難所は、感じ取ることそのものではございません。— その後に来るものでございます。— ほかの方々の気配を、ご自身のお気持ちのように感じ取られる方。— 人混みのなかで、刺激にあふれてしまう方。— 深いお話のあと、ご自身に戻るのに何時間もおかかりになる方。— そうした方々には、ご理解だけでは足りず、道具がいるのでございます。
真言霊気には、そのためのお固有の実践がございます。— 護身 護身(ごしん)、ご自身をお守りする営みでございます。— この伝統は、密教、修験道、神道、そしてシャーマン的な道家の流れに根ざしてございます。— 近年の発明ではなく、長きにわたり日本のお寺で静かに磨かれてまいった、ひとつの体系でございます。— ご自身のまわりに壁を立てるのではございません。— ご自身のお力の場を、まなざしを宿して保つこと。— 「いま」に居合わせ、清らかで、養うものに開かれ、奪うものに揺るがぬこと。
アイリーン・ヴィースマンは、真言霊気のご共のなかで、まさにこのご体験を持たれる方々と、特別にお歩みをともにいたしております。— ご自身の感受性を贈りものとお認めになりながら、お心を閉ざすことなく、安定をお感じになる道。— これは矛盾ではございません。— 実践の核心そのものでございます。— さらに深くお知りになりたい方は、魔の影響 — お力の負担を見極めて転じると魂の守護 — 真言の伝統における護身もお勧めいたします。
感能過敏は、お手当てされるべきご診断ではございません。— 理解され、活かされてよい、感じ取りのお力でございます。真言の伝統において、繊細なお力を感じ取れることは、難しさではなく、深い霊性の実践のための前提でございます。— 真言霊気は、感受性の鋭い方々に、お力を抑えるすべではなく、清らかさ、安定、そしてご自身の感受性が、ようやく「お力」として認められる、ひとつの場をお差し上げいたします。
感応 — 霊性の原理としての呼応感応
真言密教には、感受性の鋭い方々が一生の間、お名前なく感じ取ってきたものを表す、ひとつのお言葉がございます。— 感応 感応(かんのう)。— 文字どおりには「感じて応える」 — 一つの命と、宇宙を貫いている繊細なお力との、ひとつの呼応でございます。— 密教において、感応は、行ずる方が「結びついていらっしゃる」しるしと受けとめられます。— 仏たちと、菩薩たちと、見える世界の奥にある、生けるまことと。
これは、西洋の世界に育った感受性の鋭い方にとって、何を意味するのでしょうか。— 意味するところは、こうでございます。— ご自身が感じ取られているものには、確かなお居場所がございます。— お名前がございます。— 千年以上にわたる伝統がございます。— ご自身は、欠けてはいらっしゃいません。— 「多すぎる」のでもございません。— 受けやすくいらっしゃる。— そして、古き伝統の言葉では、まさにそれが、その後に開かれるすべてのことの前提なのでございます。
マーク・ホサックは、ハイデルベルク大学のご研究のなかで、こうした関わりが描かれている原典を修めました。— 真言、修験道、道家、神道のテキストでございます。— アイリーン・ヴィースマンは、感受性の鋭い者として、ご自身でこの道をお歩みになり、いまほかの方々を、その道においてお連れ申し上げております。— 二人で、伝統の深みと、生きた実践のご体験を、静かにつないでまいります。

これらのお言葉のなかに、ご自身を見出される方 — 子どもの頃に「もっと奥に何かがある」とお感じになった方、今もなお、ご自身の感受がまわりの多くの方より遠くまで届くとお感じになる方 — その方が、いまここをお読みになっていらっしゃるのは、決して偶然ではございません。— ご自身の感受性は、妨げではなく、— ひとつの始まりでございます。
ご自身の道をお見つけください。
真言霊気は、感受性の鋭い方々に、ご自身の感じ取りがようやく理解されるひとつの場を、静かにお差し上げいたします。— ご自身に添うお入口を、お探しくださいませ。
ご自身の道へ マークとアイリーンに会う