霊性に関わる場のなかで、もっとも不安を呼び起こしやすいお話のひとつが「魔の影響」かもしれません。— 気を吸い取る方々。呪いのようなもの。呪われたとされる場所。憑かれたとされるお品物。— お言葉は劇的で、おご説明はしばしば単純で、まなざしはほとんど常に外へ向かいます。— 誰かのせいに。何か異なるものが取り憑いた、と。— おご処方はこうでございます。— ひとつの守りの儀礼、ひとつのお守り、ひとつのお焼香。— ご難所は、これにて解けたのだ、と。
けれども、ことはそれほど単純ではないのでございます。— 二十五年余りの実践のなかで — 日本のお寺で、何百という方々と歩むなかで、古き原典と向き合うなかで — もっと細やかな景色が見えてまいりました。— 多くの方々が「外からの魔の影響」と体験されているお力の負担は、その由って来たるところを、攻めに持つものではございません。— その由って来たるところは、ご自身の中にございます。— 未だ消化されぬ筋のなかに、深い刻みのなかに、仏教が二千五百年の長きにわたり三毒と呼んでまいったものの中に。

三毒 — 内なる源三毒
仏教には、気を吸い取られるというお話よりもずっと古いひとつの心得がございます。— 三毒 — 三毒 三毒。— その名は、貪 貪(欲)、瞋 瞋(怒り)、痴 痴(迷い)でございます。— 真言の伝統において、それらは、すべての苦の三つの根として、しばしば説かれてまいります。— 外の敵としてではなく、— 意識を曇らせる、内なるお力として。
貪(欲)は、ものへの欲だけではございません。— ある状態へのこまやかな執着 — 人への、結果への、こうあってほしいというお気持ちへの固まりでもございます。— 瞋(怒り)は、ほかの方への怒りだけではございません。— 「あるがまま」を退けるお気持ち、いつも何かに抗っていらっしゃるご様子、お身体に張りとして、心に苦みとして表れる強ばりでもございます。— そして痴(迷い)は、愚かさではございません。— 見たくない気持ち、居心地のよくないまことを避ける癖、もう合わなくなったご物語に固執すること、でございます。
お力に長く負担をお感じになっている方は、まずこちらにまなざしを向けられるとよろしいのかもしれません。— 外の働きが無いと申すのではございません。— 三毒こそが、外の働きが根を下ろせる地を、はじめにお整えしてしまうのでございます。
負担の幾重もの層煩悩
お力の負担は、ひと重のものではほとんどございません。— 幾重もの層となって重なってまいります。— 第一の層は、いちばん表に近いもの。— 後ろ向きの思いと癖。悩み続けること、ご自身を疑うこと、壊れゆく内側のおご会話。— こうした筋は、ある気配のおご印を生みます。— お身体の上では疲れ、強ばり、ものごとをはじめる元気の無さとして、現れることがございます。
第二の層は、もっと奥でございます。— ご育ちのなかで身についたお刻み。— 子どもの頃に言われたお言葉 — ご自身について、世の中について、何が叶うかについて — それらが、ご自身のお力の場を、お望みになろうとなかろうと、形づくってまいります。— 「お前は過敏すぎる」「大袈裟にするな」「気のせいだ」。— 感受性の鋭い者として育ち、何年もご自身の感じ取りを抑えてまいられた方は、こうしたお刻みを、お力の滞りとして携えていらっしゃるのでございます。
第三の層は、お信念 — ご宗教のものに限らず、世の中のからくりについての、深く根づいたお考えに関わってまいります。— ある信念は、絶え間ない恐れを生みます。— 至るところに暗き力が潜むという思い込み。— ある信念は、羞じらいを生みます。— 霊的なお力は危ういもの、禁じられたものというお考え。— こうした体系は、見えぬ檻のように働き、— 実際に負担として感じ取られるお気配を生んでまいります。

さらに、傷の層 — 魂の痕 — がございます。— 深い傷 — 喪失、暴力、信頼の裏切られ — は、心の上だけでなく、お力の上にも痕を残してまいります。— その痕は、異なる気配のように感じられ、ご自身に属さぬ何かのように思われることがございます。— けれども、それはよそ者ではございません。— 未だおご居場所を得ていない、ご自身の痛みでございます。
そして、多くの方が「気を吸い取られた」とお表しになるご感じ — あるお方々のお側で、お力が衰えるご感じ — がございます。— ある場では、これは「気を吸う方」のせいに帰せられがちでございます。— 真言のまなざしは、もっと静かでございます。— ほとんどの場合、それは攻めではございません。— ご自身の中で未だ消化されぬ筋が、その方とのご出逢いによって呼び覚まされたしるしでございます。— その方は、奪う方というよりも、— 鏡(かがみ)でございます。
場所、お品物、そして場場
では、外の働きはまったく無いのでしょうか。— ございます。— 真言の伝統は、場所やお品物と関わる現れを、しっかりと知ってございます。— 日本のお寺では、長きにわたり清めの儀礼が営まれてまいりました。— ご迷信からではなく、— お部屋や物がお力を蓄えうる、というご体験からでございます。— 重きできごとが起こった場所は、感じ取れる気配を担うことがございます。— 強い感情を帯びた品物は、その感情を運ぶことがございます。
けれども、ここでも申しあげたいのは、こうでございます。— 問は、場や物が放つものだけにあるのではございません。— なぜご自身がそれにお応えになるのか、という問にもございます。— お二人が同じお部屋に入られ — お一方は何もお感じにならず、もうお一方は重みをお感じになる。— その違いは、お部屋の中だけにあるのではございません。— その場の気配によって、ご自身のどの内なる筋が触れられるか、にもございます。
真言の実践のなかには、清めと魂の守護の力強い方法がございます。— 真言、印、儀礼が、千二百年以上にわたり伝えられてまいりました。— 不動明王 不動明王(ふどうみょうおう)は、この伝統における最も力強い守護尊でいらっしゃいます。— その燃える剣は執着を断ち、その縄索は結ばれるべきものを結びます。— これらの実践はまことであり、働きをもつものでございます。— けれども、内なる歩みに代わるものではございません。— 内なる歩みを補うものでございます。

真言の道 — 清めは内からはじまる浄化
真言の伝統は、ある決定的な点において、多くの西洋のおご処方と異なります。— 大袈裟にいたしません。— 暗き力に慄きを煽ることもございません。— 悪しきものを追い払う祓い人への依り頼りもございません。— かわりに、静かな心がございます。— 清めと守りのお力は、ご自身の中にすでに宿っております、と。— 伝統の儀礼と実践は、そのお力を呼び起こすための道具でございます。
護摩 護摩の火の儀礼は、もう役目を終えたものを、象徴として、またお力としてお焼きいたします。— 不動明王のような真言は、絡みつきを断ちます。— 悉曇(しったん)の梵字は、お身体の上に観想され、お守りとお励ましをお差し上げいたします。— 瞑想は、三毒が見極められ、転じてまいる心の状へお導きいたします。— そして霊気は、お手のひらを通じて流れる宇宙のお力として、お部屋を清め、場所の気配を変え、ご自身のお力の場を整えてまいります。
けれども、これらすべてが深く、長く働きをみせるのは、ご自身の影の部分と向き合おうという内なる覚悟がおありになるとき、にかぎられます。— 内をお見つめにならぬまま守りの儀礼ばかりをなさる方は、内側で燃えているお家のまわりに、外壁ばかりを高くしてまいるのでございます。
もっとも深い清めは、外への抗いではなく、— 内へのまなざしでございます。守りの儀礼、真言、お力のお働きは、真言の伝統の力強い道具でございます。— ただし、それらが本来のお力を発揮なさるのは、ご自身の影を、敵として戦うのではなく、ご自身の道の一部としてお受け取りになるご覚悟がおありのときでございます。
これは軽やかな知らせではございません。— 力ある祓い人がお解きになる暗き呪いのお話より、響きが地味かもしれません。— けれども、まことにかなったお話でございます。— そして、お力をお授けする話でもございます。— もし大半の「魔の影響」がご自身の中に源を持つのであれば、— 転じてまいるお力もまた、ご自身の中にあるのでございます。— お守りの中ではなく、ほかの方の中ではなく、— ご自身の実践、ご自身のまなざしの中に。
真言霊気には、この道のためのすべての道具がございます。— 清めの儀礼、護身の実践、瞑想、三密 — お身体・お言葉・お心 — の働き。— 早道としてではなく、— ひとつの道として。— 一歩ずつ。一層ずつ。— 「外からの攻めだ」と受け取っておられたものが、— 実はおご招きであった、— 見つめ、感じ、転じてまいるためのおご招きであったと、お分かりになるそのときまで。
清めはご自身からはじまります。
真言霊気は、お守りの実践、清めの儀礼、— そしてご自身からはじまるひとつの道を、お差し上げいたします。— ご自身に添うお入口を、お探しくださいませ。
ご自身の道へ 不動明王 — お守りの尊