お心を静かにする瞑想がございます。お身を緩めてくださる瞑想もございます。そして、ご自身の奥に息づくものを静かにお変えになる瞑想がございます ― 古いお伝えがお覚りへのお門と申し上げてまいりました瞑想でございます。月輪観 ― がちりんかん 月輪観 ― はそのお一つでございます。日本の密教のもっとも根もとなるご実践のおひとつでいらっしゃいます。そして、ひとつのお姿から始まります ― 満月のお姿でございます。
お空のお月さまのことではございません。お歌びとのお慕うお月さまでもございません。清みわたるお光のままの、翳りのない輪のお姿 ― お心そのものを映すほどに満ちたお月さまでございます。真言のお伝えのなかで、このお月さまはお一りお一りが内にお宿しになっている何かを静かに表します ― 日々のお思いとお習いの下に埋もれた、もとよりの清らかな御心でございます。月輪観は、その御心を静かに思いだしてまいるお道でございます。

月輪観とはどのようなご実践でございますか 月輪観
月輪観は、緩みのためのお術ではございません。真言密教のお伝え ― 空海上人(弘法大師)が九世紀に中国より日本にお持ちかえりになりました密のお伝え ― の核のお一つでございます。真言のお寺のなかで千二百年お続けになってまいりました。奥深いご実践への備えとなり、お伝えが菩提心(ぼだいしん)菩提心 ― お覚りの御心 ― と申し上げてまいりましたものへの直のお門でございます。
原理はやさしくも奥がございます。修行者は輝く白いお月さまをご観想になります。この内なるお姿は、ただのお想像としてではなく、ご自身のもとよりの清らかな御心の映しとして静かにお受けになります。真言のお智慧のなかで、お月さまは西洋のお象徴のような記号ではございません ― 他の何かを指すおしるしではございません。お月さまそのものが清らかな御心、お姿となられた御心でございます。ご観想は、すでにそこにいらっしゃる御方を静かに顕してまいります。
空海上人とお月さま ― 千二百年のお伝え 空海
空海上人が806年に中国よりお戻りになりましたとき、お持ちかえりになったのは経典と儀礼だけではございませんでした。内のお変容のひとつのまるごとのお仕組みをお持ちかえりになりました ― そして、そのなかで月輪観は中心のお御役目でいらっしゃいました。お御著『即身成仏義』即身成仏義 ― 「このお身のままで仏と成るお意味」 ― のなかで、空海上人はお月さまを、ご実践によって顕される御心の本来のお光として説いておられます。
空海上人にとってのお問いは、人がお仏のお本性をお具えでいらっしゃるかどうかではございませんでした。なぜそれをお御覧になれないのか、というお問いでございました。お答えはこうでございます ― 御心が覆われていらっしゃるからでございます ― 雲に隠れた満月のように。月輪観は、その雲を静かに透かしてまいるご実践でございます。力づくでも、思い計らいでもなく、内なる眼のおはたらき ― 観 観、いかなるお思いよりも奥に降るご観想 ― によってでございます。
このお智慧のお根は密教だけにはとどまりません。お月さまをめぐる霊性のお伝えは、巫の道教、修験道、神道のなかにも息づいてまいりました。これらすべてのお伝えのなかで、満月は清らかさ、明らかさ、暗がりに御覧になれるお力を表します。空海上人ご自身も修験のお御ご実践者でいらっしゃいまして、これらの古のお伝えを真言のご実践のなかへ静かにお編みになりました。月輪観は密教だけのご実践ではございません。真言の育ったすべてのお伝えのお面影を静かにお持ちでございます。

真言のお伝えにおけるお月さまの象徴 月
なぜとくにお月さまでございましょうか。西洋のご霊性では、お月さまはしばしば女性のお力、無意識、巡りに結びつけられます。真言のお伝えでは、もう少し細やかなお意味を担われます。満月は三つの性を同時にお担いになります ― 清らかさ、満ちあふれ、静かなお輝きでございます。
清らかさ。 月輪観のお月さまはお翳りなき白でいらっしゃいます。お染みも、影も、濁りもいらっしゃいません。これは清らかな御心のご本性でございます ― 本覚 本覚、いのちあるすべての御方に本来からお宿りの「もとよりの覚り」でございます。お月さまは、御成りになるべき御方をお示しになるのではございません。奥に息づくご自身そのもののお姿をお示しになります。
満ちあふれ。 半月でも、三日月でもございません。満月でいらっしゃいます ― まるく、欠けるところなく、不足のないお姿でございます。真言のお智慧では、お覚りの御心は御身でお築きになるものではございません。欠けてはいらっしゃいません。完全にいらっしゃいます。ご実践は何もお加えになりません ― それを覆うものを静かに取りのぞきになります。
静かなお輝き。 お月さまはお陽さまのように燃えていらっしゃいません。静かにお輝きになります。眩からせずにお照らしになります。瞑想のなかでは、これは知性からではなく奥のお層から現れますお悟りの性でいらっしゃいます ― はじめてのお思いが立ちあがる前からそこにいらっしゃる明らかさでございます。
さらに、真言のお伝えで中心となるおむすびがございます ― お月さまと悉曇のお音アとのおむすびでございます。月輪観の多くのお姿のなかで、お月さまの中心に悉曇のアのお御文字がお立ちあがります ― すべての聖なるお音のなかではじめにして根もとのお御音でございます。アは真言のお伝えでは、不生 ― すべてのもののお源、お真のご本性そのもの ― を表します。お月さまとアのお音とで、完全のお姿が静かに立ちあがります ― 普遍のお智慧がお住まいになる輝く御心でございます。
月輪観は近代的な意味でのお想像のお術ではございません ― 「美しい何かをお思いになってください」というお話ではございません。清らかな枠のあるご観想で、儀礼のなかで静かにお伝えされてまいりましたものでございます。一歩ずつ御心を清めて、普遍のお智慧へのお備えを静かにお整えになります。完全なご実践は伝授のなかで静かにお伝えされます ― 本物のお伝えのなかでこそ、お力が静かに顕れるからでございます。
月輪観と今の息づくご実践 今
日本の真言のお寺では、月輪観は今日もご実践されております ― お御僧の毎日のお御ご実践として、より奥深い儀礼へのお備えとして、また独立した瞑想のお姿として。博物館のお品ではございません。息づくご実践でございます。
真言霊気のなかで、月輪観はとくべつなお場をお持ちでございます。お寺のご実践の奥深さと、真言霊気の近づきやすさを静かに結びます。根もとのお姿 ― お胸のなかの輝くお月さまが静かにひろがり、お身体を満たすお姿 ― をお知りになる方は、このご実践に息づくお力を静かにお感じになれます。細やかな段と正しい順とお添えのお働きを含む完全なお仕方は、伝授のなかで方から方へ静かにお伝えされます。秘密のためのお秘密ではございません。直のお伝えのなかでこそ完全に顕れるご実践への、静かなお敬いでございます。
月輪観はおひとりだけで立っているのではございません。呼吸の瞑想、悉曇のご観想、お真言のご実践 ― お互いを映しあうご実践の網のなかにお編みこまれていらっしゃいます。それぞれが同じお道のべつのお面を照らしてくださいます。合わせて、真言のお伝えが「このお身のままでお覚りに到るお道」と申し上げてまいりましたお姿 ― 即身成仏 即身成仏 ― を静かに形づくられます。
このお話に触れて静かに御感じになる方は、おそらくこういうお気持ちをご存じでいらっしゃいます ― お見えになるものの奥に何か深いものが息づいているというお気持ち。瞑想は緩みのお術よりずっと奥のものでありうるというお気持ち。ご自身の御心には、顕されるのを静かに待っている明らかさがある、というお気持ち。月輪観は、まさしくこのお気持ちへのもっとも古く直のお応えのおひとつでございます。千二百年も。そして今もなお、静かに待っていらっしゃいます。