108回の呼吸でございます。それより多くも、少なくもございません。やさしく聞こえます。そしてまさにそこが大切なところでございます。数息観 数息観 ― 真言密教の呼吸を数える瞑想 ― は、日本の瞑想のお伝えのなかで、もっとも根もとであり、もっとも力づよいご実践のおひとつでございます。ご観想もお真言も、複雑な儀礼もございません。ご自身と、お呼吸と、その数だけでございます。それでも、このご実践はご根本のところで何かを静かにお変えになります。
108回のあいだ、本当に御ご集中になっていられた方はご存じでございます ― お心には別のお計らいがございます。跳んでまいります。注いでまいります。物語を編みだしてまいります。数息観はそのことを静かにお示しになります ― お話としてではなく、直のご体験として。だからこそ、このご実践は何百年ものあいだ、真言の奥深いすべての瞑想へのお入口でいらっしゃいます。

数息観とはどのようなご実践でございますか 数息観
数息観は近代のマインドフルネスのお動きから生まれたものではございません。お根は東アジアの仏教のお伝えに深く息づいております ― そして真言密教では、奥深いすべてのご実践への根もとのお備えとして仰がれてまいりました。修行者がお真言、お印、悉曇のご観想にお進みになる前に、お心を整えてくださる必要がございます。数息観はその上にすべてが立つ土台でございます。
原理はおあきらかでございます。背すじを立てておすわりになり、意識をもってお呼吸し、お一つお一つの呼吸をお数えになります。九つの巡りでお数えになります。一から九まで、また初めから ― 108回の呼吸にお達するまでお続けになります。やさしく聞こえます。実のところもやさしくございます。それでも三つ目の呼吸ですでにお心がおそれていらっしゃることに御気づきになるでしょう。まさにそこから本当のご実践が始まります ― お気づき。お戻り。あらためてのお始めでございます。失敗としてではなく ― 瞑想そのもののお核として。
ご実践の根もと 坐
お坐りの姿がはじめのお選びでございます。真っすぐに、安定して、気高く。お座蒲のうえで胡座でも、正座でも、お椅子のうえでも ― 大切なのは背すじが真っすぐであることでございます。顎を軽くお引きになり、見えない糸が頭のてっぺんを天井へとお引きになるかのように。肩はお緩めて下へとお落とされます。お目は軽くお開けでも、お閉じでも ― 真言にはお両方のお伝えがございます。
お手はお印を結ばれます。もっともやさしいお姿では、膝のお上に重ねてお置きになります ― 右のお手が左のお手のなかに、親指の先が軽く触れあいます。このお手のお姿は法界定印(ほっかいじょういん)法界定印 ― 法界三昧のお印 ― と申し上げられます。お身体とお心に静かにお知らせになります ― いまべつのものが始まります。いまはお計らいも、お分けへだても、お応えもなさいません。いまはお呼吸でございます。
お呼吸そのものは自然なお調べに従われます。鼻からお息をお吸いになり、奥深くお腹のなかへ。お口からゆっくりと完全にお吐きになります。お腹のお呼吸でいらっしゃいます ― お胸のお呼吸ではございません。お息をお吸いになるたびに、お腹が静かにお膨らみ、お吐きになるたびに静かにお戻ります。お押しになりません。お強いになりません。お息は流れるままにいらっしゃいます。それを御覧になり、お数えになり、同時にお起こりになるままにいらっしゃいます。
真っすぐにおすわりになる。お手は膝のお上に。お鼻からお息をお吸いになり、お口からお吐きになる。お一つお一つの呼吸をお数えになる ― 一から九まで、また初めから。 糸がお切れになりましたら、また一からお始めになります。そうして合わせて108回の呼吸でございます。これが数息観のもっとも素のお姿でございます ― そしてこれだけでお心を静かにお変えになるに足ります。
九つの巡りには良い理由がございます。九は見渡せる単位でございます。お心に枠をお与えになりつつ、おなやませにはなりません。すぐに108までお数えになろうとなさる方は、しばしば二十のあたりですでにお思いに迷われ、それにすらお気づきになりません。九つの巡りは定期的なお確かめのお場をお与えになります ― 九にお到りになるたびに、いまほんとうにここにいらっしゃったとお知りになります。

108 ― なぜこの数でございますか 百八
108は仏教でもっとも聖なる数のおひとつでございます。日本でお正月にお寺をお訪ねになりますと、108回の鐘のお音をお聴きになります ― 除夜の鐘 除夜の鐘 でございます。お一つお一つのお音が、108の煩悩(ぼんのう)煩悩のおひとつ ― お心を曇らせる迷いと執着と内なる障り ― におあたりになります。お一つお一つのお音とともに、迷いがおほどかれてまいります。最後のお音がお消えになりますと、清みわたるお心とともに新しい年が始まります。
仏教のお念珠 ― お数珠 数珠 ― も108の珠でいらっしゃいます。お真言を唱えになるたびに、お一つお一つの珠を指のあいだにお送りになります。真言のお伝えでは、お数珠は儀礼のお道具でいらっしゃり、お心が自ら静かになるまで、お繰りかえしのなかでお導きになります。108回のお真言。108回のお呼吸。108回の鐘の音。この数はお戻りなさいます ― ご実践の完全のお尺度として。
108がどこからまいるか、仏教のお伝えにはいくつかのご説がございます。よく知られたお話のおひとつ ― 六つの感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識)に三つの時のお層(過去、現在、未来)、二つのお性(快、不快)、三つの状態(執着、嫌悪、無明)をおかけになります。6 × 3 × 2 × 3 = 108。お一つお一つの煩悩が、迷いの網のひとつの結びでございます。108呼吸のご実践はその網を静かにおほどきになります ― お戦いによってではなく、静かなお気づきによってでございます。
数息観をお入口として ― そのあとに来るもの 門
数息観はお門でございます。あえてお入口として編まれてまいりました ― すべてが始まるご実践として。真言密教のお寺では、新たにお入りになる方がはじめにお授けになるご実践でございます。軽んじられているからではございません ― これがなくては他の何もはたらかないからでございます。お心を108回の呼吸のあいだお保ちになれない方は、お真言のご誦、悉曇のご観想、儀礼の瞑想ではあまりお進みになれません。集中がすべての土台でございます。
ですから、数息観は真言霊気のご実践のなかでも中心のお役目でいらっしゃいます。お心を月輪観のお月さまにお備えになり、お真言とお印のお働き、気のご実践の奥のお層へとお導きになります。定期的に数息観をご実践になる方はお気づきになります ― お思いが静かになり、お感じが細やかになり、ひとつのことに留まるお力がお育ちになります。
ここに大切なお話がございます ― 数息観の根もと(坐ること、呼吸、お数え)はどなたでも今すぐにお始めになれます。そのために伝授も、儀礼も、秘密も必要ございません。必要なのは、おすわりになるというお決めだけでございます。けれども、この土台の上にお立ちになる奥のご実践 ― ご観想、お真言のお働き、真言のお仕組みのなかへの編みこみ ― は伝授とお伝えのなかでお開かれるお層でございます。このお伝えのなかでは、常にそうしてまいりました。土台はおひらかれております。奥行きは静かにお伝えされます。
お始めになるばかりの方には、毎日10分でも充分でございます。おすわりになり、お印を結ばれ、お数えをお始めになります。初めは10までも続かないかもしれません。それで当たり前でございます。お数えにお戻りになるお一つお一つの瞬間が、明らかさの一瞬でいらっしゃいます ― 失敗ではなく、ご実践そのものでございます。幾週か過ごされたあとに、瞑想だけでなく日々のお暮らしも静かに変わってまいることに御気づきになります。今ここにいらっしゃるお力は、すべてに染みわたります。
ご実践のなかで立ちあがる内なる抵抗 ― そわそわ、つまらなさ、急な眠気、立ちあがろうとするお気持ち ― は邪魔ではございません。108の煩悩のお一部でございます。それでも静かにお数えになる呼吸のお一つお一つが、静かなお清めの業でいらっしゃいます。そのお状態に逆らうのではなく、そのなかをお通りになるご実践でございます。
数息観は土台でいらっしゃいます。ここに根をお下ろしになる方には、真言の奥のご実践が自らお開かれてまいります。本でお読みになれるお術としてではなく ― 息づくお伝えとして、千二百年絶えないお連なりのなかで静かにお渡されてまいりました。