をおじになる ― そして、ご自身じしんのお姿すがたをごらんになる、とおん想像そうぞうになってください。本物ほんものの鏡のなかではございません。しずかにみわたるおうちなるお姿のなかでございます。けへだてもございません。おくらべもございません。ありのままのご自身でございます。このお姿にしずかにおいになりましたら、何がこりますでしょうか。すぐにおえになろうとせず、ただいらっしゃるままにおゆるしになりましたら、何が起こりますでしょうか。

鏡像瞑想はかんのご実践じっせんでございまして、真言のおつたえのなかで何百年もられてまいりました。近代きんだいのおのなかではめったにむすばれないふたつのことをむすびます ― お身体しんたい奥深おくふかゆるみと、ご自身をすおおおいなしにごらんになるご体験たいけんでございます。つねにご自身じしんわせなければならないお ― お期待きたいに、お画面がめんに、ほかのかたのおはやさに ― にあって、この瞑想はおもどりでございます。理想りそうのご自身へのお戻りではございません。すでにいらっしゃるご自身へのお戻りでございます。

マーク・ホサック博士 ・ お肖像
マーク・ホサック博士 ・ お肖像

鏡像瞑想 ― 四つのおだん 四段

この瞑想のもとのお姿はあえて素朴そぼくまれてまいりました。とくべつなお場所も、お道具どうぐも、まえもってのおん知識ちしき必要ひつようございません。四つのお段でございます。お一つお一つがおもんひらかれます ― 外へではなく、うちへのお門でございます。

お段 1 ― しずかなおをおえらびになる。 たりまえのようにこえます。けれども、これがはじめての意識いしきのおふるまいでございます。つづ幾分いくふんか、おさまたげのないお場所をお選びになります。おしずかである必要ひつようはございません ― ここにいらっしゃる、というおめだけが大切たいせつでございます。このお決めがすでにご実践のはじまりでございます。おすわりになり、無理むりのない瞑想のおすわりの姿すがたをおつけになり、お呼吸こきゅうしずかにおかせになります。

お段 2 ― お目をお閉じになり、ご自身をかがみのなかに御らんになる。 ここから本当のご実践がはじまります。お目をお閉じになり、お御前おまえかがみがおっているとご想像になります。その鏡のなかにご自身がごらんになります。あさのお洗面所せんめんじょのお姿ではございません。うちがおうつしになるお姿でございます。みわたるお姿をご覧になるかたもいらっしゃいます。お輪郭りんかくだけ、おかんじだけをご覧になる方もいらっしゃいます。両方りょうほうともただしゅうございます。かんぺきなお姿をおちあげになることがおてではございません。おをそらさずにおんらんになることが大切たいせつでございます。

お段 3 ― お思いを来ては去るままにお許しになる。 ご自身をご覧になる瞬間しゅんかんに、お思いがおいでになります。おけへだて。お記憶きおく。お計画けいかくたりまえでございます。真言のお伝えではこうもうし上げられます ― お思いは、鏡のうえをわたくものようなものでございます。鏡がうつすお姿そのものをお変えにはなりません。来るままに、去るままにお許しになります。そしてお姿に ― うちなる鏡のお御前おまえっていらっしゃるご自身に ― 何度でもおもどりになります。

お段 4 ― 頭の頂からお足のさきまで、だんかいのお緩み。 いまお身体のおそうはじまります。鏡像をご覧になりながら、お注意とともにお身体をおあるきになります。頭のいただきからおひたい、おかお、おくび、おかた、おうで、おむね、おなか、お骨盤こつばん、ふともも、ひざ、すね、お足のさきまで。お一つお一つのお場で、意識いしきとともにおはなしになります。ちからづくでではなく、えだからゆきがおちるように ― あたたかさがると、みずかはなれてまいります。この奥深おくふかい緩みの姿すがたはボディースキャンともちかしいおかんわりでございます ― けれどもさらに一さきへとお進みになります。お身体だけでなく、ご自身の鏡像がしずかにわってまいるのをおんらんになります。

マーク・ホサック ・ 合掌のお姿
マーク・ホサック ・ 合掌の瞑想

なぜ鏡でいらっしゃいますか ― 真言のお眼差し 鏡心

日本のご霊性れいせいのなかで、鏡がえらばれるのは偶然ぐうぜんではございません。鏡(かがみ) ― は日本のみっつのせいなるお御印おしるしのひとつでいらっしゃいます。神道しんとうではまことのお象徴しょうちょうでいらっしゃいます ― 鏡はなにかをおしになることも、おきになることもなく、いらっしゃるままをおうつしになります。真言のお伝えのなかで、鏡はもうすこおくのお意味いみになわれます。おこころそのもののお象徴でいらっしゃいます ― 鏡心(きょうしん)鏡心うつすお心、お真をゆがめずにお映しになるほどにみわたるお心でございます。

鏡像瞑想のなかでご自身のお姿をご覧になるとき、まさにそれをご実践になります ― ゆがみのないおかんじでございます。おえにならずにご自身を御覧になります。緊張きんちょうに向きあわれ、おたたかいになりません。お思いに気づかれ、おしたがいになりません。これは受動的じゅどうてきなご実践ではございません。とくべつなおちからがお必要ひつようでいらっしゃいます ― ありのままのご自身にえていらっしゃるお力でございます。

真言のお伝えのなかで、このご実践は緩みのお領分りょうぶんえておすすみになります。鏡がおもんとなる瞑想のお姿がございます ― 意識いしきのよりおくのおそうへ、宇宙うちゅうのおほとけとのおむすびへ、お言葉ことばではなかなかもうげにくいご体験たいけんへとおみちびきになるお門でございます。これらの奥のお姿は伝授のなかでお伝えされます ― じかのお会いが土台どだいとなるお場でございます。

「鏡はけへだてになりません。おうつしになります。お映しになるものにたたかうのをおめになりました瞬間しゅんかんに、何かがしずかにほどけはじめてまいります ― お身体だけでなく、ご自身をおんかんじになるお仕方そのものに、でございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

合わせるのではなく ― ご自身からおになる 自在

この瞑想のしばしば見落みおとされるめんがございます。おおくの緩みのお仕方は、お身体をしずめることをお目当めあてになさいます ― ストレスがる、緊張が減る、活性かっせいが減る、というお目当てでございます。がたいことでございます。けれども、それだけではございません。

鏡像瞑想はかくのところでべつのお目当てをおちでございます ― 自在(じざい)自在、ご自身からでになる内なるお自由じゆうでございます。日本のお言葉は文字もじどおり「ご自身からお出になる」を意味いみします。そとのお期待へのわせではございません。げの緩みでもございません。ご自身にいたられ ― そこからおふるまいになるお力でございます。

ご実践のなかで、これがもっともあきらかにおかんじになりますのは、お思いがおいでになる三段さんだんでございます。これらのお思いのおおくは、ご自身のものではございません。りこまれたお声でございます ― ご両親りょうしんのお声、ご同僚どうりょうのお声、世間せけんのおならいのお声でございます。鏡はそれらにづくおささえになります。分析ぶんせきのためではございません。「これはご自身ではございません」としずかにお気づきになるためでございます。そして、ご自身のお姿にもどられます。

このご体験は、おおくのかた ― ことにかんじやすい御方かた ― にとってはなつおちからっていらっしゃいます。おのころにおんかんじになったものは、ただしゅうございました。それはまだいらっしゃいます。鏡像瞑想は、それをふたたびおつけになるまもられたおをおあたえになります。

このご実践は108呼吸の瞑想見事みごとむすばれます。108回の意識いしきのお呼吸でお心をおしずかにし、それから鏡像瞑想におうつりになります。お呼吸のなかでそだつ静けさが、うちなるお姿をよりみわたらせてくださいます。

マーク・ホサック ・ 合掌のお姿
マーク・ホサック ・ 合掌の瞑想
ひとめで

四つのお段で鏡像瞑想: 静かなお場をお選びになる。お目をお閉じ、内なる鏡のなかでご自身をご覧になる。お思いを来ては去るままにお許しになる。頭の頂からお足のさきまで、お呼吸とともにお身体をお緩めになる。この根もとのお姿は完全かんぜんな緩和のご実践でございます。真言のお伝えのなかで、これはおくの瞑想への土台どだいでいらっしゃり、伝授のなかでお伝えされます。

個別こべつのご体験たいけんでございます。 結果けっかには個人差こじんさがございます。霊気と霊性れいせい実践じっせんは、医療いりょう心理療法しんりりょうほうわりとなるものではございません。
奥の瞑想へ

お道の全体ぜんたいれる

鏡像瞑想ははじまりでございます。真言霊気のなかで、緩みをはるかにえるお門が静かにひらかれます。どのお入口いりぐちがご自身にうのか、ご一緒いっしょにおつけになりましょう。

真言霊気へのこころみち 月輪観の瞑想