お目をお閉じになる ― そして、ご自身のお姿をご覧になる、と御想像になってください。本物の鏡のなかではございません。静かに清みわたるお内なるお姿のなかでございます。分けへだてもございません。お較べもございません。ありのままのご自身でございます。このお姿に静かにお会いになりましたら、何が起こりますでしょうか。すぐにお変えになろうとせず、ただいらっしゃるままにお許しになりましたら、何が起こりますでしょうか。
鏡像瞑想は緩和のご実践でございまして、真言のお伝えのなかで何百年も知られてまいりました。近代のお世のなかではめったに結ばれない二つのことを結びます ― お身体の奥深い緩みと、ご自身を濾すお覆いなしにご覧になるご体験でございます。常にご自身を合わせなければならないお世 ― お期待に、お画面に、ほかの方のおはやさに ― にあって、この瞑想はお戻りでございます。理想のご自身へのお戻りではございません。すでにいらっしゃるご自身へのお戻りでございます。

鏡像瞑想 ― 四つのお段 四段
この瞑想の根もとのお姿はあえて素朴に編まれてまいりました。とくべつなお場所も、お道具も、まえもっての御知識も必要ございません。四つのお段でございます。お一つお一つがお門を開かれます ― 外へではなく、内へのお門でございます。
お段 1 ― 静かなお場をお選びになる。 当たり前のように聞こえます。けれども、これがはじめての意識のおふるまいでございます。続く幾分か、おさまたげのないお場所をお選びになります。お静かである必要はございません ― ここにいらっしゃる、というお決めだけが大切でございます。このお決めがすでにご実践のはじまりでございます。おすわりになり、無理のない瞑想のおすわりの姿をお見つけになり、お呼吸を静かにお落ち着かせになります。
お段 2 ― お目をお閉じになり、ご自身を鏡のなかに御覧になる。 ここから本当のご実践が始まります。お目をお閉じになり、お御前に鏡がお立っているとご想像になります。その鏡のなかにご自身がご覧になります。朝のお洗面所のお姿ではございません。内がお映しになるお姿でございます。清みわたるお姿をご覧になる方もいらっしゃいます。お輪郭だけ、お感じだけをご覧になる方もいらっしゃいます。両方とも正しゅうございます。完ぺきなお姿をお立ちあげになることがお目当てではございません。お目をそらさずに御ご覧になることが大切でございます。
お段 3 ― お思いを来ては去るままにお許しになる。 ご自身をご覧になる瞬間に、お思いがおいでになります。お分けへだて。お記憶。お計画。当たり前でございます。真言のお伝えではこう申し上げられます ― お思いは、鏡のうえを渡る雲のようなものでございます。鏡が映すお姿そのものをお変えにはなりません。来るままに、去るままにお許しになります。そしてお姿に ― 内なる鏡のお御前に立っていらっしゃるご自身に ― 何度でもお戻りになります。
お段 4 ― 頭の頂からお足のさきまで、段階のお緩み。 いまお身体のお層が始まります。鏡像をご覧になりながら、お注意とともにお身体をお歩きになります。頭の頂からお額、お顔、お首、お肩、お腕、お胸、お腹、お骨盤、ふともも、ひざ、すね、お足のさきまで。お一つお一つのお場で、意識とともにお離しになります。力づくでではなく、枝から雪がお落ちるように ― あたたかさが来ると、自ら離れてまいります。この奥深い緩みの姿はボディースキャンとも近しいお関わりでございます ― けれどもさらに一歩先へとお進みになります。お身体だけでなく、ご自身の鏡像が静かに変わってまいるのを御覧になります。

なぜ鏡でいらっしゃいますか ― 真言のお眼差し 鏡心
日本のご霊性のなかで、鏡が選ばれるのは偶然ではございません。鏡 ― 鏡(かがみ) ― は日本の三つの聖なるお御印のひとつでいらっしゃいます。神道では真のお象徴でいらっしゃいます ― 鏡は何かをお足しになることも、お引きになることもなく、いらっしゃるままをお映しになります。真言のお伝えのなかで、鏡はもう少し奥のお意味を担われます。お心そのもののお象徴でいらっしゃいます ― 鏡心(きょうしん)鏡心、映すお心、お真をゆがめずにお映しになるほどに清みわたるお心でございます。
鏡像瞑想のなかでご自身のお姿をご覧になるとき、まさにそれをご実践になります ― ゆがみのないお感じでございます。お変えにならずにご自身を御覧になります。緊張に向きあわれ、お戦いになりません。お思いに気づかれ、お従いになりません。これは受動的なご実践ではございません。とくべつなお力がお必要でいらっしゃいます ― ありのままのご自身に耐えていらっしゃるお力でございます。
真言のお伝えのなかで、このご実践は緩みのお領分を越えてお進みになります。鏡がお門となる瞑想のお姿がございます ― 意識のより奥のお層へ、宇宙のお仏とのお結びへ、お言葉ではなかなか申し上げにくいご体験へとお導きになるお門でございます。これらの奥のお姿は伝授のなかでお伝えされます ― 直のお会いが土台となるお場でございます。
合わせるのではなく ― ご自身からお出になる 自在
この瞑想のしばしば見落とされる面がございます。多くの緩みのお仕方は、お身体を静めることをお目当てになさいます ― ストレスが減る、緊張が減る、活性が減る、というお目当てでございます。有り難いことでございます。けれども、それだけではございません。
鏡像瞑想は核のところで別のお目当てをお持ちでございます ― 自在(じざい)自在、ご自身から出でになる内なるお自由でございます。日本のお言葉は文字どおり「ご自身からお出になる」を意味します。外のお期待への合わせではございません。逃げの緩みでもございません。ご自身に到られ ― そこからおふるまいになるお力でございます。
ご実践のなかで、これがもっとも明らかにお感じになりますのは、お思いがおいでになる三段目でございます。これらのお思いの多くは、ご自身のものではございません。取りこまれたお声でございます ― ご両親のお声、ご同僚のお声、世間のお習いのお声でございます。鏡はそれらに気づくお支えになります。分析のためではございません。「これはご自身ではございません」と静かにお気づきになるためでございます。そして、ご自身のお姿に戻られます。
このご体験は、多くの方 ― ことに感じやすい御方 ― にとって解き放つお力を持っていらっしゃいます。お子のころに御感じになったものは、正しゅうございました。それはまだいらっしゃいます。鏡像瞑想は、それをふたたびお見つけになる守られたお場をお与えになります。
このご実践は108呼吸の瞑想と見事に結ばれます。108回の意識のお呼吸でお心をお静かにし、それから鏡像瞑想にお移りになります。お呼吸のなかで育つ静けさが、内なるお姿をより清みわたらせてくださいます。

四つのお段で鏡像瞑想: 静かなお場をお選びになる。お目をお閉じ、内なる鏡のなかでご自身をご覧になる。お思いを来ては去るままにお許しになる。頭の頂からお足のさきまで、お呼吸とともにお身体をお緩めになる。この根もとのお姿は完全な緩和のご実践でございます。真言のお伝えのなかで、これは奥の瞑想への土台でいらっしゃり、伝授のなかでお伝えされます。