高野山こうやさんのとある真言のてらで、ひとつのしずかな出来事がございます。一人のかた祭壇さいだんの前にひざまずき、おおわれ、その手のひらに金剛杵こんごうしょがそっとかれます。そして、頭頂ちょうちょうみずそそがれます ― かんじょう 灌頂みずそそ儀礼ぎれいでございます。その瞬間しゅんかん、ひとつのとびらひらかれます。たとえではございません。からだかんじられるのです。そのあとのかたは、まえとはちがかたになっておられます。

この伝統でんとう千年せんねんえてまいりました。そしてこれが、真言霊気に西洋的せいようてき意味いみでの「きゅう」がない理由りゆうでもございます ― 試験しけんもなく、合格ごうかく不合格ふごうかくもございません。あるのは、伝授でんじゅでございます。そしてひとつの伝授でんじゅは、あたらしい体験たいけん段階だんかいひらいてまいります。知識ちしき十分じゅうぶんになったから ― ではございません。さらにふかあゆ準備じゅんびととのったから、でございます。

真言霊気の伝授の間 · マーク・ホサック博士
伝授でんじゅ

灌頂かんじょう伝授でんじゅ伝統でんとう 灌頂

かん 灌 ― そそぐ、みずそそぎかける、うるおす。みずのへんをつこのは、みずそそぐという動作どうさあらわします ― 儀礼的ぎれいてき伝授でんじゅ所作しょさであり、その源流げんりゅう古代こだい印度いんどにございます。おう戴冠たいかんのとき、あたまみずそそ儀礼ぎれいがございました。真言の伝統でんとうはこの儀礼ぎれいぎ、さらに霊的れいてきふかめてまいりました。
じょう 頂 ― 頭頂ちょうちょう、いただき、もっとたか場所ばしょあたまのいただきは、日本と仏教ぶっきょう伝統でんとうにおいて、宇宙うちゅうのお力がはい場所ばしょでございます。かんじょう ― 「いただきにそそぐ」儀礼ぎれいは、普遍ふへんのお力が直接ちょくせつつたわってまいる瞬間しゅんかんでございます。知識ちしきとしてではなく、体験たいけんとして。

真言の伝統でんとうには、いくつもの段階だんかい灌頂かんじょうがございます。それぞれが、特定とくてい修行しゅぎょう真言しんごん、そして観想かんそうへのみちひらきます。努力どりょく対価たいかとしてさずかるものではございません。ときちたから ― そとかたちうちなるじゅくしがととのったから、おけになるのです。これは、知識ちしき蓄積ちくせきによる進級しんきゅうという西洋的せいようてきかんがえ方とは、根本こんぽんからことなる原理げんりでございます。

臼井甕男うすいみかおは、この伝統でんとうっておられました。伝授でんじゅ原理げんり御自身ごじしんの霊気の体系たいけいれられ ― それによって、9世紀せいきから真言の修行しゅぎょうなかいきづいてまいったものを、まもつづけられたのです。真言霊気では、このむすびつきはただうやまわれるだけではございません。きた形であゆまれてまいります。

伝授でんじゅわりではございません。はじまりでございます。ひらかれたとびらのひとつひとつが、それまでえなかった部屋へやせてくださいます。そして、その部屋へやには、あたらしいとびらっております。」 マーク・ホサック博士はかせ

初伝しょでん最初さいしょ段階だんかいもんひらかれます 初伝

最初さいしょ伝授でんじゅは、すべてがはじまる瞬間しゅんかんでございます。あたまのなかではございません。からだのなかで。かんじられる形で。手のひらがひらかれます ― たとえとしてではなく、のおはたらきとして。おおくのかたが、手のひらにかすかなしびれ、あたたかさ、脈打みゃくうつような感覚かんかく体験たいけんなさいます。すぐにかんじられるかたもいらっしゃいます。数日すうじつようされるかたもいらっしゃいます。けれども、かならずやってまいります。

この段階だんかいひらかれるのは、御自身ごじしんのセッションのお力でございます ― 御自身ごじしんの手のひらを御自身ごじしんからだてて、れること以上いじょうのものをかんじるちから。手のひらは、うつわであり、同時どうじかよわせるみちでもございます。そこをながれるのは、霊気れいき 霊気普遍的ふへんてき霊的れいてき生命せいめいのお力でございます。

マーク・ホサックとアイリーン・ヴィースマン · ペアの肖像
マークとアイリーン

真言の伝統でんとうでは、この段階だんかいのなかへのはいぐち曼荼羅まんだらへの最初さいしょ一歩いっぽたります。そとはいられます。のなかにいらっしゃるのです。仲間なかまでいらっしゃるのです。そしてそれが、しずかになにかをえてまいります ― なにかを「した」からではなく、御自身ごじしんひらかれたから、でございます。

初伝しょでんは、おどろきの段階だんかいでもございます。おおくのあゆまれるかたが、ご自身のかんかたがそっとわってまいったとおはなしになります ― 派手はでではなく、けれども見過みすごせない変化へんかとして。いろがよりきいきとうつる。御自身ごじしんのおからだがより意識いしきされる。これまで「偶然ぐうぜん」とおもっていたことに、模様もようえてまいる。これは約束やくそくではございません。おおくのかたかちっておられる、ひとつの体験たいけんでございます。

ひらかれるもの

手のひら。かんかた。御自身のおからだとのむすびつき。 初伝しょでん伝授でんじゅは、これからのすべてのいしずえでございます。ちいさな一歩いっぽではございません ― 決定的けっていてき一歩いっぽでございます。すべてはこの上にきずかれてまいります。

中伝ちゅうでん象徴しょうちょう遠隔えんかくのお力 中伝

第二だいに段階だんかいでは、おおくのかたが「本当ほんとう転換てんかん」とかんじられることがこります。修行しゅぎょうがおからだからはなれてまいるのです。手のひらをてる必要ひつようがもうございません。お力は、こころざしのあとをってながれてまいります ― 場所ばしょときえて。

空想くうそうのようにこえるかもしれません。けれども、これは霊気の伝統でんとうのなかで百年以上ひゃくねんいじょうにわたって体験たいけんされてまいった事実じじつでございます ― 真言の伝統でんとうのなかでは、千年せんねんえるながきにわたって。真言ではこれを 加持かじ 加持もうします:普遍ふへんのお力とひとけとめがともはたらきます ― からだ距離きょりとはかかわりなく。

この段階だんかいかぎとなりますのが、霊気の象徴しょうちょうでございます。第二だいに伝授でんじゅでこれらがわたされます ― 抽象的ちゅうしょうてき記号きごうとしてではなく、きたお力として。それぞれの象徴しょうちょう固有こゆう性質せいしつがございます: 直霊ちょくれい 直霊直接ちょくせつのお力に、聖壁記せいへき 聖壁記感情かんじょうこころそうに、本者是正念ほんしゃぜしょうねん 本者是正念場所ばしょときえたむすびつきに。

真言霊気では、これらの象徴しょうちょう独立どくりつした道具どうぐとしてあつかわれません。歴史的れきしてき霊的れいてき文脈ぶんみゃくのなかで体験たいけんされます ― 「真言密教しんごんみっきょう修験道しゅげんどう神道しんとう、シャーマニズム的な道教どうきょう」というよっつの源流げんりゅうつつ伝統でんとう結晶けっしょうとして。象徴しょうちょう伝授でんじゅでおけになるかたは、ただ記号きごうられるのではございません。それらがまれた伝統でんとうそのものへのみちを、られるのです。

マーク・ホサック · 日本の真言の<ruby>仏壇<rt>ぶつだん</rt></ruby>の前にて
マーク・ホサック、仏壇ぶつだんの前にて ― 象徴しょうちょう修行しゅぎょうになります

遠隔えんかくのセッション ― 距離きょりえて霊気をおおくりする可能性かのうせい ― は、この段階だんかいでは「おまけ」ではございません。象徴しょうちょうひらくものの自然しぜん姿すがたでございます:むすびつきはからだしばられていない、というづき。いつくしみは距離きょりらない、というづき。曼荼羅まんだら宇宙うちゅうあみとしてえがかれているものが、かんじられる現実げんじつであるというづき。

ふかまるもの

修行しゅぎょうはより繊細せんさいに。かんかたはよりこまやかに。むすびつきはよりとおくまで。 第二だいに段階だんかいでは、えないものがえはじめてまいります。に、ではございません。手のひらに。こころに。名前なまえ必要ひつようとしないなにかに。

奥伝おくでん師匠ししょうみち 奥伝

」という言葉ことばは、西洋せいようではおもひびくことがございます。序列じょれつのようなひびき、上下じょうげのようなひびき ― 「わたしうえ、あなたはした」というような。日本の伝統でんとうでは、それはちがうことを意味いみします。先生せんせい 先生文字通もじどおり「さきまれたかた」。すぐれたかたではございません。経験けいけんかさねたかたみちすこさきまであゆみ、かえって手をべてくださるかた

真言霊気の第三だいさん段階だんかいは、師匠ししょうみちでございます。師範しはんの「きゅう」ではなく、みち。このちがいは言葉ことばのうえだけのことではございません ― 実際じっさいのあり方のちがいでございます。きゅう到達とうたつしてつもの。みちは、あゆつづけるもの。さらにとおくへ。わりはございません。

この段階だんかいひらかれますのは、おけになったものをつぎわたちからでございます。伝授でんじゅのお力そのもの ― 他のかたに霊気の伝授でんじゅさずけるおはたらき。真言の伝統でんとうでは、これを 伝法灌頂でんぽうかんじょう 伝法灌頂 ― 「ほうつたえる灌頂かんじょう」ともうします。あゆまれるかたが、けるだけではなく、わたみちにもなる瞬間しゅんかんでございます。

師匠ししょうみちは、すべてをかったときにはじまるのではございません。かることにわりがないとかったときにはじまるのです。そして、まさにそれがみちそのものでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

真言霊気の師匠ししょうみちは、源流げんりゅうへとふかみちでもございます。悉曇しったん文字もじ 悉曇御本尊ごほんぞん修行しゅぎょう曼荼羅まんだらほとけ菩薩ぼさつとのむすびつき。初伝しょでんではおどろきとしてはじまり、中伝ちゅうでんではひろがりとして体験たいけんされたものが、ここではふかしたしさになってまいります。あゆまれるかたは、もう曼荼羅まんだらふちうごかれません。その中心ちゅうしんあゆんでおられます。

たされ ― そしてふたたひらかれるもの

師匠ししょうみちわりではございません。そこのない部屋へやへのとびらでございます。 この段階だんかいひらかれますのは、おけになったものをわたすお力 ― そして、そのいとなみのなかで、ご自身がさらにふかくまであゆまれていくみちでございます。伝統でんとうわたされることでつづけます。そしてわたかたは、あたらたに体験たいけんなさいます。

みちそのものが中身なかみ

日本には、西洋せいよう言葉ことばうつしにくいかんがえ方がございます: どう みち武士道ぶしどう(武士ぶしみち)、茶道さどう(ちゃみち)、書道しょどう(しょみち)にあらわれます。いずれもおな原理げんりあらわします:修行しゅぎょうそのものが中身なかみでございます。結果けっかではなく。目的地もくてきちではなく。みちそのもの。

真言霊気の修行しゅぎょう段階は、この原理げんり沿っております。できるだけはや第三だいさん到達とうたつすることが目的もくてきではございません。それぞれの段階だんかいを、からだのすべてで、こころのすべてで、必要ひつよう時間じかんのすべてで、あじわうことでございます。初伝しょでんながくとどまられ、ほかかたいたられないほどのふかみを見出みいだされるかたもいらっしゃいます。それはりないことではございません。それが、ふかみでございます。

どう / みち 道 ― みち。「あるく」をあらわ部首ぶしゅと、「あたま」をあらわからっております。あたまげてあるみち。まっすぐに、意識的いしきてきに。日本の文化ぶんかでは、もっとたか原理げんりでございます ― 目的地もくてきちではなく、みちあゆみ方が大切たいせつでございます。一歩いっぽ一歩が、それだけで完全かんぜん瞬間しゅんかんのひとつひとつが、みちすべてでございます。

真言の伝統でんとうでは 修行しゅぎょう 修行もうします ― 霊的れいてき修行しゅぎょう人生じんせいみちとして。「できあがり」というものはございません。「もっとふかく」だけがございます。これこそが、真言霊気を修了しゅうりょうするような体系たいけいからかつものでございます。それはあゆまれるみちでございます。毎日まいにちすこしずつ。はやいときも、おそいときもございます。けれども、いつもまえへ。

段階だんかいみちみちしるべでございます。今どこにっておられるかをしめしてくださいます。けれども、御自身ごじしんだれであるかをさだめるものではございません。初伝しょでんあゆまれるかたは、奥伝おくでんあゆまれるかたおとるのではございません。みちちが場所ばしょにいらっしゃるだけでございます。そしてみちそのものは ― すべてのかたにとっておなみちでございます。

真言霊気の伝授の間にある<ruby>龍<rt>りゅう</rt></ruby>
伝授でんじゅみちはさらにつづいてまいります

このみちでおちしているもの ― 具体的ぐたいてき伝授でんじゅ儀礼ぎれい、真言霊気の源流げんりゅうとなるしょ伝統でんとうとの出会であい ― は、ひとつの記事きじではえがききれません。体験たいけんされるものでございます。ひとからひとへ。千年せんねんえてわたされてまいったのとおなじ形で。

もしこの文章ぶんしょうまれて、なにかをかんじられたら ― かれる感覚かんかくしずかな好奇心こうきしん、ご自身のみちがここからどこかへつづいていくのかもしれない、というかすかなづき ― それは偶然ぐうぜんではございません。いざないでございます。わたしからのではございません。みちそのものからの。

ご自身のみちつけられる方へ

初伝しょでん伝授でんじゅ体験たいけんされませんか

どのみちも、最初さいしょ一歩いっぽからはじまります。真言霊気でのご自身のあゆみが、どのようにはじまりうるのかをごらんくださいませ。

心の道 これからのイベント