目の霊気とは、目と額のあたりに霊気のお力を、そっとお運びする、心ある手当てでございます。— 日本の伝統において、目はただの感じる器ではなく、心のかがみ — 心の鏡 心の鏡 — として大切に受けとめられてまいりました。— 臼井甕男先生の『臼井霊気療法必携』のお手の置き方の中でも、頭と目への手当ては、お働きの初めの姿として記されておりました。— 真言の伝統において、その結びはさらに深くなってまいります。— 目は額のお力の中心と直に結ばれ、悉曇のお文字とつながり、— そして、薬師如来 薬師如来さま、— 闇のなかに光を運んでまいる仏さま — とつながってまいります。
長い画面の仕事のあとで、お手のひらを閉じた目の上にお添えになったことがございましたら、— あの感じをご存じかもしれません。— あたたかさ。暗さ。緊張のほどけてまいる感じ。— それは、気のせいではございません。— 東洋の医のお考えにおいて、目は肝のお息のお窓。— 肝の経絡が、目を直に養ってまいります。— 目がお疲れになるとき、それは画面のお話だけではないのかもしれません。— ひとつの気の流れが、そっと滞っていらっしゃるのかもしれません。

日本の伝統のなかの目眼 · 目
日本には、すべてを包むひとつのお言葉がございます。— 目は心の鏡 目は心の鏡。— 心(こころ)というお言葉は、心と、お気持ちと、たましいを、ひとつに抱いてございます。— ある方の目を覗かれるとき、お顔にお会いになるのではなく、— その方の本のお姿に、お会いになるのかもしれません。
この心は、日本の文化のすみずみに、そっと流れております。— 武の道では、目付 目付(めつけ) — 正しいまなざし — というお言葉がございます。— 剣士は、相手のお刀を見つめないようになさいます。— ひとつの細部に固まらずに、すべてを同時に感じてまいるよう、まなざしを整えていらっしゃいます。— 禅の瞑想では、目はかすかに開かれ、まなざしはそっと下に。— 探すでもなく、閉ざすでもなく。— まなざしそのものが、ひとつの実践となってまいります。
そして、達磨さま 達磨の御姿。— 日本のいたるところで見かけられる、まあるい、目のないお幸のお像。— ひとつの願いを立てるとき、片の目をお書きになります。— もう片の目は、お願いがおかなえになったあとに、そっとお書きになります。— ここでの目は、志、はっきりとしたまなざし、決意を表しております。— 日本において見ることは、ただ見ることを越えております。— ひとつの内なる営みでございます。
— 眼(がん・め) 眼。— 仏教のお言葉のなかで、このお文字は 天眼 天眼(てんげん、こまやかなまなざし)、慧眼 慧眼(えげん、智慧のまなざし)などに現れてまいります。— 仏教において、目はただの器ではなく、— 肉のまなざしから仏のまなざしまで、幾つもの層を包んでおります。
薬師如来さま — 光と癒しの仏さま薬師如来
真言の伝統には、まなざしと光のお力と、切り離すことのできない御方さまがいらっしゃいます。— 薬師如来 薬師如来さま、お癒しの仏さま。— 完全なご名は 薬師瑠璃光如来 — 「瑠璃の光の仏」。— 瑠璃。— 清き夜の空のように、光をたたえる石。— 薬師如来さまは、しばしば、御薬を満たした御器をお持ちのお姿で描かれてまいります。— そして、お経が記すように、その御光は、闇を貫いてまいります。— 内なる闇さえも。
真言宗・天台宗の多くのお寺では、薬師如来さまは、目のご不調のためにそっとお祈りされてまいります。— 日本には、何世紀もの間、目の寺 目の寺 として知られてまいったお寺がございます。— お遍路の方々が、まなざしのお守りのためにお運びになります。— この伝統は、外のまなざしと内のまなざしとを — 肉のまなざしと、心のまなざしとを — そっと結んでまいります。
真言霊気のお働きにおいて、薬師如来さまとのお結びは、目への手当てのなかで内に立ち上げられてまいります。— 薬師如来さまの悉曇のお文字、真言、印は、深まりの実践の一部でございます。— 真言霊気の伝授を受けられた方は、これらの道具をご存じでございます。— そして、それらをお用いになる方は、お感じになります。— ただの緩みを越えた何かが、そこにそっと起こっておりますことを。— 光と静けさが、ひとつになる場所が、ひらかれてまいります。

実践 — 目への霊気の手当て手当て
基本のお姿は、ささやかなものでございます。— そして、そこにこそ、お力が宿っております。
お手のひらを、閉じた目の上にやわらかくお添えくださいませ。— 押されないように。ただそっとお添えになるだけ。— 瞼がふれにふれを感じない、そのほどに。— お親指はこめかみに、— 他のお指は、お鼻の付け根のほうへ。— ゆるやかにお息をなさる。— そして、— 何もなさらない。お手がお働きいたします。— 霊気は、必要なところへ、自然に流れてまいります。
この手当ては、『臼井霊気療法必携』に記された本来の手当てのひとつでございます。— 臼井甕男先生は、頭のあたりへの手当てを、たいそう大切になさっていらっしゃいました。— 目への手当ては、それぞれのお働きの始めの手当てのひとつ。— お手が後頭部や胴へ移る前の、ご挨拶のような位でございました。
東洋の医のお見方で、これは納得のいくお話でございます。— 肝の経絡(肝経)は、足から脚の内側、胴を上って、目の後ろで結びを迎えてまいります。— 霊気がお手を通じて目のあたりに流れてまいるとき、その経絡の道のすべてに、そっと触れてまいることがございます。— 多くの実践者の方々は、目だけではなく、お腹のなかにも、肝のあたりにも、ときに足にまで、ほどけてまいる感じをお伝えくださいます。— お身体は、結ばれたひとつの器でございます。— 目は、離れた島ではございません。
真言の伝統において、額のあたり — アジナーのお力の中心の場所 — に、ひとつの悉曇のお文字を観じてまいります。— このお文字は、内のまなざし、お勘、肉のまなざしと智慧のまなざしの結びを、そっと育んでまいります。— 真言霊気のなかの目への手当ては、こうして、ただの身体のお働きを越えてまいります。— 心の奥深くにあるひとつの層との、そっとした出逢いとなってまいります。
目への手当てを日々お続けになる方は、お気付きになるかもしれません。— ご体験は、時を経て変わってまいります。— はじめは、あたたかさと暗さが主でございます。— やがて、お色や、お模様、ときにお姿。— そして、いつしか — ある方には早く、ある方にはゆっくりと — お言葉では尽くせぬ何かが、そっと立ち上がってまいります。— 肉のまなざしには関わらぬ、ひとつの清らかな見え方。— 対象のないまなざし。
病腺 — お手が目に感じてまいるもの病腺
日本の霊気の伝統には、病腺 病腺(びょうせん)というお考えがございます。— お手を通じての、お力のお感じでございます。— ある方の目の上にお手をお添えになるとき、しるしを受け取られることがございます。— あたたかさ、涼しさ、脈、ぴりぴり、ときにかすかな引き。— これは偶然ではございません。— 日々のお続けによって、こまやかに研がれてまいる感受でございます。
目のあたりでは、この感受がしばしば、ことに明らかでございます。— 目のあたりは繊細で、お肌も薄く、お通りがよろしうございます。— 多くの方が、他のお身体の場所よりも、目のところでの病腺の感じを、より速く、より清らかにお受け取りになると仰います。— 響き 響き(ひびき) — お力の共鳴 — は、しばしば、心の鼓動と共に脈打つ、こまやかなお感じとして、— そして、ゆっくりと静まりてまいるお感じとして、お話しされてまいります。
真言霊気では、この感受を、不思議な賜物とは見ておりません。— どなたのうちにもそっと宿っている、自然のお力でございます。— 新しく身に付けるものではなく、— もう一度、そっと掘り起こされてまいるものでございます。

目の霊気は、複雑な技法ではございません。— 特別な備えも、前のご知識も、お道具もいりません。— ご自身のお手と、まなざしと、静かになるお心持ち、ただそれだけ。— 静けさのなかで、起こるべきことが、起こってまいります。— これが、心でございます。— 霊気と同じほどに、古いものでございます。— そして、痛むところに本能のままに伸びてまいる、ふれるお手と同じほどに、古いものでございます。
お力の中心と霊気とのご関わりを、より深く味わいたい方は、チャクラと霊気の記事のなかで、五輪と悉曇との結びをお探しいただけます。