
本ページにお運びくださった方の中には、すでに「真言宗」のお名前をご存じの方もいらっしゃるかもしれません。— あるいは、子どもの頃に祖父母さまにお連れいただいたお寺の香のかおり、あるいは四国の遍路道に立つ御大師さまの御姿として、心のどこかにそっと触れていらっしゃるのかもしれません。
真言 真言(しんごん)は、もともと「真の言葉」、すなわちサンスクリットの「マントラ」を訳されたお言葉でございます。— ただ口から発せられる音ではなく、その内に深い力を宿す、聖なる響き。千年余りにわたる瞑想の祈りのなかで、静かに磨かれてまいりました。
また真言は、日本における密教の一派 — 真言宗 真言宗 — の名でもございます。弘法大師・空海さまより始まり、千二百年余りにわたり、師より弟子へと、絶えることなく伝授から伝授へと受け継がれてまいりました道でございます。
そしてこの道のうちに、霊気の最も深い源流の一つが、今も静かに息づいております。
空海さま — 唐より道を持ち帰られた方空海
日本における真言宗の道は、お一人の御方から始まりました。— 空海 空海、774年にお生まれになり、後に弘法大師と謚された方でいらっしゃいます。三十一歳のとき、遣唐使の船に乗られ、密教の奥義を、その源において直に受けようと、海を渡られました。
長安の都にて、空海さまは恵果阿闍梨 — 密教の第七祖 — に出逢われます。恵果さまは、ひと目で空海さまこそが正しい後継であるとお見抜きになり、わずか数か月のうちに、すべてをお授けになられました。— 灌頂の儀礼、真言、悉曇の文字、両界曼荼羅、すべての修法を。
806年、空海さまは日本に帰国されます。お持ち帰りになったのは、書物だけではございませんでした。— ひとつの完全な、霊性の体系。心を変える真言。身を瞑想の器と化す印(ムドラー)。見えぬ世界をそっと見えるかたちにあらわす曼荼羅。— そして、行ずる方と宇宙の大いなる力との間に、清らかな道をひらく灌頂。
真言密教には、行ずる方が宇宙の力に直に結ばれてまいる三つの道がございます。— 身(印・ムドラー)、口(真言・マントラ)、意(観想)。この三つを同時に一つの行として重ねてまいるとき、真言の伝統において三密 三密(さんみつ)と申される働きがあらわれます。— 霊気の実践のうちにも、この同じ姿が、静かに息づいているのかもしれません。
「密」とは、本来どのような意味でしょうか密教
西洋の言葉では「エソテリック(秘教的)」と申されると、何かを故意に隠す、というような響きを帯びることがございます。— けれども、日本における密教 密教(みっきょう)には、また別の心が宿っております。何かを他から遠ざけることではなく、ある体験は、師より弟子への直の伝えのうちにのみ、ひそやかに開かれてまいる、ということなのでございます。書物だけでは届かぬ。受け取る、というかたちでしか、それは身に宿らぬのかもしれません。
ですから真言密教において、灌頂(伝授)はかくも大切に守られてまいりました。灌頂とは、象徴的な儀式ではございません。— ひとつの、霊性の伝授でございます。師より、ひとつのお力が、お弟子の身に静かに灯され、その瞬間より、お弟子はその灯を内に宿し、日々の行のなかで深めてまいるのでございます。
ふと、どこかで聞き覚えのある響きでしょうか。— そうかもしれません。霊気の伝授もまた、まさに同じ姿で受け継がれてまいります。これは、決して偶然ではございません。
加持 — お力との融合加持
真言密教における最も大切な修法のひとつが、加持 加持(かじ)でございます。この修法のなかで、行ずる方は、真言、印、観想を通じて、特定の霊性の力 — 仏さま、菩薩さま、あるいは明王や諸尊さま — と結ばれてまいります。崇拝のためではなく、融合のために。
加持の修法には、悉曇 悉曇 — 古いサンスクリットの聖なる文字 — がしばしば用いられます。日本において悉曇は、宇宙のお力を運ぶ器として大切に守られてまいりました。— ひと文字ひと文字が、響きであり、姿であり、力。瞑想のうちに、その文字を書き、唱え、心の中で観じてまいるとき、三密 — 身、口、意 — が同時にひらかれます。
834年、空海さまは宮中に真言院をお開きになり、加持の修法を修されました。— このことは、朝廷がこの道にいかに深い信頼を寄せていらしたか、そっと物語っております。辺境の小さな営みではなく、国の心を支える霊的な柱でございました。
大日如来 — 宇宙の仏さま大日如来
真言の中心には、大日如来 大日如来がいらっしゃいます。— ご名のとおり、「大いなる、太陽のごとく遍く照らす、そのように来られた方」。歴史のお一人としての仏さまではなく、宇宙の根源のお力そのもの。— あらゆるものの根に、しずかに灯る光でいらっしゃいます。
真言のお見方では、大日如来さまは、どこか遠くの彼方にいらっしゃるのではございません。あらゆるもののうちに、ひそやかに息づいていらっしゃいます。— ひとりひとりのいのちのうちに、ひと粒の石のうちに、ひと息のうちに。実践とは、このつながりを、知識ではなく、身と響きと静けさのうちに、そっと味わってまいることなのかもしれません。
真言密教の両界の曼荼羅 — 金剛界曼荼羅 金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅 胎蔵界曼荼羅 — は、大日如来さまを中心に置いて、宇宙のお姿を静かに描き出してまいります。— ただの絵ではございません。心の地図でございます。
古のシャーマンの根より、仏教の実践へ修験道
真言は、孤立した営みではございません。霊気や九字切りの源ともなった伝統は、仏教だけにとどまるものではなく、もっと深く、広い根を持っております。— シャーマニズム的な道教、修験道 修験道、神道、そして真言密教。日本の地に、長い時をかけて、ゆるやかに織り合わさってまいりました四つの糸でございます。
仏教が六世紀に日本にもたらされる以前にも、すでに深いシャーマニズムの伝統が、この国の大地に息づいておりました。霊のお働き、自然の力、見える世界と見えぬ世界をそっとつなぐ道 — そうした実践でございました。仏教が伝えられたとき、これらの古い層は消えてはまいりませんでした。— むしろ、ともに融け合い、新たな姿となってまいりました。
修験道 — 「修めて験を得る道」 — は、その姿を最もよく映すものでございます。山に分け入った山伏の方々は、仏教の真言と古いシャーマニズムの儀礼とをひとつに編み、純粋な仏教でも、純粋なシャーマニズムでもない、独自の道を歩まれました。— 空海さまご自身も、若き日に山中での修行に親しまれてから、唐への旅に立たれた、と伝わっております。
日本の歴史のなかの霊性の実践歴史
仏教の実践は、日本にもたらされた当初より、社会のうちに深い役割をいただいてまいりました。欽明天皇の御代、六世紀に仏教を正式にお迎えになったとき、ともにお渡りになったのは、お経のみではございませんでした。— 占いの法、暦、本草(薬草)の知恵もまた、ご一緒に。— 仏教のお坊さまたちは、エネルギーの働きと、真言の修法を、この国のすみずみへと、静かに広めてまいられた方々でございます。
八世紀、養老律令は、霊性と医のさまざまな実践を、ひとつの体系として整えてまいります。— 鍼、灸、按摩、薬草、そして真言と瞑想を伴う修法。仏教のお坊さまは、シャーマニズム的な呪術からは距離を置かれましたが、真言を用いて霊的に支えてまいることは、なお続けられました。— ちょうどその境のところで、真言は、お力をひらいてまいったのでございます。
霊気とのつながり靈氣
臼井甕男先生は、仏教の道に親しまれた方でいらっしゃいました。— 先生がお用いになった霊気の象徴(シンボル)は、悉曇の伝統に源を持ち、伝授のかたちは灌頂の姿に重なってまいります。瞑想は三密 — 身、口、意 — を、ひとつの行として編んでまいります。五戒(御訓)は、お経のお言葉づかいで記されております。— すべてのしるしが、真言の道の方を指し示しております。
西洋の霊気では、このつながりが幾世代のうちに、そっと忘れられてまいりました。— あるいは、意図的に簡略化されました。象徴は抽象的な線へと、伝授は素朴な儀式へと、瞑想はおまけのような扱いへと。— そのなかで、一つのものが、静かに失われてまいりました。— 深さでございます。
真言霊気は、このつながりを、もう一度ひとつの場に呼び戻してまいります。— 博物館の陳列のように再現するのではなく、生きて息づく実践として。象徴は、その本来の意味のうちに静かに蘇り、伝授は直の譲りの伝統に沿って受け継がれてまいります。瞑想は、付け足しではなく、すべての土台でございます。
根を離れた霊気は、根を失った木のようなのかもしれません。— 立っているけれども、もう育つことが難しい。— 真言の伝統に触れる方は、象徴をより深く受け取られ、伝授をより清らかに感じられ、瞑想を、まさに本来の姿として体感してまいられます。— 宇宙のお力との、ひとつの静かな出逢いとして。
真言は、いま現在
真言宗は、今も日本の地に生きてございます。空海さまが816年にお開きになった高野山には、百を超えるお寺が並び、御僧の方々が、空海さまが千二百年余り前に唐より持ち帰られた、その同じ修法を、今もなお修されております。— 世にあまた残る霊性の伝統のうちでも、最も古く、絶えることなく続いているお道のひとつでございます。
高野山にお参りなされた方は、すぐにお感じになられるかもしれません。— 杉木立の間を渡ってまいる空気。夜明けの梵鐘のお響き。禅堂のしんとした静けさ。そして、それらすべての向こうに、言葉では尽くせぬ何かのご気配が、ただそっと、こちらに伝わってまいります。
この体験 — 直に、身に、知の彼方から触れてまいるもの — こそ、真言の伝統の核でございます。— 真言霊気がそっと運んでまいるのも、まさにそれでございます。説明されずとも、自ら現れてまいる実践。— その瞬間に、ご自身が、お受け取りになられるとき。