五いつつの漢字かんじ。西洋せいようでは「遠隔えんかくヒーリングのシンボル」というお名前なまえで呼よばれてまいりました。大おおきな図書館としょかんのお話はなしを、小ちいさなメモ用紙ようしにお包つつみするようなお姿すがたでございます。けれど、その五いつつの文字もじがお伝つたえくださっているのは、仏教ぶっきょうの哲学てつがくの奥おくまで静しずかに届とどく完全かんぜんな一ひとつの文章ぶんしょうでございます。この象徴しょうちょうについてご存ぞんじであったすべてを、静しずかに変かえてしまうかもしれない、お言葉ことばでございます。

本者是正念 ― 「真しんの人ひととは正ただしき念ねんである」。遠隔えんかくのお働はたらきの取扱説明書とりあつかいせつめいしょではございません。これは公案こうあんでございます。頭あたまでほどくのではなく、お体からだぜんたいで味あじわわせていただくお言葉ことばでございます。そして、その静しずかなお姿すがたのなかに、この象徴しょうちょうのお力が息いきづいているのでございます。

本者是正念 ・ 隔たりを越えて働く霊気の象徴
本者是正念 ・ 隔たりを越える象徴

五いつつの漢字かんじ ― 一文字ひともじずつ 本者是正念

本
本(ほん) ― 根ね、本もと、まことなるもの。木きの根ねのところに一ひとつの線せんが引ひかれた形かたちで、表面ひょうめんの下したにあるものへと静しずかにお誘さそいします。本はお尋たずねします ― 「本当ほんとうに大切たいせつなものは何でしょうか。外側そとがわのすべてが取とり除のぞかれたあとに残のこるのは何でございましょうか。」
者
者(しゃ) ― 人ひと、ある御方おかた、その御存在ごそんざい。抽象的ちゅうしょうてきではなく、具体的ぐたいてきな御方おかたを表あらわす文字もじでございます。本と合あわせて 本者 ― 「真しんの人ひと」「本来ほんらいのご本性ほんしょうに根ねざしておられる御方おかた」となります。
是
是(ぜ) ― 〜である、まさに此これ。確認かくにんとご同一どういつのお言葉ことばでございます。是は等ひとしいものを静しずかに結むすびます ― 「Aは Bでございます」と。仏教ぶっきょうの哲学てつがくのなかで、この小ちいさな文字もじは稲妻いなずまのお働はたらきをいたします ― 主体しゅたいと客体きゃくたいの分わかれているという幻まぼろしを、静しずかに取とり除のぞいてくださるのでございます。
正
正(しょう) ― 正ただしい、まっすぐ。仏教の八正道はっしょうどうでも用もちいられる 正 でございます ― 正見しょうけん、正思惟しょうしゆい、正語しょうご。正は完全かんぜんであることを表あらわすのではなく、方向ほうこうを表あらわします ― 真しんのものへと静しずかに向むかう、その方向ほうこうでございます。
念
念(ねん) ― ご気きづき、思おもい、心こころに留とめること。上うえの部分ぶぶんは「今いま」今、下したの部分ぶぶんは「心こころ」心でございます。念は、今いまこのときに完全かんぜんに憩いこうお心でございます。気きがそらされておらず、過去かこにも、未来みらいにもない。ここに。

完全かんぜんな文章ぶんしょうとして ― 本者是正念「真しんの人ひととは正ただしき念ねんである」。あるいは「本来ほんらいのご本性ほんしょうとは、まさにこれでございます ― お心が完全かんぜんに今いまこのときに憩いこうご様子ようすです」。これは技法ぎほうではなく、目覚めざめたお心のご本性ほんしょうを静しずかに表あらわしているのでございます。

核かくとなる思おもい

本者是正念は、距離きょりを越こえてエネルギーをお送おくりする方法ほうほうを表あらわすものではございません。距離きょりそのものが消きえていく意識いしきのご様子ようすを表あらわしております。意識いしきが完全かんぜんに今いまこのときに憩いこうとき ― 念ねんがまっすぐにあるとき ― 分わかれているということがなくなってまいります。こことあそこのあいだに。今いまとあのときのあいだに。ご自身とわたくしのあいだに。

禅ぜんの仏教ぶっきょう ― 分わかれていないという公案こうあん 禅

禅ぜんに、本者是正念ほんじゃぜしょうねんを静しずかにお伝つたえくださるお話はなしがございます。あるお師匠ししょうが修行者しゅぎょうしゃにお尋たずねになります。「今いま、どこに居いられますか。」修行者は「ここでございます」とお答こたえします。お師匠は続つづけて「ではブッダはどこにいらっしゃいましたか。」修行者は静しずかに沈黙ちんもくなさいます。お師匠は「まさに、それでございます」と静しずかにおっしゃいます。

お話の奥おくのところは ― 意識いしきが完全かんぜんに今いまこのときに憩いこうとき、「ここ」と「あそこ」のあいだに違ちがいはないということでございます。空間くうかんがちぢんでいくのではなく、分わかれているという幻まぼろしが静しずかにほどけていくのでございます。禅ぜんの伝統でんとうのなかで、このお気きづきは頭あたまのなかの概念がいねんではございません。お体からだぜんたいで味あじわわせていただく直じかのご体験たいけんでございます。

本者是正念は、まさにこのお気きづきを担になっております。テレキネシスのような「遠隔えんかくのシンボル」ではございません。修行者しゅぎょうしゃに静しずかに映うつす鏡かがみでございます ― ご自身とほかの御方おかたとのあいだの分わかれているように感かんじられるご様子ようすは、ご自身じしんのお心が静しずかに組くみ立たてておられるものなのです、と。その組くみ立たてが静しずかに見みとおされるとき ― 頭あたまでなく、体験たいけんとして ― 霊気のお力は遮さえぎるものなく流ながれていくことがございます。越こえるべき距離きょりがもう残のこっていないからでございます。

「霊気の遠隔えんかくのお働はたらきとは、距離きょりを越こえてお送おくりすることではございません。距離きょりとは気きがそらされたお心の幻まぼろしでしかないことを、静しずかにお気きづきになることでございます。本者是正念は、その幻まぼろしがほどけていくご様子ようすに名なを与あたえてくださるのでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

真言と加持かじのお働はたらき 加持

真言の密教みっきょうのなかに、本者是正念のお働はたらきを別べつのお角度かくどから照てらしてくださるお働はたらきがございます ― 加持(かじ)加持でございます。加持かじは二ふたつのお力の静しずかなお働はたらき合あいを表あらわしております ― 大日如来だいにちにょらいから降くだってこられる宇宙うちゅうのお力と、修行者しゅぎょうしゃの側がわから立たちあがる受うけとめさせていただく器うつわでございます。

加持かじは一方通行いっぽうつうこうではございません。共鳴きょうめいのお働はたらきでございます。一つの音叉おんさがもう一つを静しずかに振ふるわせるように ― お力ではなく、同おなじ調しらべが呼よびさましてくださるのでございます。真言のなかでは、その共鳴きょうめいは空間くうかんにも時間じかんにも縛しばられないと大切たいせつに伝つたえられてまいりました。大日如来はあらゆる処ところに、あらゆる時ときに居いられます。大日如来と修行者しゅぎょうしゃのあいだの「距離きょり」は零ゼロでございます ― お身体的しんたいてきに近ちかくあられるからではなく、大日如来こそが真理しんりそのもののご本性ほんしょうでいらっしゃるからでございます。

本者是正念をこの文脈ぶんみゃくのなかで受うけとめさせていただきますと、「遠隔えんかくのお結むすび」のお意味いみが静しずかに変かわってまいります。何なにかをお送おくりすることではなく、すでにあらゆるところに息いきづくお調しらべに、静しずかに波長はちょうを合あわせさせていただくこと。「真しんの人ひと」(本者)はすでに「正ただしき念ねん」(正念)に「居おられます」(是) ― お結むすびはほどけたことがなかったのでございます。ただ意識いしきに上のぼっていなかっただけでございます。

HRIH ・ 阿弥陀如来の悉曇の種字
HRIH ・ 阿弥陀如来の種字しゅじ

悉曇の実践じっせんと本尊ほんぞん瞑想めいそう 梵字

真言の伝統でんとうのなかに、本者是正念のお働はたらきと直じかに結むすびついた実践じっせんがございます ― 本尊ほんぞん瞑想めいそう本尊でございます。本尊は「本もととなる尊とうとき御方おかた」 ― 修行者しゅぎょうしゃがご関かかわりさせていただく仏尊ぶっそんでございます。

本尊瞑想において、修行者は悉曇文字もじを静しずかに観かんじます ― ブッダや菩薩ぼさつのおお姿すがたとして大切たいせつにされてきたインドのお文字もじでございます。静しずかに観かんじることを通とおして、お結むすびが静しずかに立たちあがります ― 頭あたまのなかではなく、直じかのご体験たいけんとして。修行者と悉曇しったんが静しずかに一ひとつになっていきます。観みる者ものと観みられる者もののあいだの境目さかいめが、ほどけていくのでございます。

これは神秘的しんぴてきな不思議ふしぎのお話はなしではございません。千年を越こえて真言のなかで大切たいせつに受うけ継つがれてきた瞑想めいそうのお道みちでございます。そして、本者是正念がお伝えくださっているまさにそのご瞬間しゅんかん ― 「お送おくりになる御方おかた」と「受うけとめになる御方おかた」のあいだの分わかれが静しずかに消きえていくご瞬間しゅんかんを表あらわしております ― 意識いしきが、分わかれている世界せかいを越こえていくご姿すがたを。

視点してんの転換てんかん

西洋では「距離きょりを越こえてどのように霊気をお送おくりするか」とお尋たずねします。日本の伝統でんとうでは「距離きょりのないご状態じょうたいに、どのように静しずかに入はいらせていただくか」とお尋たずねします。本者是正念は、そのお答こたえでございます ― 正ただしき念ねんのなかへ。完全かんぜんな今いまこのときへ。真しんの人ひとはもう分わかれていない、というご気きづきへ。

時間じかん、空間くうかん、ご気きづき 今心

本者是正念のなかで西洋でよく取とり上あげられますご側面そくめんに、時間じかんを越こえた「遠隔えんかく」のお働はたらきがございます。過去かこに霊気を「送おくる」、未来みらいに「送おくる」というお話でございます。詩的してきなお話ですけれど、修行者しゅぎょうしゃが瓶びんのなかにお手紙てがみを入いれて時間じかんのなかへお送おくりするように受うけとられがちでございます。

念(ねん)というお文字もじは、別べつのお話はなしを静しずかに伝つたえてくれます。念は今今(いま)と心心(こころ)から成なっております。完全かんぜんに今いまこのときに居おられるお心を表あらわしております。そのご状態じょうたいのなかでは ― 仏教ぶっきょうの哲学てつがくのお話のとおり ― 線的せんてきな順序じゅんじょとしての時間じかんはもう働はたらいておりません。

過去かこは「あちら側がわ」にあるのではございません。ご自身じしんのお体からだのなかに、ご自身じしんのおふるまいの型かたのなかに、ご自身じしんのお反応はんのうのなかに静しずかに息いきづいております。未来みらいは「遠とおい先さき」にあるのではございません。今いまこのときのご自身じしんのなかから静しずかに立たちあがってまいります。念がまっすぐにあるとき ― お心が完全かんぜんに今いまこのときに憩いこうとき ― その両方りょうほうに同時どうじに触ふれることがあるかもしれません。時間じかんを旅たびするのではなく、過去かこと現在げんざいと未来みらいのあいだの分わかれが、気きがそらされたお心の組くみ立たてだったというお気きづきの瞬間しゅんかんでございます。

「過去かこに霊気をお送おくりするのではございません。過去かこがもう過すぎ去さったものではなくなる、その静しずかなご状態じょうたいに入はいらせていただくのでございます ― 過去かこはご自身のなかに息いきづいているのでございます。ここで、今いま。そしてその静しずけさのなかで、過去かこもまた静しずかに変かわっていくのかもしれません。」 マーク・ホサック博士はかせ

技法ぎほうを越こえて ― 道みちとしての本者是正念 道

西洋の霊気のなかで、本者是正念は「技法ぎほう」として伝つたえられます ― 象徴しょうちょうを描かき、お名前を唱となえ、お結むすびを立たちあげる。この実践じっせんにもお働はたらきがございます。けれどそれは始はじまりであって、終おわりではございません。

真言霊気のなかで本者是正念は、お道みちとして大切たいせつにされております ― 修行者しゅぎょうしゃを、分わかれていないというご体験たいけんへと静しずかに導みちびいてくれるお道でございます。初はじめには、霊気が距離きょりを越こえて「働はたらく」という静しずかなご体験たいけん ― それだけでも十分じゅうぶんに不思議ふしぎでございます。続つづいてお尋たずねがやってまいります ― 「どのように働はたらくのでしょうか」と。そのお答こたえは、新あたらしい技法ぎほうではなく、静しずかなお気きづきへと導みちびいてくれます。

ご自身とほかの御方とのあいだの分わかれは、ご自身のお心が静しずかに立たちあげている幻まぼろしであるというお気づき。「正ただしき念ねん」とは瞑想めいそうの実践じっせんであるだけでなく、真理しんりのご本性ほんしょうが静しずかに姿すがたを現あらわすご状態じょうたいであるというお気づき。「真しんの人ひと」 ― 本者 ― は到達とうたつすべき御方おかたではなく、見みいだされる御方おかたであるというお気づきでございます。すでに居られるからでございます。常つねに居られたからでございます。

このご体験たいけんはブログの記事きじのなかにはおさめられません。直じかのお出会であいのなかにこそ ― 伝授でんじゅのなかに、実践じっせんのなかに、このお道みちをともに歩あるむ御方おかたがたとの生いきたお結むすびのなかに ― 居場所いばしょがございます。ここで申もうし上あげられるのは、静しずかなお誘さそいだけでございます ― この五つの文字もじがお胸むねに触ふれる方かた、「遠隔えんかくのシンボル」のうしろに、つながりのご理解りかいを静しずかに整ととのえなおしてくださる真理しんりが息いきづいているとお感かんじになる方かた ― そのとき、念はすでに静しずかに始はじまっておられます。お心はすでにここに居られます。真しんの人ひとはすでに、ご自身のほうを静しずかに御おん覧らんになっておられるのでございます。

個別こべつのご体験たいけんでございます。 結果けっかには個人差こじんさがございます。霊気と霊性れいせいの実践じっせんは、医療いりょうや心理療法しんりりょうほうの代かわりとなるものではございません。
お結むすびへのお誘さそい

真言霊気への心こころの道みち

本者是正念は、直じかな伝授でんじゅのなかで、その深ふかみを静しずかにあらわしてまいります。どのお道みちがご自身じしんにとっての静しずかなはじめの場ばになるのか、ご一緒に見みつけてまいりましょう。

真言霊気への心こころの道みち 霊気の象徴しょうちょうすべて