霊気と官能。— このお言葉が、矛盾のように響く方もいらっしゃるかもしれません。西洋では、霊性の営みは禁欲や節制と結ばれ、身体性を越えてゆくことのように語られることが多いのでございます。— けれども、霊気の生まれ育った日本の伝統において、官能はまた別の心を宿しております。— ここでの官能とは、楽しみのための楽しみではございません。五感を、現実への入口として用いること。表面の奥にあるものを、身体まるごとで感じ取ってまいる力。— 五感を閉ざす方は、世界を閉ざしてしまいます。そして、世界を閉ざせば、お力もまた、その方には閉ざされてゆくのかもしれません。
多くの霊気の流れにおいて、お力はほとんど滅菌されたかのように淡々と渡されてまいります。— まるで、まなざしのあるお傍にあることよりも、距たりこそが専門的であるかのように。お手は添えられるのですが、五感は加わっていない。順序があり、手の置き方があり、技法がある。— けれども、生きた出逢いがそこには欠けております。真言霊気は、別の道を歩んでまいります。— こまやかな感受は、五感が目覚めているところにのみ、静かに育ってまいるのでございます。お二人のあいだの結びの質が、働きの深さを決めてまいる。— これは理屈ではございません。長い実践の中で、静かに確かめられてまいったことでございます。

真言密教における五感感覚
ある禁欲的な道筋では、五感は妨げと見做されることがございます。— 悟りに至るために、越えてゆくべきものとして。— 真言の伝統は、これとはまるで逆でございます。ここでは、五感は道の邪魔をするものではございません。— 五感そのものが、道なのでございます。お身体は心の牢ではなく、その最も大切なお器でございます。
密教のすべての実践は、五感の上に静かに築かれております。三密 — 三密 三密 — は、お身体と感受を通じて直に働いてまいります。— 印(ムドラー)は、お指が聖なる姿を結ぶとき、触覚と体の感受をひらきます。真言(マントラ)は、響きが身を震わせるとき、聴覚をひらきます。— そして観想は、外の目ではなく内のまなざしによって、清らかな光の像を立ち上げてまいります。
けれども、それだけにとどまりません。真言宗のお寺に足をお運びになった方なら、お分かりになるかもしれません。— そこでは、何ひとつ偶然には委ねられてはおりません。お香のかおり — 白檀、沈香、お線香 — は、お部屋を飾るためにあるのではございません。それは儀礼のお営みそのもの。それぞれのお焼香には意味があり、役があり、心への働きがございます。嗅覚 香 もまた、ひとつの門となってまいります。— 味さえも、お役を担っております。お口を清める御水、瞑想のあとのお茶。— どれもおまけではなく、お心を「いま」へ運ぶ、ひとつひとつの営みでございます。
お力としての触れ合い触
西洋の霊気では、お手の置き方は定型化されております。— 手を置き、定められた時を保ち、次の場所へ移る。お手は、お力を送る道具として捉えられております。— けれども、その捉え方では、核心に届きません。真言霊気では、お手の場所が決め手ではございません。— 触れ合いの質こそが、すべてを運んでまいります。
具体的には、どういうことでしょうか。— どのような心持ちでお手を添えられるか、それがすべてを変えてまいります。順序のままに機械的に置かれるのか。— あるいは、ここに必要とされていると感じられて、静かに置かれるのか。次の場所のことを考えていらっしゃるのか。— それとも、ただ「いま」ここで、ご自身が整っていらっしゃるのか。— お手は違いを感じます。お受けの方も、違いを感じてまいります。お力もまた、その違いを感じております。
真言密教において、触れ合いは、見えるものと見えぬものとの間の、ひとつの会話でございます。— 印 — 儀礼の手指のかたち — は、その最も清らかな現れでございます。お指が印を結ぶとき、それは象徴の身振りではなく、お指がお指に触れ、その触れ合いのうちに、ひとつの巡りが生まれてまいります。お力は、お指の先を、お掌を、お身体まるごとを通って流れてゆきます。— この同じ質の触れ合いが、霊気の実践のうちにも、静かに息づいております。
霊気のお働きは、技法ではございません。— ひとつの出逢いでございます。お二人の方が、お手の触れ合いを通じてつながり、お力の流れる場をひらいてまいります。— 行ずる方の五感が目覚めているほど、結びは深くなってまいります。— その結びが深いほど、ご体験もまた深くなってまいります。— お二人とも、ご一緒に。

響きと言霊音
真言の実践のもう一つの大きな感は、聴くということでございます。マントラは、ただの言葉ではございません。— お身体を貫く響きでございます。お寺で、御僧の方々が般若心経 般若心経 をお唱えになるその場にいらしたことのある方なら、お分かりになるかもしれません。— その響きは、お耳を通って頭へまいるのではございません。お耳を通って、お胸へ、お腹へ、お骨へとまいります。— お身体そのものが、響きの器と化してまいります。
日本には、どのような翻訳よりも深い、ひとつのお言葉がございます。— 言霊 言霊。お言葉に宿る、お力。日本の伝統において、お言葉はただの情報のお運びではございません。— ひとことひとこと、ひと音ひと音が、それぞれにお力と振れを宿し、現実にそっと働きかけます。霊気の象徴(シンボル) — 第二の段階でお伝えされるもの — は、見える姿だけではなく、響きをも宿しております。そして、その響きは、お名前ではございません。— その本来の姿そのものでございます。
声明 声明(しょうみょう) — 密教における儀礼の朗誦 — の伝統は、これを明らかに伝えてまいります。声明は、西洋の意味での音楽のように聴かれるものではございません。— 演奏されるのでも、消費されるのでもなく、体でいただくものでございます。御僧の方々がマントラやお経をお唱えになるその仕方は、お身体まるごとを巻き込んでまいります。— 喉の振れ、胸の共鳴、その後の静けさのなかの余韻。— 響きは、聴こえるものと聴こえぬものとを橋のように渡してまいります。
なぜ西洋の霊気は、五感を失ってまいったのか香
霊気が一九三〇年代から四〇年代にかけて日本から西洋へと渡ったとき、霊性の伝統に珍しからぬことが起こりました。— 実践が簡略化されたのでございます。感じることのお力 — お香、響き、触れ合いの質 — は、機械的な順序へと還元されてまいりました。お手の場所が決められ、時間が定められました。— その意図は分かるのでございます。長い備えがなくとも、どなたにも開かれてあるように、と。— けれども、その代わりに失われたものは、大きなものでございました。
失われたのは、ひとつの方法だけではございませんでした。— ひとつの感じる次元そのものでございました。臼井甕男先生の日本では、霊気は、五感が智慧のお道具であった文化のなかにそっと抱かれておりました。— 茶道は、味わいと気付きを育ててまいります。書道は、まなざしと姿勢を育ててまいります。生花は、本質を見抜くまなざしを育ててまいります。— 臼井先生がお修めになった霊気は、この感じる宇宙の一部でございました。— 身体と五感から離して用いられるような技法では、決してございませんでした。
西洋の簡略化は、生きた実践を規定書へと変えてしまいました。— まなざしの代わりに標準化。出逢いの代わりに順序。お手は添えられたのですが、五感は関わっておりませんでした。— 真言霊気は、その道のうちで失われたものを、もう一度この実践にお返しいたします。— 過去を美しく飾って戻すためではございません。— もとからずっとそこにあったもの、すなわち、お力ある体験のすべての土台となる五感を、もう一度見つけてまいるためでございます。

霊性の育ちは、五感に逆らってではなく、— 五感を通じて、起こってまいります。真言の伝統は、お身体とその感受を、現実への最も直なる道として受け取ってまいります。— お香のかおり、ひとつの響き、ひとつの触れ合いが、まなざしさえあれば、ひとつの門と化してまいります。— 霊気は五感の外側で働く技法ではございません。霊気は、五感を通じてはじめて、その本来の深みを展いてまいる、ひとつの実践でございます。
官能 — 概念ではなく、実践として
この心は、日々の霊気の実践に、何を運んでまいるのでしょうか。— ご自身の五感から、始めてまいりますように、ということでございます。お手を置く前に、お部屋の気配を感じていらっしゃるでしょうか。空気のなかにあるかおりを嗅いでいらっしゃるでしょうか。— 静けさを聴いていらっしゃるでしょうか。あるいは、その中で動くものを。霊気のお働きの質は、最初の手当てから始まるのではございません。— お部屋に足を踏み入れ、五感をひらかれた、その瞬間から始まっております。
真言の伝統には、ささやかすぎてつい見過ごされてしまう、ひとつの実践がございます。— 静かなお焼香。本来の実践が始まる前に、お香が焚かれます。— ふんいきづくりのためではございません。— ひとつの境として。お香のかおりが、日常から聖なる場への渡りに印を付けます。お鼻が感じます。お息が深くなってまいります。お心が、ここに到着いたします。— そして、— その後にはじめて、実践が始まってまいります。
この心は、真言霊気のすべてに貫かれております。お部屋を整えるその仕方が、すでに実践でございます。— お手を上げ、置かれる前のその仕方 — ゆるやかに、まなざしを宿して — もまた、すでに実践でございます。— お受けの方のお息に耳をひらかれること、お掌のあたたかさを感じられること、お力が濃くなる場所と、流れる場所を見分けてまいられること。— そのすべてが、実践でございます。— そして、そのすべてが、五感を通じて起こっております。
これが分かってまいる方は、もう機械的なお働きには戻れません。— 機械的なものが誤っているからではございません。— その向こうに、目覚めた五感にのみ姿を見せる、ひとつの世界が広がっているからでございます。— ひとつひとつの触れ合いが出逢いとなる世界。— ひとつひとつの響きが、お知らせをそっと運ぶ世界。— お香のかおりが、ただの煙ではなく、ひとつの門となる世界。
誰もあまり語らぬ門愛
ここから、霊気の世界ではあまり語られることのないお話に、そっと触れさせていただきます。— だからこそ、ここに、静かに記しておきたいのでございます。
お二人の方が霊気のお働きのなかでまことに「いま」ここにいらっしゃるとき — 五感がひらかれ、触れ合いが機械的ではなく、まことの出逢いとして起こるとき — 多くの霊気の書物が記す範囲を、はるかに越えた何かが、お姿を見せてまいることがございます。— 結びは、お力としてだけではなく、官能として感じられてまいります。— そして、そう、— 身体的な引き合いが含まれることもございます。お二人の気のお場がそっと互いに浸み、共鳴に入ってまいるとき、第二・第四・第六の気の中心がひらかれ、緩みがこまやかな感受を強めてまいるとき、— お身体まるごとを巻き込む引き合いが、自然に立ち上がってまいります。— このとき、身体的な引き合いは誤解でも弱さでもございません。— 深いお力の開きの、自然な結び目でございます。— まことの近さのなかで放たれる、結びの働きをもつホルモン(オキシトシン)もまた、その一因でございます。
二十五年余りの実践のなかで、はっきりと見えてまいりましたのは、— お受けの方を感じることは、ただのおまけではないということでございます。— それこそが、核心でございます。機能的なお働きと、まことの変わりの出逢いとを、分けてまいる境でございます。— そして、この感じる力は、身体的な五つのお感の中だけにとどまりません。— もうひとつの次元 — お力の場を、まるでお手で触れるように直に感じる感のお力 — がございます。お二人の間の空のなかにのみ触れているはずなのに、確かに何かが感じられてまいる、— そのような感受でございます。
この場で起こってまいることは、多くの方にとって意外かもしれません。— お二人の方の双方に — お与えになる方にも、お受けになる方にも — 恋のような心の動きが、そっと立ち上がってまいることがございます。— 取り違いでも、投影でもございません。— お心の蓋がひらかれ、お力の場がそっと融け合い、お二人がこの深みでお会いになるときに生まれてまいる、まことの体験でございます。— 多くの方が、心の奥でかすかに願っていらっしゃるご体験でございます。— 安らかな枠のなかで、それが許されるとき、— ひとつの、ほんとうに美しいお出来事でございます。
そして、まさにこのところに、ひとつの門がひらかれます。
この開きが起こるとき — お二人の方が、制したり抑えつけたりせずに、その状態に身を委ねられるとき — とても深い変わりが起こることがございます。— 身体的に融け合うことが目的なのではございません。— けれども、そのお気配、そのお力、その磁のような引き合いは、聖なる場のように用いられてまいります。— ふだん想像するよりも、はるかに多くのことが起こりうる場でございます。— 身を委ねることそのものが、鍵でございます。— 技法でも、お手の場所でも、順序でもなく、— このお力を受け取り、感じる覚悟でございます。— おそれから、それを閉ざしてしまわぬように。— 霊気は滅菌されたお働きではございません。— 言葉のもっとも本来の意味において、深く官能的なご体験でございます。
これは、すべてのお働きで起こらねばならないこと、ではございません。— 目指すべきものでもなく、強いられるものでもございません。— けれども、これは確かに、閉ざしてしまうべきではないひとつの現実でございます。— この次元を否み、抑え込む方は、実践のもっとも高い潜める力を、ご自身で削ってしまうことになるのかもしれません。
そして、ここに、まことの禁忌がございます。— 立ち上がりうるこの強い引き合いは、— ほとんど誰も認めようとなさらないだけで、— 深く意味のあるものでございます。西洋の霊気の場には、暗黙の掟がございます。— 何も感じてはならぬ、と。身を委ねてはならぬ、と。— 決して恋に落ちてはならぬ、と。専門的な距たりを保たねばならぬ、と。— 五感は制されねばならぬ、と。— 触れ合いは、滅菌されたままで、と。
けれども、まさにこの禁こそが、霊気がそのもっとも深い姿においてひらいてまいるはずのものを、閉ざしてしまっているのでございます。— 実践から、その変えるお力を奪ってまいります。— 行ずる方とお受けの方の境を溶かしてしまえ、と申しているのではございません。— 敬いとまなざしは、いつでも土台でございます。— けれども、感じることそのものを禁じることが、問を立ててまいります。— 「禁じられている」「専門的でない」と信じて、身を委ねることを避けられる方は、まさに最も深い変わりが起こりうる、その門を、ご自身で閉ざしておしまいになっているのかもしれません。
— 愛(あい)。— 仏教の伝統において、感傷的なお気持ちではなく、ひとつの宇宙的なお力。— 第六の気の中心の深い感じが、第二の中心の官能に出逢い、第四・心の中心の愛のなかで、ひとつになってまいります。— 気付きと感じることが、心の中心でそっと互いを見つけてまいる。— これは理屈ではございません。— 変わりの作りそのものでございます。
密教における奥深い伝統 — 西洋で「ネオ・タントラ」と呼ばれているものとは別のもの — のなかで、この結びは枝のお話ではなく、中心のお話でございます。— お互いに開かれてまいるお二人のお出逢いは、不二のご体験への、もっとも直なる道のひとつとされてまいりました。— 愛染明王 愛染明王(あいぜんみょうおう)、真言密教における愛の明王さまは、まさにこの真実を体として示していらっしゃいます。— 情熱と智慧は、対立するものではなく、— 同じお力の二つのお面でございます。
ここに記しましたのは、境を越えるようお誘いするためではございません。— ひとつの誠へのお誘いでございます。— 深いお力の場のなかで起こりうるものへの、— そして、それに身を委ねることのおそれそのものへの、誠でございます。— 多くの方が、ご自身の感じる力を、そっと消してまいる術を身に付けていらっしゃいます。— ご自身のためではなく、感じることはおそろしいことだと教わってこられたためでございます。— 真言霊気は、別の道をそっとお示しいたします。— 五感は味方として、感じることはお力として、お二人の方の出逢いは、ありのままの姿として。— 身を委ねるご勇気のあるところに、変わりが起こってまいる、その場として。