西洋において霊気れいきは、くつろぎの方法となってまいりました。やわらかな手、抑おさえられた光、静かに流ながれる音楽。それを求もとめる方は、癒いやしを見つけられることでございましょう。けれども、霊気を世にもたらされた臼井甕男うすいみかお先生せんせいは、くつろぎの療法家りょうほうかではございませんでした。武家ぶけの家系かけいに連つらなる方であり、武士ぶしの伝統をようやく脱ぬぎ捨てたばかりの日本に育そだたれた方でございます。臼井先生がお創つくりになりましたものは、その出自しゅつじを内うちに宿やどしておりました ― のちの世代せだいがそれを忘わすれてしまいましたとしても。

この忘わすれられた側面そくめんを再ふたたび見いだすことは、霊気への理解りかいそのものを変かえてまいります。疲つかれた方々のためのやさしい方法ほうほうではございません。修練しゅうれんでございます。内うちなる強つよさ、明晰さ、決意けついの実践じっせん ― 霊的な歩みが趣味しゅみではなく、生いきる使命しめいでありました方によって形かたちづくられた道でございます。

臼井神社 ― 谷合の天高神社・臼井甕男のご出生地
天高神社あまたかじんじゃ · 谷合たにあい · 臼井先生のご出身地しゅっしんち

旗本はたもと ― 臼井先生の武家ぶけ 旗本

臼井甕男先生は、1865年、谷合たにあい(現在の岐阜県ぎふけんの村むら)にお生うまれになりました。ご家系かけいは 旗本 旗本 ― すなわち将軍しょうぐんの直臣じきしんでございました。単たんなる兵へいではございません。旗本は徳川とくがわ幕府ばくふの軍事ぐんじの精鋭せいえいを形かたちづくり、将軍の直じかの下もとに仕つかえ、大小だいしょう二振ふりの刀かたなを差さす権利けんりを持もち、権力けんりょくの最高さいこうの場ばに近ちかづくことが許ゆるされておりました。

臼井先生がお生まれになりました頃、侍の世よはちょうど終おわりを迎むかえたばかりでございました。1868年の明治維新めいじいしんが封建ほうけんの制度せいどを解とき放はなちました。けれども、文化ぶんかはひと世代せだいで消きえるものではございません。価値観かちかん、姿勢しせい、内うちなる修練しゅうれん ― それらは家いえのなかに生いき続つづけてまいりました。臼井先生が育そだたれました世界において、武士道 武士道 は歴史れきしの概念がいねんではなく、生いきた現実げんじつでございました。武の道は、その方の受うけ継つがれた遺産いさんであったのでございます。

武
武 ― 武人ぶじん、武芸ぶげい、勇気ゆうき。この字は「止とめる」と「戈ほこ」とから成なっております ― すなわち、武器ぶきを止とめること。真まことの武人は戦たたかう方ではなく、戦いを終おわらせる方でございます。この理解りかいは、日本の武の伝統でんとうすべてを貫つらぬいております。

武家に育そだつということは、何を意味いみするのでございましょうか。それは、修練が外そとからの要求ようきゅうではなく内うちなる姿勢しせいであるということでございます。毎朝まいあさ、陽ひの昇のぼる前に起おきること。身体しんたいを鍛きたえ、心こころを研とぐこと。安楽あんらくに従したがうのではなく、務つとめに導みちびかれること。やる気の湧わくのを待まつのではなく、正ただしいことゆえに動うごくこと。厳きびしく聞きこえます。けれども、臼井先生のような方にとって、それは当あたり前まえでございました。呼吸こきゅうする空気くうきのようなものでございました。

霊気の五戒ごかいのなかの武士道 五戒

霊気の五つの生活せいかつの規範きはん ― 五戒 五戒 ― は、しばしば穏おだやかな知恵ちえとして受うけ取られております。怒るな。心配しんぱいするな。感謝せよ。勤つとめ励はげめ。慈いつくしめ。暦こよみの言葉ことばのように聞きこえるかもしれません。けれども、武士道の文脈ぶんみゃくのなかで読よみますと、その真しんの鋭するどさが立たち現あらわれてまいります。

「今日きょうだけは怒るな」 ― 武人にとってこの言葉は、感情かんじょうを抑おさえよ、という意味いみではございません。心を制せいせよ、という意味いみでございます。怒りのなかで動うごく武人は、制御せいぎょを失うしない、傷きずつきやすくなってまいります。これは道徳どうとくの勧すすめではございません ― 戦略せんりゃくの必要ひつようでございます。明晰な心は生いき残のこり、濁にごった心は誤あやまちを犯おかすからでございます。

「今日だけは心配するな」 ― 心配しんぱいとは、存在そんざいしない未来みらいへと心を投なげることでございます。武人に心配する余裕よゆうはございません。未来を見みる方は、現在げんざいを見失みうしなってしまいます。そして、刀かたなが振ふるわれるのは、現在においてでございます。この戒かいは、もっとも純粋じゅんすいな 無心むしん 無心 でございます ― ただ「今いま」のなかにのみ在ある、空からの心。

「霊気の五戒は、くつろぎのための言葉ことばではございません。武人の修練しゅうれんでございます。一つひとつの戒が、内うちなる強つよさ ― 自らの心を治おさめる強さ ― を求もとめております。これがもっとも難むずかしいことでございます。外そとのいかなる戦たたかいよりも。」 マーク・ホサック博士はかせ

「業ぎょうを励はげめ」 ― ここで使つかわれております 業 業 という言葉ことばは、単たんなる仕事しごとを意味いみするものではございません。実践じっせんのことでございます。霊的れいてきな実践。生涯しょうがいの業わざ。武人にとって、日々の修練しゅうれん ― 剣けんの術じゅつ、書しょ、瞑想めいそう ― は選えらぶものではなく、務つとめでございました。臼井先生はこの原理げんりを霊気に移うつされました ― 日々励はげめ。気持ちのよさのためではなく、それが己おのの道だからでございます。

五戒は、気軽きがるな生いき方の助言じょげんではございません。掟おきてでございます。武人の掟が、霊的実践の言葉ことばへと翻ほん訳やくされたものでございます。これを理解りかいされる方は、なぜ臼井先生がご自身の道のなかで「気の向いたときに」というような緩ゆるみを許ゆるされなかったかも、おわかりになることでございましょう。臼井先生は修練しゅうれんを期待きたいされました。厳きびしさからではなく ― 修練なくして変容へんようはないことを、よくご存ぞんじだったからでございます。

霊気は武人の修行しゅぎょうでございます 修行

西洋の感覚かんかくのなかで、霊気は受身うけみの営いとなみでございます。寝台しんだいに横よこたわり、気きを受うけ取り、寛くつろぐ。けれども、臼井先生のもとで霊気は能動のうどうの実践じっせんでございました ― 修行 修行、文字どおり「修おさめて行ゆく」ことでございます。日本の武芸者が日々の稽古けいこに用もちいる同おなじ言葉。仏門ぶつもんの僧そうがご自身の霊的実践に用もちいる同じ言葉でございます。

臼井先生の有名ゆうめいな鞍馬山くらまやまでの二十一日の断食だんじき瞑想めいそうは、くつろぎの静養せいようではございませんでした。武人の試こころみでございました。三週間しゅうかん、ひとり山中さんちゅうに、食しょくを断たち、瞑想めいそうのなかに。身体しんたいの耐たえる力、心こころの強つよさ、大方おおかたの方には欠かけております決意けついを要ようするものでございます。修験道しゅげんどう 修験道 の行者ぎょうじゃ ― 山伏 ― が幾いく世紀せいきにもわたって続つづけてこられました実践でございます。

臼井先生が道みちを伝つたえられました仕方にも、武人の筆致ひっちがうかがえます。お弟子でしがたは、それぞれの段階だんかいを自みずから得えてまいらねばなりませんでした。週末しゅうまつの伝授でんじゅはございませんでした。道は長ながく、求もとめられるものは高たかうございました。気きを導みちびく力は贈おくり物ではなく、たゆまぬ実践じっせんの結実けつじつでございました。

原理

霊気は受身の営いとなみではございません。能動の霊的修練 ― 修行でございます。臼井先生はご自身の道を、武の伝統に倣ならって形かたちづくられました。日々の修練、段階だんかいを追おった深ふかまり、内うちなる熟達じゅくたつを目めざすこと。霊気を単たんなるくつろぎとしてのみ解かいされる方は、武の側面を見み逃のがしておられるのでございます。

残心ざんしん ― 実践のあとの覚醒かくせい 残心

日本の武芸には、西洋ではあまり理解されない概念がいねんがございます ― 残心 残心、文字どおり「残のこる心」でございます。動作どうさのあとの、完全かんぜんな覚醒かくせいの状態じょうたいを表あらわします。剣は振ふるわれた ― けれども、心は覚さめたままでございます。注意ちゅういは緩ゆるみません。怠おこたる瞬間しゅんかんはございません。

この原理は、霊気の実践のなかにそのまま息いきづいております。霊気の施ほどこしは、手てを離はなして次つぎの用ようへと向むかうことで終おわるものではございません。施しのあとに起おこることの質しつが、働はたらきの深ふかさを定さだめるのでございます。実践なさる方は、なお在あり続つづけます。余韻よいんを感かんじ取られます。場ばを急いそいで畳たたまれません。この余韻よいんの時ときが、残心 ― 気きの営いとなみに移うつされた武人の覚醒でございます。

弓道きゅうどうにおいては、矢を放はなった瞬間しゅんかんのあとに残心が現あらわれます ― 射手いては完全かんぜんな静寂せいじゃくのなかに留とどまり、腕うではなお開ひらかれ、心は明晰でございます。真言霊気においては、施しを結むすんだあとの瞬間しゅんかんに同おなじものが現あらわれます ― 手はゆっくりと離れ、呼吸こきゅうは深ふかく、結むすびは余韻よいんのなかに残のこります。同おなじ心 ― 決けっして怠ることのない武人の心でございます。

剣と気きの結むすびつき 氣

日本の言葉で気を表あらわす 気 氣 は、武芸においても霊気においても同おなじく現あらわれます。合気道あいきどう は「気と合あう道」を意味いみします。霊気 は「霊れいなる気」でございます。これは単たんに言葉ことばのうえの関係かんけいではございません。同じ現象げんしょうでございます。

剣の達人は筋肉きんにくの力ちからでは切きられません。気で切られるのでございます ― 大地だいちから脚あしを通とおり、腰こし、胴どう、腕うでを経て、刃やいばへと至いたるまで、身体しんたい全体ぜんたいを巻まき込こむ気の放出ほうしゅつでございます。達人たつじんの切きる瞬間しゅんかんを目まのあたりにされた方は、その瞬間しゅんかんをご存ぞんじでございましょう。動うごきは力ちからが抜ぬけて見えます。力ちからがないからではございません ― 完全かんぜんに束たばねられているからでございます。身みのなかに抵抗ていこうはございません。滞とどこおりもございません。自由じゆうに流ながれております。

まさにこれが、霊気の実践の目指めざすところでもございます。手が気を置おくのではございません ― 身体すべてが通路つうろとなるのでございます。気は宇宙うちゅうから実践なさる方を通とおり、抵抗ていこうなく流ながれます。剣の切るときと同じく、実践なさる方が道みちを塞ふさがれないほど、その働はたらきは深ふかくなってまいります。武芸の達人と霊気の達人は、同じ力で働はたらいておられるのでございます ― 表あらわれ方が違ちがうばかりでございます。

「侍さむらいが剣を振ふるうこと、霊気を実践なさる方が手を置おかれること ― 内側で営いとなまれているのは同じことでございます。己おのを退しりぞかせ、我がを脇わきに置おき、気を己おのが身みを通とおして流ながれさせる。比喩ひゆではございません。実践じっせんそのものでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

不動明王ふどうみょうおう ― 武人の守護尊しゅごそん 不動

武人は霊的な守まもりなくして世よに出でられませんでした。侍は 不動明王 不動明王 ― 動うごかざる明あきらかなる王おう、武人の守護尊 ― を敬うやまわれました。炎ほのおを纏まとった剣は迷まよいを断たち、羂索けんじゃくは心の魔まを縛しばります。そのお顔かおには恐おそれがございません ― 揺ゆるぎない決意けついのみがございます。

不動明王は柔やわらかではございません。お愛想あいそもなさいません。炎ほのおのなかに立たち、まっすぐにこちらを見つめておられます。なぜならば、真まことの霊的実践は、いつも心地ここちよいわけではございません。ときには、固かたく握にぎっていたものを焼やき払はらうものでもございます。ときには、慣なれ親したしんだものを手放てばなす勇気ゆうきを求もとめます。侍はそれをご存ぞんじでございました ― だからこそ、不確ふたしかな世よに踏ふみ出だす前に、不動明王に祈いのられたのでございます。

真言霊気においても、不動明王は同じ役割やくわりを担になわれます。その真言しんごん、印契いんげい、力は、進すすみたる実践の一部ぶでございます。お呼よびかけする方は、世よからの守まもりを願ねがうのではございません ― ご自身の内うちで燃もえなければならぬものに向むき合あう力を願ねがうのでございます。

これがあなたにとって何を意味するか

霊気の武の側面を用もちいるのに、侍である必要はございません。けれども、その側面を知しることはできます ― そして、その気きづきがご自身の実践を変かえてまいります。意味いみするところは、こうでございます ― 霊気を真摯しんしに受うけ取ること。折おりに触ふれたくつろぎの体験たいけんとしてではなく、日々の修練として。実践なさることでございます。毎日まいにち。誰だれかに命めいじられたからではなく ― それがご自身の人生じんせいを変かえるという体験たいけんを、ご自身でなさったからでございます。

また、こうも意味いみします ― 五戒ごかいを気軽きがるな勧すすめとしてではなく、掟おきてとして受うけ取られること。日々の心への挑いどみとして。今日きょう、怒らずに過すごせるか。心配を手放てばなせるか。感謝かんしゃできるか ― 暮くらしが不便ふべんな折おりにも。これらは武人の問といでございます。そして、武人の答えを求めております。

武の伝統は柔やわらかさと矛盾むじゅんするものではございません。むしろ、強つよき者のみが、真まことに柔らかになり得えるのでございます。強つよさなき柔らかさは弱よわさでございます。柔やわらかさなき強さは粗暴そぼうでございます。両者りょうしゃを共ともに ― それが武人の道でございます。そして、それが臼井甕男うすいみかお先生の遺のこされた道でございます。

主題しゅだい:霊的な武の道

さらに深く

霊性と武芸の結むすびつきを、ただ読まずに生いきてみたいとお感かんじになりますか? tengu-akasha-dojo.de にて、媒介ばいかいの武芸の実践 ― 阿迦舎あかしゃの力と身体しんたいの営いとなみが出会であう場ば ― にお越こしいただけます。

武人の道

真言霊気のなかの道みち

霊気を武人の修練として ― 日々の実践、内なる強さ、段階を追った深まり。臼井先生がお示しめしになりました道を、ご覧らんくださいませ。

心の道 九字切り