臼井甕男先生 · 霊気の創始者、侍の血を継ぐ求道者
臼井甕男先生 · 霊気の創始者

ある一人の男が、山の上に立っております。— 二十一日、食を断ち、瞑想と観想かんそう苦行くぎょうのうちにおりました。最後の夜、その頭上ずじょうに、すべてを変える一つのお力を感じられたのでございます。— 内よりつらぬくほどの、霊性の光。

ここから、霊気のお話は始まります。— ウェルネスのおみせでも、週末のもよおしでもなく、日本のひとつの山の上、すべてをした実践のしずけさのうちに。

この御方とは、いったいどなたでしょうか。

さむらい — 刀を手放された御方

臼井甕男うすい みかお先生は、1865年(慶応元年)8月15日、岐阜県の谷合村たにあいむら(現在の美山みやま町谷合)にお生まれになりました。— 千葉氏ちばしのお家の出。鎌倉時代かまくらじだい千葉常胤ちば つねたね公にまでさかのぼる、由緒ある侍の血筋でいらっしゃいます。

お生まれながらの侍として、先生は古来の武芸ぶげいを身につけられました。— 体術、剣術、棒術ぼうじゅつ薙刀なぎなた、槍、徒歩と馬上の弓。おさなき頃より、相手のたたかい方をよくよく学び、ご自身をみがき、決してあきらめることをらぬ御方でいらっしゃいました。

けれども、1876年(明治9年)、廃刀令はいとうれいのもと、明治めいじのご維新いしんにより、侍の身分はそっと終わりを告げてまいります。— 一夜にして、先生はその社会のち位置と、生計のいしずえと、御役目おやくめとを失われました。多くのお侍さま方が、そのへんに折れていかれました。— けれども、臼井先生は、お折れにはなりませんでした。

行者ぎょうじゃとして、まなび深め行者

お侍さま方は、のみならず、深い精神の御修養しゅようをいただいてまいられた方々でございます。先生もまた、お小さい頃より、近くの仏寺にて仏教におれになりました。— ここから、その後決してはなれることのない、霊性の道が静かに始まったのでございます。

墓誌ぼし碑文ひぶんによりますと、先生の戒名かいみょう行伴ぎょうはん 行伴でいらっしゃいました。— 「あかつきかかげる」、夜のやみえてゆくふねのお名前でございます。— 一つも躊躇ちゅうちょなさらず、すべてのさわりをえ、お日さまにたどり着くまで、ただあゆみつづけられた御方を、そのお名前はうつし出しております。

どのお宗派しゅうはでいらしたのでしょうか

臼井先生はどの仏教のご宗派しゅうはに親しまれていらしたのでしょうか。— このお問いは、長きにわたり議論ぎろんされてまいりました。「鞍馬寺は天台宗のお寺ゆえ、天台」とおっしゃる方もあれば、「お坐禅ざぜんをされたゆえ、禅」とおっしゃる方もございます。けれども、霊気の象徴しょうちょう(シンボル)、ご伝授のかたち、仏教の瞑想めいそうのあり方は、いずれも真言宗 — 真言密教 — の方を、はっきりと指し示しております。— 日本では、お坊さま方の間ではこのお問いはあまり大きくは立ちません。— すべての宗派が、最後はひとつの仏さまにしてまいり、たがいに支え合うものでいらっしゃいますから。

臼井先生は、深い学びをお持ちの御方でいらっしゃいました。— 医書、仏教の経典きょうてん、聖なる典籍。哲学てつがく心理学しんりがく、宗教学。日本中をおめぐりになり、神社仏閣をおたずねになりました。象徴しょうちょう、おふだ儀礼ぎれいにもお詳しく、気功きこう、シャーマニズム的な道教の修法、うらないの法にも親しまれた御方でございます。

仕事しごとの上では、政治家せいじか方の従者じゅうしゃから、1920年に東京とうきょう市長となられた後藤新平ごとう しんぺい公の秘書ひしょまで、さまざまなお役目をおつとめになりました。— このごえんにより、中国やヨーロッパへの旅もご経験けいけんになりました。けれども、先生のおこころが真に向かわれたのは、別のところでございました。

鞍馬の山の夜鞍馬山

ある時、臼井先生は鞍馬の山にお登りになり、ただひたすら御自身の実践に身をささげられました。— 食を断ち、ひたすらに瞑想めいそう。心と身を、そのさかいまで運ぶ苦行くぎょうの修法。

二十日目、もしくは二十一日目の夜のことでございました。— ご頭頂ずちょうの上に、大いなる霊性のお力をお感じになります。霊気の光が、先生の身をつらぬき、お流れになりました。— その瞬間しゅんかん、先生は霊気のお力のうつわとなられたのでございます。

下山の途中とちゅう、足をすべらせて、お怪我をなされます。— その新たに授かられたお力を、ご自身に試みられました。すぐに、そのはたらきをお感じになりました。山のふもとのお茶屋にて、そこにあるすべてのお食事をご注文ちゅうもんになりました。

ご主人は、ご躊躇ちゅうちょなさいました。— 二十一日の断食だんじきのあとに、お食事をすべて、というのはお身にさわるのではないか、と。けれども、臼井先生は、そのおもうし出をゆずられませんでした。— 「もし具合ぐあいが悪うなりましたら、それはそれでおしえてくださりましょう」と。— ご主人はすべてをおはこびになり、先生はおし上がりになりました。— 何のお支障ししょうもなく、むしろ、まことあきらかに、お元気でいらっしゃいました。

その姿に深く感銘かんめいを受けたご主人は、のおいたみにくるしんでいらしたおじょうさまを、先生のもとへお連れになりました。— 臼井先生は手をえられました。— れは、そっと引いてゆきました。— その最初さいしょ瞬間しゅんかんに、すでに先生はおづきでいらっしゃいました。— このお力の質と強さは、まったく新しいものであった、と。手をえる、というかたちは、すでにごぞんじでいらっしゃいました。— 新しかったのは、お流れになるそのお力でございます。

「霊気のお力がはたらくのではございません。— 行ずる方がはたらくのでもございません。お力は、おけになる方の内に、すでに静かにそなわるもの — 身と心が本来ほんらいのお調しらべにもどられる、その自然なおはたらきを、そっとおささえするものなのかもしれません。」 霊気の実践の心より

その御業みわざのお伝え伝承

東京とうきょうもどられたのち、先生はまずご家族かぞくの方々にお力をお試みになりました。すぐに、おはたらきが見えてまいります。— ここで先生はおづきになります。— 「これは、わが家のうちにとどめておくべきものではない」、と。1922年(大正11年)、原宿はらじゅく地区の青山あおやまにおうつりになり、ご伝授と霊気の御業のための場をお開きになりました。

ちかくからも、とおくからも、人々がおつどいになりました。— 玄関の前にはお履物はきものがずらりとならび、— 日本では、おきゃくさまが大勢いらっしゃることのたしかなしるしでございます。— 先生のお名は、まこと早やかにひろまってまいりました。

関東大震災かんとうだいしんさい関東大震災

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が東京と横浜よこはまおそいました。— マグニチュード7.9。お亡くなりになった方は、十四万人余りと推定すいていされております。火災かさい幾日いくにちも続き、市街しがいのあちらこちらが灰となりました。

その時、臼井先生はどのようになさいましたでしょうか。— 夜明けとともに、お立ちになりました。瓦礫がれきの街を歩きながら、くるしんでいらっしゃる方々のもとへとお向かいになりました。— 何かを受け取れるかいなか、ということなど、お考えにならぬままに。御墓誌の碑文にこう記されております。— くるしみのうちにある人々をおすくいになる、そのお業の大いさは、他にならぶものなきほどでございました」

この一しゅんに、臼井先生のお姿すがたのお核心かくしんがございます。— ためらわず、はかりごとなく、ただ歩き、ただすくわれたのでございます。

臼井先生がまことにおねがいになっておりましたこと本意

多くの方々は、霊気を「身にかかわるもの」とお考えでいらっしゃるかもしれません。— 手をえる、ごくつろぎ、安らぎ。けれども、臼井先生ご自身が、ご自身のお業についてしるされたお言葉ことばはいしますと、そこにはまったく別のお姿すがたかんでまいります。

御墓誌には、こうあきらかに記されております。— このお業は、まず第一に「天賦てんぷ霊能れいのう」のおはぐくみと、個人こじんのご成熟せいじゅくのためにございます、と。行ずる方を、ご自身のおたましいみがき、お身の安らぎをたもち、おゆたかなおらしへとお導きする、と。お身のおなやみへのおはたらきかけ — それはむしろおえのものでございます。— ただ、お困りの方々をお支えするために。

臼井先生のご本意ほんい

まず、霊能れいのう — おかんじる五つのお感覚かんかくを超える能力のうりょくのお育み。次いで、霊性のご展開てんかい。そしてそれにつづくものとして — おえのおはたらきとして — お身のおなやみへのお支え。霊気は、はじめからひとつのみちでございました。— ウェルネスのお道具ではなく。

五戒ごかい — 御訓五戒

臼井先生は、五つの御おしえ五戒 — を、日々のご実践じっせんとして整えられました。— 朝な夕な、むねの前にて手をあわせ、心のおくのお場所ばしょ意識いしきを向け、おとなえになります。— アファメーションでも、マントラでもなく、観想かんそうとして。— ただ静かに、本来大切なものへとおもどりになる姿すがたでございます。

その御訓みおしえは、まことに素朴そぼくでございます。— 「今日けは おこるな / 心配しんぱいすな / 感謝かんしゃして / ぎょうをはげめ / 人に親切しんせつに」。— けれども、その素朴そぼくさは、見せかけのものでございます。— 日々おつづけになる方は、それがいかに深くはたらくか、すぐにお気づきになられます。

臼井先生は、五戒のうちに、倫理りんり規範きはん以上のものをお見になりました。— 「よろずやまい霊薬れいやくであり、しあわせをおまねきする方法」とたとえられたのでございます。— 御訓は、正しくおおさめになるとき、ひとつのエネルギーのお業となります。— 日々を流れる心のながれを、そっと変えてゆくものでございます。

晩年晩年

1865年
岐阜県の谷合村にお生まれになります。— 千葉氏のお家、侍の血筋。
1876年
明治のご維新により、侍の身分が終わりを告げてまいります。— けれども、先生は折れずにお歩みになりました。
1922年
鞍馬の山にて、霊気の道をお授かりになります。— 東京・青山に、霊気のための場をお開きになりました。
1923年
関東大震災のさなか、ご褒美のお気持ちもなく、ただ苦しんでいらっしゃる方々のもとへとお歩みになりました。
1925年
東京・中野なかのに新たな道場どうじょうをお開きになります。— 旧い場では、人をお迎えするには手狭となってまいられました。
1926年3月9日
臼井先生、福山ふくやまにてご逝去せいきょ。— ご伝授をお受けになった方は二千余名、うち師範格にお進みになった方は二十名ほどでいらっしゃいました。
1927年
親しい御弟子方が、東京・西方寺さいほうじのお墓のかたわらに御墓誌をお建てになりました。

晩年の臼井先生は、お旅のうちにいらっしゃいました。— そのお名声はおさき立って、各地より御招ごしょうきをいただかれます。くれ広島ひろしま佐賀さが。— あちらにてもこちらにてもご伝授をおさずけになり、そのお力を直に体験たいけんしたいとおっしゃる方々がお集いになりました。

1926年(大正15年)3月9日、臼井先生はご享年きょうねん62にて、福山にお亡くなりになりました。— すでにいくたびかの脳卒中のうそっちゅうにより、お身はよわっていらっしゃいました。直接の御逝去のおもとあきらかではございません。— けれども、その遺産いさんは、そのときすでに、世にしっかりと根を下ろしていらっしゃいました。

残されたもの遺産

御墓誌の碑文は、臼井先生を、いにしえ聖賢せいけんの御方々にならべております。— そして、そのお人柄をあきらかにいたしております。— ご成功せいこうではなく、不撓不屈ふとうふくつのお姿すがた。霊気のお力に出逢であわれる前の臼井先生は、その誠実せいじつなおり組みでお知られでいらしたものの、世に見える成果はお持ちではいらっしゃいませんでした。— ご挫折ざせつあじわれ、かろんじられ、— けれどもなお、お歩みつづけられました。先生の侍のたましいが、おささえしていたのでございます。

霊気の道へとおいたられたとき、すべてがわってまいります。— そのお人徳じんとくのお力はし、人々があちこちからお集いになりました。— かつてお苦しみであったみちが、おながれとなったのでございます。

修養練磨しゅようれんまじつみて、なかところあるを、これをとくふ。開導拯濟かいどうじょうさいの道をひろめて、そとほどこす所あるを、これをこうふ。功高こうたか徳大とくだいにして、はじめて一大宗師いちだいしゅうしたることをべし。」 臼井甕男先生御墓誌の碑文(1927年) — マーク・ホサック博士訳

臼井先生は、御自身のお名をかんするご団体だんたいはおのこしになりませんでした。— おのこしになったのは、ひとつの実践でございます。— お力を宿やどした象徴。うつわひらくご伝授。心をきよめる瞑想。— そして、五つの素朴な御訓。— 真面目にお取り組みになりますとき、ひとつの生涯しょうがいをそっと変えてゆくものでございます。

先生のごねがいは、このお業を、ひらかれてひろめてゆくことでいらっしゃいました。— 一にぎりの方々のための秘伝ひでんとしてではなく、その御縁ごえんける覚悟かくごのあるすべての方々のための、ひとつのお道として。— これこそ、今もなお、真言霊気のおかくでございます。— 直のお伝え、生きて息づく実践、絶えることなく続いてまいるお道でございます。

臼井先生のご遺志いしいで

真言霊気れいきを、ご一緒に。

臼井先生が鞍馬の山にておさずかりになった霊性のお業 — それは、真言霊気のうちに、今も生きて息づいております。— ご伝授、瞑想、ご実践。臼井先生がおねがいになっていらしたとおりに。

真言霊気とは 五戒について