
ご覧になったことが、おありでしょう。日本の大衆文化のいたるところで、それは姿を現しております ― 瞬時に印を結ぶ手。指を絡めて目に見えぬ力を解き放つ姿。それを目にした方は、すぐに感じ取られます ― そこに、本物の何かがあるのだと。創作では説明のつかぬ何かが。
その感覚は、正しいのでございます。九字切りは創作ではございません。千年を超えて続く実践でございまして、密教、修験道、神道、そして道教の呪術的伝統から直に受け継がれてまいりました。映像に映るものは、ほんの影でございます ― 直接の伝授を通してのみ開かれる現実の、影でございます。
この記事では、九字切りの本当の姿をお伝えいたします。九つの印が開くもの。共に働く諸尊。そして、十二世紀のひとりの僧侶が、武装した襲撃者に追い詰められながら、九字切りの力により命をもって逃れた、その場面 ― まるで物語の一場面のような ― についても、共にたどってまいります。
九字切りとは何か 九字切り
九字切り ― 文字どおり「九つの字を切る」の意でございます。九つの字とは 臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前。多くの方が見落とされますのは、九字切りが単なる印の連なりではないということでございます。九字切りは四つの層が同時に働く、完全な体系でございます ― 空中に切る九つの漢字、九つの印契、九つの真言、そして九つの観想。それぞれの印が独自の力、独自のお働き、独自の霊を担っております。
九つの印は鍵束のように積み重なってまいります ― ひとつの印が、次の印を開く。段階を飛ばすことはできません。そして、それぞれの印が具体的な変容を呼んでまいります ― ご自身の知覚に、周りとの関わりに、そして霊的に可能となる領域に。
九つの印が開くもの 九印
九つの印には、それぞれ固有の印契 ― 身体を特定の気の配置へと導く手印 ― がございます。印契は象徴ではございません。鍵でございます ― 指が正しい位置に納まりますや否や、身体のなかの気の流れがしずかに変わってまいります。瞑想のなかで印契を結ぶとき、その印の働きが静かに展き始めるのでございます。
- 臨 リン ― 力と内なる火。内なる炎を点し、すべての土台となる安定を育ててまいります。
- 兵 ヒョウ ― 気の導き。リンで点された力を、身体と空間へと方向づけてまいります。
- 闘 トウ ― 調和と直観。周りと息を合わせ、事が起こる前にそれを感じ取る力を磨いてまいります。
- 者 シャ ― 浄化と再生。身体の再生力を呼び覚まし、その清めの力を他の方々へも渡すことが可能になってまいります。
- 皆 カイ ― 霊なる感覚。事象に先立つ気の動きを感じる、細やかな知覚が開かれてまいります。
- 陣 ジン ― 思いを感じ取る。他の方の思いや意図を、静かに感じる段へと深まってまいります。
- 列 レツ ― 空間と時間を越える。近くと遠く、今と後の境がほどけてまいります。
- 在 ザイ ― 五大と顕現。地・水・火・風・空の五大と結ばれ、形あるものへと働きかける道が開かれます。
- 前 ゼン ― 悟りと不可視。すべてが一つに溶け、邪なる影響に対しては姿が消えてまいります。
ひとつひとつの印が、次の印を支えてまいります。リンが炎を点し、ヒョウがそれを導き、トウが調え、シャが清めます。カイが知覚を開き、ジンが深めます。レツが境を越え、ザイが形を結び、ゼンが結実させます。九つの印契、九つの鍵 ― すべてを正しい順で開いてまいるのでございます。伝授が鍵を渡し、瞑想がそれを回します。
九字切りの真の源流 源流
九字切りの源は、ひとつの伝統のうちには収まりません。幾つもの流れが幾世紀のあいだに日本で織り合わさってまいりました ― 道教の呪術的な系譜、修験道(山伏の山岳修行)、神道、そして真言密教。この四つすべてが、九つの印に痕跡を留めております。
道教の呪術からは、特定の手印が宇宙の力と直に結びつくという思想がまいりました。修験道では、断食、滝行、長期の儀礼のなかで、これらの実践が磨き上げられてまいりました。神道からは、神々への結びつきが加わりました。そして真言宗が、すべてに三密 ― 印・真言・観想 ― という骨格を授けたのでございます。修験道に伝わる最も古い編集 ― 符咒集 ― には、十二世紀から十六世紀にかけて記録された二十六種を超える九字の実践が収められております。
この絡み合いこそが、九字切りを独り立たせております。純粋な仏教の儀礼でも、純粋な呪術でもございません。日本のうちでひとつに結ばれた、生きた織物でございます ― この姿は、日本にしか存在いたしません。個々の印契のうちにも、異なる根がございます ― 外獅子印と内獅子印は、真言密教ではなく修験道から来ております。智拳印は、大日如来ご自身の印契でございます。
覚鑁 ― 明王のお声が響いたとき 覚鑁
十二世紀、真言宗の聖地である高野山に 覚鑁 という僧がおられました。聡明で、改革者で、そして異端。わずか十七で密教の全伝授をお受けになっておりました。四十五を超える著作を残され、その中の 五輪九字明秘密釈 において、九つの字と五大、臓器の調えとの連関を、初めて体系的にお説きになりました。
1134年、覚鑁は座主に任ぜられ、二百三十八の寺院を束ねる立場に立たれました。改革のお志は、敵を呼びました。やがて1140年、金剛峯寺の僧らは、武士の騎兵と歩兵を従えて、覚鑁の堂を襲ったのでございます。
そこで起こったことは、まるで物語の場面のようでございます。覚鑁はそのとき、不動明王の像の前で不動法の儀礼を執り行っておられました。襲撃者たちが堂に踏み込んだ折、彼らの目に映ったのは覚鑁ではなく、同じ姿の不動明王の像が二体でございました。どちらが生身で、どちらが木像か区別がつかぬまま、彼らは両方の像の膝に矢を射ました。血を流し始めたのは、ただ一体のみ。襲撃者たちは、それこそが本物の覚鑁にちがいないと確信し、すべての矢を血を流す像に集中させました ― ところが、まさにそれが不動明王のお創りになった幻であったのでございます。彼らが射貫いたのは木像のほうでした。そして、不動明王のお声が響き ― 覚鑁は我が守護のうちに在り、と告げられました。覚鑁は裏口から逃れ、お堂はやがて炎に包まれたのでございます。
覚鑁は生き延び、根来山へと逃れました。そこで結ばれた交わりが、日本の霊性と武術の歴史を、永遠に変えてゆくこととなったのでございます。
根来山は忍の大きな拠点のひとつでございました。忍は覚鑁を匿い、追っ手から守りました。その返礼として、覚鑁は忍に九字切りの霊的な実践を授けてまいりました ― 九つの印、印契、真言、不動明王の儀礼を。武装した一軍すらひとりの僧侶を倒すことができぬほどの深い守りを築く、その実践を。
忍は、覚鑁が差し出したものの価値を瞬時に悟りました。守り、不可視、磨かれた知覚、敵意を事前に感じ取る力 ― 九つの印が開くものは、まさに陰に働く者たちが必要とするものでございました。覚鑁は1143年に遷化されるまで、高野山で磨き上げたものを伝え続けられました。こうして、後の世に忍の術として知られるもの ― 九字切り ― が形づくられたのでございます。
覚鑁の救いは空想ではございません。不動明王の実践に深く沈んだ者が、命の瀬戸際においてその霊に守られるとき、何が起こりうるかを映す姿でございます。瓜二つの像。一軍を欺いた幻。炎のなかから響いたお声。そして間一髪の逃れ。これが、九つの印の背後に息づく力でございます。

不動明王 ― 揺るぎなき明王 不動明王
九字切りの中心に坐すは 不動明王 ― 揺るぎなき明王。明王とは文字どおり「光の王」 ― ここでの光は智慧を意します。その剣は固まりついたものすべてを断ち、その炎は幻と欺きを焼き払います。覚鑁を救った力 ― 九字切りの格子の背後に立つ力でございます。
九字切りの剣印は、不動明王と直に結ばれております。空中に九つの字を切るとき、それは不動明王の力をもって行われます。格子状の切り目 ― 横に五本、縦に四本 ― は象徴的な儀礼ではございません。空間を清め、気を整え、不動明王との結びつきによる守りを築き上げてまいります。三密 ― 真言・印契・悉曇 ― への伝授が、千年を超えて日本の寺院のうちに体験されてきた力への道を開くのでございます。
九字切りに集う諸尊 諸尊
不動明王が中央にお立ちでございますが ― お一方ではございません。九字切りの師匠の道を歩む方は、幾つもの諸尊と出会ってまいります。それぞれが、独自の力と働きを携えてこられます。
金剛薩埵 金剛薩埵 は、真言宗の二祖でございます。すべての伝授の系譜の礎でございます ― 龍樹はかつて南インドの鉄塔を開き、金剛薩埵から密教の伝授をお受けになり、それが真言宗の創立へとつながりました。九字切りの師匠の道に入る方は、この系譜のうちに立たれるのでございます。
摩利支天 摩利支天 は、光そのものの顕現。三面八臂。星々に先立って駆けるのは、その光がいつも先にあるためでございます。蜃気楼と幻を生み、敵を惑わせます。忍はその力を不可視のために用い、武士は身の守りと勝利を祈り願ったのでございます。摩利支天の悉曇は マ。不動明王と摩利支天の合わさった力 ― カンマン ― の一翼でございます。
日天 日天 は、観音の変化たる太陽の尊。日天は影のない太陽の宮に住まわれ、すべては光に浸されております。日天の悉曇は ア ― 真言瞑想の核に位置する字でございます。九字切りの実践においては、修する者の太陽の力を強めてまいります ― 敵は眩く、欺きは露になり、自らの光が周りの空間そのものを変えてまいるほどに、強くなってまいります。
これらの諸尊にはそれぞれ独自の物語、独自の力、独自の結びつきがございます ― これからの記事で、お一方ずつたどってまいります。ここで知っていただきたいのは、ただ一つ ― 九字切りの師匠の道において、ひとり歩むのではない、ということでございます。幾世紀のあいだ呼び続けられ、体験され続けた力の場のうちに、足を踏み入れるのでございます。
護身法 ― すべての礎 護身法
九つの印が働き始める前に、地を整える実践がございます ― 護身法。三つの層 ― 身・口・意 ― 真言密教における三つの業の層を、清め、守るものでございます。真言の伝統において基礎とされる瞑想がここに含まれます ― 心を静める数息観。内なる清明を育てる月輪観。真言の核たる阿字観。そして怒りや憤りを転じる実践。
これらすべてが、最初の剣印が結ばれるよりも前に行われてまいります。内なる備えなき九字切りは、導き手のない剣のごときもの ― 力はあれど、方向がございません。護身法は、不動明王の清めの力をご自身の中を通してまいる、その下地でございます。

九字切りと忍 忍と九字
はい、忍は九字切りを実践しておりました。神話でも、創作でもございません。先に見ましたとおり、根来山の忍にこの実践を授けたのは覚鑁ご自身でございました ― 守りに応える守りとして。修験道の山伏は、密教の寺院の世界と陰に働く戦士たちのあいだの橋でもございました。こうして、後の世に忍の術と呼ばれるようになる九字切りが育ってまいりました ― 戦いの技としてではなく、覚鑁を死から救ったのと同じ霊の備えとして。
映像作品が描き出すものは、派手に単純化された姿でございます。印そのものは本物。それが力を解き放つという原理も本物。けれども、画面のなかで数秒のうちに起こることが、実際の伝統のうちでは長年の瞑想と直接の伝授に立脚しております。マークはこの系譜を担っております。田口流忍術(如拳如変術)の継承者として、九字切りの霊的な側面と武術的な側面の両方を含む直接の伝授のうちに立たれております。
三密 ― 三つの秘 三密
九字切りは、密教のすべての実践と同じ原理に従っております ― 三密。身・口・意。印・真言・観想。三つは同時に働きます。身体は印を結び ― 気の形を生み出す手印を。口は真言を唱え ― 招かれる力と共鳴する聖なる音節を。心は観想を保ち ― その尊との結びつきを生む内なる像を。
この原理は、千二百年を超えるむかし、空海(真言宗の祖)が日本の実践に導かれたものと同じでございます。九字切りと真言霊気は同じ源から湧き出てまいります。真言霊気を実践される方は、すでに同じ場のうちで歩んでおられるのでございます ― 霊気の象徴は、九つの印と同じ伝統のうちから生まれてまいりました。
そして九字切りと同じく、霊気の象徴もまた、日本でひとつに結ばれた生きた織物を映しております ― この姿は日本にしかございません。だからこそ、霊気の象徴のうちに密教、修験道、神道、そして道教の呪術の要素が映るのでございます ― 臼井甕男先生はこれらすべての伝統の奥に根を下ろしておられました。そして、九字切りを実践されておられました。鞍馬山へと三週間の瞑想のために退かれた折、選ばれたのは、幾世紀ものあいだ天狗 ― 日本の伝承のうちで忍を陰の術へと導いた山の霊 ― の中心地として知られた地でございました。鞍馬山は、本来の忍の拠点のひとつでございました。

九字切りと真言霊気は、分かれた道ではございません。同じ源から湧き、同じ原理を用い、同じ深みへと導く道でございます。臼井先生は両方を修しておられました。悟りの地は忍の地でございました。一方を歩む方は、すでにもう一方の入り口に立っておられるのでございます。
ずっと感じてきたものは、本物でございます 本物
もしかすると、子どもの頃、映像作品のうちに結ばれる印を目にされて、心のうちで感じておられたのでしょう ― そこに本物の何かがある、と。真似てみても、何かが足りないと感じてこられたかもしれません。探しても、空の真似事しか見当たらなかったかもしれません。
その感覚は、正しいのでございます。印の背後には、本物で生きた実践がございます。身・口・意を同時に働かせる実践でございます。千年を超えて呼び続けられた諸尊と結ぶ実践でございます。磨かれた直観から、気の知覚、そして動画共有場のうちには見当たらぬ力に至るまで、奥に感じてこられたものへと、道を開く実践でございます。
しかし、伝授が必要でございます。真似でも、独学でもございません。直接の伝授 ― 受けた者から受けた者へ、空海、覚鑁、山伏へと遡る系譜のうちで。マークはこの系譜を担っております。京都での三年に及ぶ研究。真言宗、天台宗、禅宗の寺院での修。四国八十八ヶ所巡礼を徒歩で。田口流忍術(如拳如変術)の継承者として、真言霊気の創始者として、原典を原語で読まれた日本学博士として。
マークがお渡しになるのは解釈ではございません。直接の伝授でございます ― お受けになった姿のままで。九つの段階。それぞれに固有の伝授。それぞれに固有の力。そして、ずっと感じてこられたものは、この道の始まりでお待ちしているのでございます。