マーク・ホサックによる霊気の漢字書道
霊気 · マークの書しょ

霊気(れいき)。二つの音おと。多くの方が、手当てや安やすらぎを思おもい浮うかべる言葉でございます。癒いやしの世界として。あるいは、はっきりとは掴つかみきれない、何か神秘的しんぴてきなものとして。

けれども、それが表面ひょうめんのひと皺しわに過すぎないとしたら ― いかがでございましょう。

この二音おんの奥おくに、古代中国までさかのぼる物語が息づいているとしたら。呪じゅのために刻きざまれた文字もじ、書くためではなく、お呼よびするための文字 ― そんな儀礼から伝わってきた物語があるとしたら。靈氣という漢字かんじそのものが、ほとんどの方には隠かくれたままになっている消息しょうそくを携たずさえているとしたら、いかがでございましょう。

私は日本で三年間研究けんきゅうを重かさね、真言・天台・禅のお寺で実践じっせんさせていただき、四国八十八ヶ所のお遍路を徒歩で巡めぐり、霊気の源流げんりゅうについて博士論文はかせろんぶんを書かかせていただきました。日本語と中国語の原典げんてんのなかから見みえてきたのは、西洋に伝つたわっている物語とは少し違うお話でございました。

雨の中の、ひとりの巫女みこから始はじまる物語でございます。

漢字かんじのかたち 靈氣

霊気というお名前は、二つの漢字かんじから成なり立たっております ― 靈(れい)と 氣(き)。合あわせて、霊性れいせいの生命のお力を表あらわします。

けれども、その訳やくはほんの入口いりぐちに過すぎません。一字じ一字が、それぞれに自らの物語を携たずさえております ― 千年の時のなかで育そだってきた、絵えのような物語を。そして、その絵が、現代のどんな定義ていぎよりも、霊気の本質ほんしつを静しずかに語りかけてまいります。

靈

靈れい ― 雨の中の巫女みこ

靈は、雨乞あまごいの呪じゅを象かたどる、もっとも古い文字のひとつでございます。日本の字書じしょでは、雨を祈いのる巫女として説とき明あかされております。上部じょうぶの横線よこせんの下にある四つの点てんは、雨つぶをたたえた雲。その下には、口くちの文字が三つ。一つの口は言葉ことば。二つの口は会話かいわ。三つの口は祈いのりでございます。

そしていちばん下に、巫女みこの姿すがた。二人の人が大地だいちに触ふれ、そこから力を頂いただくかたちでございます。霊気と古いにしえのシャーマニズムの結むすび目が、ここに静しずかに現あらわれます ― 西洋の解説かいせつでは、ほとんど触ふれられることのなかった、生きた結むすび目でございます。

雨は、ただの水ではございません。天てんから大地へと降くだる恵めぐみでございます。お力は人の中で生うまれるのではなく、人を通とおして流ながれるもの、ということでございましょう。

氣

氣き ― 生命の芽め

氣は、生命のお力をあらわす、もっとも古い字でございます。二つの部分ぶぶんから成なっております ― 上の湾曲わんきょくした線せんは、ただ「エネルギー」をあらわす古ふるい象形しょうけい。何と組くみ合わせるかで、その性質せいしつが変かわってまいります。エネルギーと水蒸気すいじょうきを合あわせれば、蒸気機関じょうききかんのお力。エネルギーと電でんを合わせれば、電気でんきでございます。

氣の場合、エネルギーの下にあるのは米粒こめつぶの象形しょうけい。東ひがしアジアの米こめは、生命そのものではなく、生命の芽めの象徴しょうちょうでございます。エネルギーと、生命の芽め ― 生命のお力でございます。

合わせて

靈氣 ― 巫女が祈り、天てんの恵めぐみがお力となって自らを通とおし大地へと流ながれる。生命の芽めと結むすばれて。これが霊気でございます ― 霊性れいせいの生命のお力。

漢字の源流げんりゅう 文字の起源

霊気の漢字は、日本生まれではございません。中国 ― それも道教どうきょうの世界から渡わたってまいりました。多くの方が易経えききょうを通とおしてご存ぞんじの哲学的てつがくてきな道教ではなく、シャーマニズム的・呪術的じゅじゅつてきな道教でございます ― 風水ふうすい、気功きこう、中医学ちゅういがくと同じ母ははなる流ながれでございます。

中国の文字は、もともと言葉を書かくために育はぐくまれたのではございません。古いにしえのシャーマニズムの儀礼のために誕生たんじょういたしました。一字一字が、亀の甲こうや骨ほねに刻きざまれ、地図と占うらないの問といと共に火ひにかけられました。裂さけたところに顕あらわれる線せんを、シャーマンが読よみ解といたのでございます。

一字一字が、絵でございました。山。川。人。天。地。象徴しょうちょうであり、抽象的ちゅうしょうてきな記号きごうではございません。そして、その絵えのような力ちからは、今日まで字のなかに息いきづいております。霊気の漢字も、また同じでございます。

道教どうきょうの儀礼のなかで、導師どうしはトランスへと導みちびかれ、長い棒ぼうを手てに砂すなの器うつわへと文字を記しるしたと伝つたえられております ― ご自身の体からだを動うごかしているのが、ご自身ではないかのように速はやく。記録係きろくがかりが同時どうじに書かき留とめ、互たがいに照てらし合わせる。こうして生うまれた文字は、神秘的しんぴてきな深さとお力を宿やどすと言いわれてまいりました ― そのお力は、もとのかたちを瞑想的めいそうてきに書かくときに、静しずかに顕あらわれてくる、と。 ― ハイデルベルク大学・東アジア美術史教授 ロタール・レダロース教授の研究けんきゅうに基もとづいて

霊気の象徴しょうちょうもまた、ただの図形ずけいではございません。千年を超こえる伝統のなかに立たち、その伝統の奥おくから働はたらきを携たずさえてまいります。正ただしく用もちいられたとき、はじめてそのお力は顕あらわれます。だからこそ、伝授でんじゅがそれほど大切たいせつでございます。直接ちょくせつのお伝つたえがなければ、象徴しょうちょうはただ静しずかに眠ねむったままになるのかもしれません。

霊気の本意 靈氣とは何か

臼井甕男うすいみかおがお伝つたえになった方法ほうほうの正式せいしきなお名前は、臼井霊気療法うすいれいきりょうほう 臼井靈氣療法でございます ― 「臼井師しによる、霊性れいせいの生命のお力をもちいた、自然しぜんのひらきの道みち」。この正式名せいしきめいがなければ、霊気の二字にじは「神秘的しんぴてきな気配けはい」「諸しょ霊れいのお力」とも訳やくすことができてしまいます。

西洋では、霊気はおもに手当ての方法として知られております。手を身体しんたいに添そえる。エネルギーが流ながれる。安らぎが訪おとずれる。誤あやまりではございません。けれども、それは鍵穴かぎあなから大海たいかいを覗のぞくようなもの、と申もうしあげましょうか。

臼井甕男うすいみかおのお墓はかのとなりにある記念碑きねんひ ― 1927年に御弟子おでしの方々によって建立こんりゅうされた碑ひ ― には、驚おどろくべきことが刻きざまれております。この道みちはまず霊性れいせいのお力をひらき、人としての成長せいちょうのためのものである、と。身体しんたいの不調ふちょうへのご用もちいは、お困こまりの方をお支ささえするための、添そえのお働はたらきである、と記しるされているのでございます。

臼井師しのお志こころざし

霊気は、初はじめから霊性れいせいの道でございました。手のお働はたらきは、その一つの姿すがた ― けれども、核かくではございません。核は、誰の内にも息いきづくお力をひらいてゆくこと。瞑想めいそうと伝授でんじゅと日々の実践じっせんが、その扉とびらをひらいてくれるのかもしれません。

霊気はどのように働はたらくのか 氣の流れ

霊気をお伝つたえするとき、何が起おこっているのでございましょう。もっともやさしい表現ひょうげんを申もうしあげますと ― お受うけになる方の身体が、必要なところへとお力を引ひき寄よせます。手をのせる方が選えらぶのではございません。頭あたまが導みちびくのでもございません。身体そのものが、ご自身に必要なものを知っているのでございます。

多くの研究けんきゅうと、また多くの実践者じっせんしゃの方々の体験たいけんから、霊気は深い安やすらぎを運はこんでくることがあると伺うかがっております。安らぎは、ささやかなことではございません ― 身体と心が、ふたたび本来ほんらいの釣つり合いへと戻もどってゆくための土ど壌じょうでございます。緊張きんちょうがほどけ、頭あたまがすっきりと晴はれ、変かわってゆくための場ばがひらかれることがございます。

けれども、霊気は診断しんだんするものではございません。操作そうさするものでもございません。押おし入いることもいたしません。身体の智慧ちえとともに働はたらき、その智慧ちえに逆さからうことはございません。ここが、ほかの多くの方法ほうほうとのもっとも深い違ちがいでございましょう。

根本こんぽんのかたち ― 霊性れいせいの生命のお力は、実践者じっせんしゃがご自身で生うみ出だすものではございません。通とおり抜ぬけてゆくものでございます。実践者じっせんしゃは通路つうろ ― 源みなもとではございません。だからこそ、霊気の伝授でんじゅはそれほどに大切たいせつでございます。伝授でんじゅが、その通路つうろをひらき、生涯しょうがいにわたって開ひらかれたままに保ってまいります。

霊気と瞑想めいそう 瞑想

多くの方がご存ぞんじないこと ― 瞑想めいそうは霊気の実践じっせんの核かくに位置いちするものでございます。お添そえのものではございません。臼井甕男うすいみかおご自身もまた、京都の北きたの鞍馬山くらまやまでの深い瞑想めいそうと修行しゅぎょうを通とおして、霊気のお力にお触ふれになりました。21日間の断食だんじき、観想かんそう、山の上での修行しゅぎょう ― 安らぎのひとときではなく、命いのちを賭とした霊性れいせいの体験たいけんでございました。

もとからの実践じっせんでは、毎朝、毎夕、実践者じっせんしゃが五つの生き方の原則げんそく ― 五戒ごかい 五戒 ― を霊性れいせいの心のなかで唱となえてまいります。ただの気きづきではございません。観想かんそうでございます。一日の歩あるき方が、静しずかに変かわってまいります。

臼井甕男うすいみかおがお伝つたえになった呼吸法こきゅうほう、姿勢しせい、意いのひと点てんへのまとめ方 ― そのすべてが、静しずかに語かたっております。霊気は、ただの手当てではございませんでした、と。初はじめから、身みと心こころとお力を共ともに包つつむ、ひとつの道みちでございました。

正座せいざし、心を内へと向むけよ。長く息を吸すい、長く吐はけ。胸前むなまえにて合掌がっしょうし、朝に夕に、生いき方の原則げんそくを静しずかに唱となえよ。真まことを込こめた実践じっせんを続つづけるならば、清らかにして健すこやかな心が育はぐくまれるであろう。 ― 1927年、臼井甕男・記念碑きねんひの碑文ひぶんより、意いを汲くみて

霊気は、思っているよりずっと古ふるうございます 歴史

臼井甕男うすいみかおは、霊気を創作そうさくなさったのではございません。日本に千年以上のあいだ息いきづいてきたお力を、再ふたたび見出みいだし、ひとつのかたちに整ととのえてくださったのでございます。源流げんりゅうは、四つの流ながれに立たち戻もどります ― 真言の密教みっきょう、修験道しゅげんどう、神道、そしてシャーマニズム的な道教でございます。

霊気の象徴しょうちょうがそれを静しずかに物語ものがたります。日本のさまざまな霊性れいせいの道みちから ― 書、真言しんごん、印いん、仏教の図像ずぞう ― さまざまなものが、ひとつの象徴しょうちょうのなかで結むすばれてまいります。偶然ぐうぜんではございません。日本は、仏教と神道と道教の影響えいきょうが幾いく世せ紀きにもわたって共ともに息いきづいてきた国でございます。霊気の象徴しょうちょうは、その生きた織おり目を、そのままに映うつしております。

臼井うすいの師しは、これらすべての道みちに通つうじておられました。背景はいけいには修験道しゅげんどうと天台の素養そようがおありで、武家ぶけの家いえに生まれた学がくの人でもいらっしゃいました。気功きこう、道教の修法しゅほう、仏教の儀礼ぎれいのお智慧 ― そのすべてを研とがれました。鞍馬山でお体験たいけんになった瞬間しゅんかんは、それらの糸いとが一つに結むすばれた瞬間しゅんかんでございました。

鞍馬山そのものは、いかがでございましょう。天狗てんぐの山として名高なだかく ― 日本の伝統において、武ぶと霊性れいせいのお修おさめの師しとして仰あおがれてきた不思議ふしぎな方々かたがたでございます。忍術の者ものたちが修おさめを深めた山としても知られております。臼井甕男うすいみかおがお瞑想めいそうになったのは、ただの山ではございません。日本の霊性れいせいのいくつもの流ながれが、静しずかに交まじわる場でございました。

子どもの手は、もう知しっております 自然

子どもが肘ひじをぶつけたとき、すぐに手をあてます。誰かが悲かなしんでいるとき、私たちは肩かたに手を添そえます。身体しんたいに手を当あてる ― これは神秘的しんぴてきな概念がいねんではございません。人がもっとも古くから知っている身振みぶりのひとつでございます。

霊気は、その自然しぜんな身振みぶりを、ひとつの意識的いしきてきな実践じっせんへと育そだててまいります。感かんじる感覚かんかくを研とぎ澄すまします。ご自身の体温たいおんよりも深いお力への通路つうろをひらきます。そして、象徴しょうちょう、真言しんごん、瞑想めいそうといった道具どうぐを、実践者じっせんしゃのお手のなかに託たくします。結むすびをいっそう深めるために。

美しいことに、その道具どうぐは常つねにお手元にございます ― 掌てのひらそのもの。機械きかいもいりません。お薬くすりもいりません。お約束やくそくの時間じかんもいりません。霊気はどこででも実践じっせんすることができます ― ご自身のため、他の方かたのため、人生のあらゆる場面で。

霊気の言葉のお読よみ 発音

日本語は音節おんせつのことばでございます。子音しいんのあとに、必ず母音ぼいんが続つづきます。アクセントを置かず、ほぼ平らにお読よみするのが本来ほんらいのかたち。長音記号ちょうおんきごうのついた母音ぼいん(â、ū、ō)では、音おとを少しだけ長ながめにのばします。

霊気の ei は、ドイツ語の Ei(タマゴ)のようには読よまれません。長い eei として ― i は e をのばす役やくを担にない、末尾まつびにほんの少しだけ i の余韻よいんが残のこるような調しらべでございます。

霊気 Reiki Reei-Ki
直霊 Choku Rei Tscho-ku Reei
性癖 Sei Heki Seei Häki
本者是正念 Hon Sha Ze Shō Nen Hon Scha See Schoo Nen
大光明 Dai Kō Myō Dai Koo Mjoo
合掌 Gasshō Gas-schoo
発霊法 Hatsu Rei-Hō Hatsu Reei-Hoo
五戒 Gokai Go-kai

ひと言こと ― shi はドイツ語の Schildkröte の「シ」のように。chi は英語えいごの chicken のように。そして tsu はドイツ語の zu Hause の「ツ」のように、お読よみになるとよろしいかと存じます。

安らぎの先にあるもの 目覚め

多くの方が、安らぎを求もとめて霊気の扉とびらを叩たたかれます。美うつくしいことでございます。安らぎは大切たいせつな恵めぐみでございます。けれども、もしその奥おくに何かがあるとお感かんじになるなら ― ふとした気配けはい、説明せつめいのつかない感かんじ取り、静しずかな予感よかんのようなもの ― それは、より大きな何かの始はじまりに立たっていらっしゃる合図あいずなのかもしれません。

臼井甕男うすいみかおは、それをご存ぞんじでいらっしゃいました。だからこそ、霊性れいせいのお力をひらくことを、真まっ先さきに掲かかげられたのでございます。お困こまりごとへのご用もちいではなく、安らぎでもなく ― 誰の内うちにも息いきづくものを、静しずかにひらいてゆくこと。それが本意ほんいでございました。

霊気は、ひとつの道みちでございます。消費しょうひして脇わきへ置く商品しょうひんではございません。お歩あゆみになるたびに、共に深まってゆく実践じっせんでございます。

心の奥おくへ

子どもの頃ころに感かんじていらっしゃったもの ― あれは、本当のことでございました。抑おさえていらっしゃったかもしれない、その感かんじ取る力 ― まだそこに、静しずかに息いきづいているのかもしれません。霊気は、その感かんじ取りに、ひとつの器うつわと、ひとつの実践じっせんと、千年を超こえる伝統を静しずかに差さし出だします。

次の一歩いっぽ

真言霊気と出会う

真言霊気は、古典的こてんてきな霊気を、真言密教みっきょうの伝授でんじゅと実践じっせんと結むすびます。瞑想めいそうもまた、歩あゆみの一つの姿すがたでございます。段階だんかいごとに、直接ちょくせつのお伝つたえのなかで扉とびらがひらかれてまいります。

真言霊気とは 心の道