
霊気(れいき)。二つの音。多くの方が、手当てや安らぎを思い浮かべる言葉でございます。癒しの世界として。あるいは、はっきりとは掴みきれない、何か神秘的なものとして。
けれども、それが表面のひと皺に過ぎないとしたら ― いかがでございましょう。
この二音の奥に、古代中国までさかのぼる物語が息づいているとしたら。呪のために刻まれた文字、書くためではなく、お呼びするための文字 ― そんな儀礼から伝わってきた物語があるとしたら。靈氣という漢字そのものが、ほとんどの方には隠れたままになっている消息を携えているとしたら、いかがでございましょう。
私は日本で三年間研究を重ね、真言・天台・禅のお寺で実践させていただき、四国八十八ヶ所のお遍路を徒歩で巡り、霊気の源流について博士論文を書かせていただきました。日本語と中国語の原典のなかから見えてきたのは、西洋に伝わっている物語とは少し違うお話でございました。
雨の中の、ひとりの巫女から始まる物語でございます。
漢字のかたち 靈氣
霊気というお名前は、二つの漢字から成り立っております ― 靈(れい)と 氣(き)。合わせて、霊性の生命のお力を表します。
けれども、その訳はほんの入口に過ぎません。一字一字が、それぞれに自らの物語を携えております ― 千年の時のなかで育ってきた、絵のような物語を。そして、その絵が、現代のどんな定義よりも、霊気の本質を静かに語りかけてまいります。
靈 ― 雨の中の巫女
靈は、雨乞いの呪を象る、もっとも古い文字のひとつでございます。日本の字書では、雨を祈る巫女として説き明かされております。上部の横線の下にある四つの点は、雨つぶをたたえた雲。その下には、口の文字が三つ。一つの口は言葉。二つの口は会話。三つの口は祈りでございます。
そしていちばん下に、巫女の姿。二人の人が大地に触れ、そこから力を頂くかたちでございます。霊気と古のシャーマニズムの結び目が、ここに静かに現れます ― 西洋の解説では、ほとんど触れられることのなかった、生きた結び目でございます。
雨は、ただの水ではございません。天から大地へと降る恵みでございます。お力は人の中で生まれるのではなく、人を通して流れるもの、ということでございましょう。
氣 ― 生命の芽
氣は、生命のお力をあらわす、もっとも古い字でございます。二つの部分から成っております ― 上の湾曲した線は、ただ「エネルギー」をあらわす古い象形。何と組み合わせるかで、その性質が変わってまいります。エネルギーと水蒸気を合わせれば、蒸気機関のお力。エネルギーと電を合わせれば、電気でございます。
氣の場合、エネルギーの下にあるのは米粒の象形。東アジアの米は、生命そのものではなく、生命の芽の象徴でございます。エネルギーと、生命の芽 ― 生命のお力でございます。
靈氣 ― 巫女が祈り、天の恵みがお力となって自らを通し大地へと流れる。生命の芽と結ばれて。これが霊気でございます ― 霊性の生命のお力。
漢字の源流 文字の起源
霊気の漢字は、日本生まれではございません。中国 ― それも道教の世界から渡ってまいりました。多くの方が易経を通してご存じの哲学的な道教ではなく、シャーマニズム的・呪術的な道教でございます ― 風水、気功、中医学と同じ母なる流れでございます。
中国の文字は、もともと言葉を書くために育まれたのではございません。古のシャーマニズムの儀礼のために誕生いたしました。一字一字が、亀の甲や骨に刻まれ、地図と占いの問いと共に火にかけられました。裂けたところに顕れる線を、シャーマンが読み解いたのでございます。
一字一字が、絵でございました。山。川。人。天。地。象徴であり、抽象的な記号ではございません。そして、その絵のような力は、今日まで字のなかに息づいております。霊気の漢字も、また同じでございます。
霊気の象徴もまた、ただの図形ではございません。千年を超える伝統のなかに立ち、その伝統の奥から働きを携えてまいります。正しく用いられたとき、はじめてそのお力は顕れます。だからこそ、伝授がそれほど大切でございます。直接のお伝えがなければ、象徴はただ静かに眠ったままになるのかもしれません。
霊気の本意 靈氣とは何か
臼井甕男がお伝えになった方法の正式なお名前は、臼井霊気療法 臼井靈氣療法でございます ― 「臼井師による、霊性の生命のお力をもちいた、自然のひらきの道」。この正式名がなければ、霊気の二字は「神秘的な気配」「諸霊のお力」とも訳すことができてしまいます。
西洋では、霊気はおもに手当ての方法として知られております。手を身体に添える。エネルギーが流れる。安らぎが訪れる。誤りではございません。けれども、それは鍵穴から大海を覗くようなもの、と申しあげましょうか。
臼井甕男のお墓のとなりにある記念碑 ― 1927年に御弟子の方々によって建立された碑 ― には、驚くべきことが刻まれております。この道はまず霊性のお力をひらき、人としての成長のためのものである、と。身体の不調へのご用いは、お困りの方をお支えするための、添えのお働きである、と記されているのでございます。
霊気は、初めから霊性の道でございました。手のお働きは、その一つの姿 ― けれども、核ではございません。核は、誰の内にも息づくお力をひらいてゆくこと。瞑想と伝授と日々の実践が、その扉をひらいてくれるのかもしれません。
霊気はどのように働くのか 氣の流れ
霊気をお伝えするとき、何が起こっているのでございましょう。もっともやさしい表現を申しあげますと ― お受けになる方の身体が、必要なところへとお力を引き寄せます。手をのせる方が選ぶのではございません。頭が導くのでもございません。身体そのものが、ご自身に必要なものを知っているのでございます。
多くの研究と、また多くの実践者の方々の体験から、霊気は深い安らぎを運んでくることがあると伺っております。安らぎは、ささやかなことではございません ― 身体と心が、ふたたび本来の釣り合いへと戻ってゆくための土壌でございます。緊張がほどけ、頭がすっきりと晴れ、変わってゆくための場がひらかれることがございます。
けれども、霊気は診断するものではございません。操作するものでもございません。押し入ることもいたしません。身体の智慧とともに働き、その智慧に逆らうことはございません。ここが、ほかの多くの方法とのもっとも深い違いでございましょう。
根本のかたち ― 霊性の生命のお力は、実践者がご自身で生み出すものではございません。通り抜けてゆくものでございます。実践者は通路 ― 源ではございません。だからこそ、霊気の伝授はそれほどに大切でございます。伝授が、その通路をひらき、生涯にわたって開かれたままに保ってまいります。
霊気と瞑想 瞑想
多くの方がご存じないこと ― 瞑想は霊気の実践の核に位置するものでございます。お添えのものではございません。臼井甕男ご自身もまた、京都の北の鞍馬山での深い瞑想と修行を通して、霊気のお力にお触れになりました。21日間の断食、観想、山の上での修行 ― 安らぎのひとときではなく、命を賭した霊性の体験でございました。
もとからの実践では、毎朝、毎夕、実践者が五つの生き方の原則 ― 五戒 五戒 ― を霊性の心のなかで唱えてまいります。ただの気づきではございません。観想でございます。一日の歩き方が、静かに変わってまいります。
臼井甕男がお伝えになった呼吸法、姿勢、意のひと点へのまとめ方 ― そのすべてが、静かに語っております。霊気は、ただの手当てではございませんでした、と。初めから、身と心とお力を共に包む、ひとつの道でございました。
霊気は、思っているよりずっと古うございます 歴史
臼井甕男は、霊気を創作なさったのではございません。日本に千年以上のあいだ息づいてきたお力を、再び見出し、ひとつのかたちに整えてくださったのでございます。源流は、四つの流れに立ち戻ります ― 真言の密教、修験道、神道、そしてシャーマニズム的な道教でございます。
霊気の象徴がそれを静かに物語ります。日本のさまざまな霊性の道から ― 書、真言、印、仏教の図像 ― さまざまなものが、ひとつの象徴のなかで結ばれてまいります。偶然ではございません。日本は、仏教と神道と道教の影響が幾世紀にもわたって共に息づいてきた国でございます。霊気の象徴は、その生きた織り目を、そのままに映しております。
臼井の師は、これらすべての道に通じておられました。背景には修験道と天台の素養がおありで、武家の家に生まれた学の人でもいらっしゃいました。気功、道教の修法、仏教の儀礼のお智慧 ― そのすべてを研がれました。鞍馬山でお体験になった瞬間は、それらの糸が一つに結ばれた瞬間でございました。
鞍馬山そのものは、いかがでございましょう。天狗の山として名高く ― 日本の伝統において、武と霊性のお修めの師として仰がれてきた不思議な方々でございます。忍術の者たちが修めを深めた山としても知られております。臼井甕男がお瞑想になったのは、ただの山ではございません。日本の霊性のいくつもの流れが、静かに交わる場でございました。
子どもの手は、もう知っております 自然
子どもが肘をぶつけたとき、すぐに手をあてます。誰かが悲しんでいるとき、私たちは肩に手を添えます。身体に手を当てる ― これは神秘的な概念ではございません。人がもっとも古くから知っている身振りのひとつでございます。
霊気は、その自然な身振りを、ひとつの意識的な実践へと育ててまいります。感じる感覚を研ぎ澄まします。ご自身の体温よりも深いお力への通路をひらきます。そして、象徴、真言、瞑想といった道具を、実践者のお手のなかに託します。結びをいっそう深めるために。
美しいことに、その道具は常にお手元にございます ― 掌そのもの。機械もいりません。お薬もいりません。お約束の時間もいりません。霊気はどこででも実践することができます ― ご自身のため、他の方のため、人生のあらゆる場面で。
霊気の言葉のお読み 発音
日本語は音節のことばでございます。子音のあとに、必ず母音が続きます。アクセントを置かず、ほぼ平らにお読みするのが本来のかたち。長音記号のついた母音(â、ū、ō)では、音を少しだけ長めにのばします。
霊気の ei は、ドイツ語の Ei(タマゴ)のようには読まれません。長い eei として ― i は e をのばす役を担い、末尾にほんの少しだけ i の余韻が残るような調べでございます。
ひと言 ― shi はドイツ語の Schildkröte の「シ」のように。chi は英語の chicken のように。そして tsu はドイツ語の zu Hause の「ツ」のように、お読みになるとよろしいかと存じます。
安らぎの先にあるもの 目覚め
多くの方が、安らぎを求めて霊気の扉を叩かれます。美しいことでございます。安らぎは大切な恵みでございます。けれども、もしその奥に何かがあるとお感じになるなら ― ふとした気配、説明のつかない感じ取り、静かな予感のようなもの ― それは、より大きな何かの始まりに立っていらっしゃる合図なのかもしれません。
臼井甕男は、それをご存じでいらっしゃいました。だからこそ、霊性のお力をひらくことを、真っ先に掲げられたのでございます。お困りごとへのご用いではなく、安らぎでもなく ― 誰の内にも息づくものを、静かにひらいてゆくこと。それが本意でございました。
霊気は、ひとつの道でございます。消費して脇へ置く商品ではございません。お歩みになるたびに、共に深まってゆく実践でございます。
子どもの頃に感じていらっしゃったもの ― あれは、本当のことでございました。抑えていらっしゃったかもしれない、その感じ取る力 ― まだそこに、静かに息づいているのかもしれません。霊気は、その感じ取りに、ひとつの器と、ひとつの実践と、千年を超える伝統を静かに差し出します。