やまへとる一人のひとを、おおもかべくださいませ。しょくたれ、瞑想めいそうなさり、さむさ、かぜあめ四大しだいゆだねられます。幾日いくにちも。幾週間いくしゅうかんも。なにかがくだけるまで。それまでじておりましたなにかがひらくまで。ご自身ではつくられなかった、けれどももとからえてゆく力が、ご自身をとおってながれるまで。

これは鞍馬山くらまやまでの臼井甕男うすいみかお先生せんせいのおはなしでございます。けれども、それは先生に先立さきだ幾千いくせんもの山伏やまぶしのお話でもございます。臼井先生がそこでなさったことは、ご個人こじん発明はつめいではございません。かたでございました ― 日本の山々において、すくなくとも一せん五百ごひゃくねんにわたってつづけられてまいりました、ふるい型でございます。この型にはがございます ― 修験道しゅげんどう

鞍馬山での木の前の瞑想 ― 神との結び
鞍馬くらま · まえ瞑想めいそう

修験道とは何でございますか 修験道

修験道
修験道しゅげんどう 修験道 ― 「しゅうめてげんみち」でございます。三つの字が、ひとつの世界せかいあらわしております。おさめ、ぐこと。体験たいけんこころみ、たしかなるあかし ― ご自身のけ取られるものでございます。 は道。わせて、実践じっせんそのものがあかしとなる道でございます。しんずるのではなく。ろんずるのでもなく。体験でございます。

修験道は日本でもっともふる融合ゆうごうの霊的伝統でんとうでございます。そこにはともながむものがございます ― 仏教以前いぜんの日本に存在そんざいしておりましたシャーマニズムの実践じっせん中国ちゅうごくからわたってまいりました道教どうきょう技法ぎほう。山々やたきもり宿やどかみうやま神道しんとう。天台と真言の密教みっきょう。そして、日本の文化ぶんかそのものとおなじほどにふる山岳さんがく信仰しんこうでございます。

修験道を実践される方々は山伏やまぶし 山伏ばれます ― 文字どおり「山にもの」でございます。平地へいちでは不可能ふかのうなことを実践するために山にはいられます ― 自然しぜんと、おのと、ひと意志いしえてはたらく力との、完全かんぜん対面たいめんのために。

山伏 ― 境界きょうかいに立つ行者ぎょうじゃ 山伏

山伏は古典的こてんてき意味いみでのそうではございません。てらかべのなかにまわれません。山伏のおてらは山でございます。実践は四大しだいとの対面たいめんでございます。こおるような滝のしたに立たれ、身体がふるえるのをめるまで、そしてべつなにかがはじまるまで。ほそ稜線りょうせんあるかれます ― ひとつのあやまちがいのち意味いみするところを。どうのなかで断食だんじきなさいます ― くらさと静寂せいじゃくつつまれて、うちそとさかいけてまいるまで。

極端きょくたんこえます。たしかに極端でございます。けれども、論理ろんりがございます。山伏のご実践は、ひとつのづきにもとづいております ― 普段ふだんの心、つまり計画けいかくし、制御せいぎょし、分析ぶんせきする心が、さまたげとなりるということ。特定とくていの霊的体験は、その制御の心が降参こうさんするときにのみ可能かのうとなってまいります。身体が限界げんかいいたったとき。ひとがご自身を支配しはいすることをやめ、おのよりおおきいものにゆだねられたとき。

中心の思い

修験道において山は背景はいけいではございません ― 山そのものが実践でございます。自然そのものが伝授でんじゅなさる方となるのでございます。たきさむさ、たかさ、くらさ ― これらは克服こくふくすべき障害しょうがいではございません。実践なさる方の準備じゅんびととのったときにひらかれてまいるもんでございます。

山伏は伝統でんとう装束しょうぞくまとわれました ― しろころもちいさきくろ頭巾ときん(頭巾)、法螺貝ほらがい(法螺貝) ― そのが山々にひびわたります。そして、わたくしどもの文脈ぶんみゃくにおいてとくに大切たいせつな実践をなさいました ― 九字切くじきりでございます。

九字切くじきり ― 山伏のご実践のご核心かくしん 九字切

九つのおん。九つの印契いんげいくうる九つのれ。九字切り 九字切 は修験道のもっともられた実践のひとつであり、また、もっとも誤解ごかいされる実践のひとつでもございます。西洋せいようでは、とくにアニメをつうじて知られております ― そこではにんじゅつとして描かれます。けれども、まことには、九字切りは修験道、密教みっきょう、神道、シャーマニズム的道教どうきょう交差こうさからまれた儀礼ぎれいのご実践でございます。

山伏は山にはいる前に九字切りをしゅうされました ― 守りの儀礼ぎれいとして、霊的な力のましとして、神々やほとけの守護の諸尊しょそんとのむすびとして。九つの音 ― りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん ― はたんなる言葉ではございません。力のにない手でございます。一つひとつの音が、実践なさる方をある霊的な質と、ある守護の御方おんかたと、ある現実げんじつ次元じげんむすんでまいります。

九字
九字くじ 九字 ― 「九つの字」でございます。九字の九つの音は、日本の中世ちゅうせい発明はつめいではございません。そのは中国のシャーマニズム的道教にまでさかのぼります。そこから密教の仏教へとれられ、日本にもたらされ、修験道のなかでの神道とシャーマニズムの要素ようそむすばれてまいりました。山伏はそこからきた実践をかたちづくられました ― 臼井先生がごぞんじであった実践でございます。

霊気とのむすびはあきらかでございます ― と同時に、西洋せいようでんえにおいてはほとんどえなくなっております。臼井先生は、九字切りがたりまえであった世界せかいからおいでになりました。印契いんげい真言しんごんたばねる儀礼ぎれい ― 全てがその方の霊的な風景ふうけいの一でございました。鞍馬山において、印と象徴を通じてみちびく実践をそだてられたのは、偶然ぐうぜんではございません。修験道と天台へのざしの自然しぜん結実けつじつでございます。

型 ― 退たいしゅうかい

鞍馬山で臼井先生がなさったこと ― 断食、瞑想、四大に身を委ね、変容へんようの体験がおとずれるまで ― は、単独たんどく出来事できごとではございません。修験道のなかでいく世紀せいきにもわたってつづけられてまいりました型でございます。山伏はそれを 入峰にゅうぶ 入峰 ― 「みねる」 ― とばれます。さだまったかた沿ってはこばれる実践でございます。

まず、日々の世からの退しりぞき。次に、実践のつよまり ― 食をらし、ねむりを減らし、瞑想をやし、四大との対面をやしてまいります。それから、危機きき ― 身体と心が限界げんかいいた地点ちてん。そして最後さいごに、ほかの全てがちてしまったとき ― 開け。すべてを変える体験。個人こじんの意志をえてはたらく力との出会であいでございます。

「鞍馬山での臼井先生のご体験は、修験道をごぞんじの方にとってはなぞではございません。山岳行の古典的こてんてきな型 ― 退しりぞき、修練、開け ― でございます。臼井先生がご体験になりましたものを、山伏たちは ― 一せん余年よねんにわたって ― ご体験になってこられました。ちがうところは、臼井先生がそのご体験をつたえるみちつけられたところでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

これは、臼井先生のご体験がかろんじられるという意味いみではございません。むしろ反対はんたいでございます。それが文脈ぶんみゃくのなかにあるという意味いみでございます ― そのような体験が可能かのうとなるみちをごぞんじであった伝統でんとうのなかに。臼井先生は盲目的もうもくてきに山に入られたのではございません。ごぞんじのみちしたがわれたのでございます。実践をご存じでございました。伝統をご存じでございました。そして、それを最後さいごまで歩む勇気ゆうきっておられました。

修験道と霊気のみなもと

修験道は、西洋の霊気の世界においてただしくわれることの少ないいへのかぎでございます ― 霊気は本当ほんとうのところ、どこからたのか。通常つうじょうこたえ ― 「臼井先生は鞍馬山にてけ取られた」 ― はただしゅうございますが、不完全ふかんぜんでございます。なぜ鞍馬山におもむかれたのかをかたりません。どの伝統にしたがわれたのかを語りません。霊気のご実践がどのいずみからみずいているのかも語りません。

より完全かんぜんこたえ ― 霊気はいくつかの伝統の交差こうさからまれてまいりました。修験道 ― その山岳行、守りの儀礼、九字切りとともに。天台 ― その台密たいみつ法華経ほけきょう入我我入にゅうががにゅうとともに。真言 ― その悉曇しったん曼荼羅まんだら、真言とともに。神道 ― その神々、言霊ことだまみそぎとともに。そしてシャーマニズム的道教どうきょう ― その技法ぎほう護符ごふ、力の伝達でんたつ方法ほうほうとともに。

臼井先生はこれらの伝統を「発明はつめい」されたわけではございません。たばねられたのでございます。ご自身がご存じであり実践なさいましたもろもろながれから、あたらしいものを ― これら全ての伝統の本質ほんしつうち宿やどしつつも、よりけ取りやすいかたちのものを ― おつくりになりました。それが先生の業績ぎょうせきでございます。新しいものの発明ではなく、古いものの総合そうごうを、きたものとしておかたちづくられたのでございます。

ご視点の転換

霊気は、1922年にから突如とつじょまれた孤立こりつした方法ほうほうではございません。古いじゅのもっともあたらしいえだでございます ― その樹のは、シャーマニズム的道教どうきょう、密教の仏教、修験道、神道へとさかのぼります。をごぞんじの方は、はな理解りかいされるのでございます。

役行者えんのぎょうじゃ ― 修験道のおひら役行者

修験道の伝統は七世紀せいきにまでさかのぼります。その伝説でんせつのおひらきは役行者えんのぎょうじゃ 役行者 ― 「えんぎょうずるもの」 ― でございます。なか神話しんわの山岳行者であり、つたえによればちょう人間的にんげんてきな力をおそだてになりました ― 飛行ひこう遠隔えんかくはたらき、自然しぜんれいぎょされる力。伝説でんせつのもとになりました歴史的れきしてきかたは、おそらく七世紀に紀伊きい半島はんとうの山々において実践なさいました役小角えんのおづぬという山岳行者であったとされております。

役行者は修験道の伝統において手本てほんとしてうやまわれております ― 霊的な力はほんのなかではなく、直接ちょくせつの実践のなか、自然との直接ちょくせつの対面のなか、きわみをあゆむことのなかにあるとしめされた方として。そのお話には、臼井先生のお話とおならせがございます ― 力はろんじて理解りかいされるものではない。体験されるものでございます。

その並行へいこう表面的ひょうめんてきなものではございません。役行者と臼井甕男先生は、同じ系譜けいふのなかに立つ方々でございます ― 道連みちづれや後継者こうけいしゃとしてではなく、同じ道をあゆまれた方々かたがたとして ― 山への道、修練しゅうれんとおる道、開けへの道として。お二方とも、ほかの方々の心にれ、えてゆくものをかえられました。

霊的な風景ふうけいとしての山々

西洋において、山は風景ふうけいでございます。日本において、山は実践でございます。日本のあらゆるおおきい山が、霊的なでございます ― 神々のまわれる、行者のおとずれる場、巡礼じゅんれいの方々のあゆまれる場でございます。山々は霊性の背景はいけいではございません。山々が霊性そのものでございます。日本の山岳さんがく信仰しんこうは仏教よりふるく、組織そしきされた宗教しゅうきょうとしての神道よりも古うございます。日本の文化のシャーマニズム的なにまでさかのぼります。

鞍馬山くらまやまはこの伝統のなかに立っております。たかい山ではございません ― ちょうど584メートル。けれども、古い山でございます。鞍馬山への崇敬すうけいは一せん余年よねんにわたります。そのいただきには天台のお寺がございました。そのみちには山伏があゆみをはこばれました。そのもりのなかでは行者ぎょうじゃが瞑想されました。臼井先生はどこか適当てきとうな山をおえらびになったのではございません。いく世紀せいきにもわたって霊的な力の場としてられたをお選びになったのでございます。

「日本においては、なぜ臼井先生が鞍馬山におもむかれたのか、直観的ちょっかんてき理解りかいされてまいります。山々は人間のと霊的な世とのさかいうすくなるでございます。そこで実践なさる方は、お一人で実践なさるのではございません。場の力そのものがともはたらくのでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

これがご自身の実践にとって何を意味いみするか

修験道は、すべての霊気のご実践にとって大切たいせつなことをしめしております ― もっともふかい体験はあたまからはまいりません。身体から、対面から、ご自身の意志をえるものに身をゆだねるそなえから来てまいるのでございます。

これは、山に入って断食をなさる必要があるという意味いみではございません。けれども、姿勢しせい大切たいせつであるという意味でございます。山伏の姿勢は業績ぎょうせきではございません ― ほうじることでございます。「おのがやる」ではなく ― 「ゆだねる」でございます。そして、まさにこの姿勢こそが、霊気を可能かのうにする姿勢でもございます。努力どりょくではございません。技術ぎじゅつではございません。たろうとするものへのひらかれでございます。

つぎに手をかれて、ご自身をとおってながれる力をかんじられる折には、こうご承知しょうちくださいませ ― ご自身は、臼井先生をさかのぼり、山伏たちへ、役行者へ、そして「霊気」という言葉が存在そんざいするはるか前に日本のもりのなかで実践なさいました古き行者たちへとつながる系譜けいふのなかに立っておられます。ご自身がかんじておられる力には歴史れきしがございます。そして、その歴史は山々へとつながっております。

真言霊気のなかにおいて、このむすびは意識的いしきてきたもたれております。修験道は歴史れきし付録ふろくではなく、ご実践をやしなきたいずみでございます。よりふかあゆみたいとおかんじになる方は、伝授でんじゅのなかに、また 九字切りのご実践 のなかに、山伏のみちへのじかぐちつけられることでございましょう。

山々の力にれる

真言霊気のなかのみち

九字切り、山岳行、生きた伝統 ― 真言霊気はみなもとへとおみちびきいたします。ご自身にぐちをおたしかめくださいませ。

心の道 九字切り