臼井先生御墓誌 · 東京・西方寺
東京・西方寺の境内に、ひとつの石が立っております。— 大きくはございません。— けれども、その石には、臼井甕男先生について、私どもが直に知ることのできるすべてが記されております。— 1927年(昭和2年)、臼井先生がお亡くなりになって一年、親しき御弟子方によって記された碑文。— 仏教の経典のお言葉づかいで、専門用語と歴史の鍵となるお言葉と、奥に潜む意味のお層とで、深く編まれております。
ここに、その完訳をお届けいたします。— 原文、ローマ字、そして注解 — 一節ずつ、静かに紐解いてまいりましょう。
碑文の題碑文
靈法肇祖臼井先生功徳之碑
Reihō Chōso Usui Sensei Kudoku no Hi
霊性のお業の始まりとなられた、臼井先生の功徳を偲ぶ碑。
お題からして、すでに多くを物語っております。— 霊法 靈法、霊性のお業。肇祖 肇祖、最初のお系譜の創始者。功徳 功徳、仏教における功と徳。— このお言葉づかいは、臼井先生を、古の偉大な霊性の御方々の列に静かに並べております。
真の師とは何かを徳
修養練磨ノ實ヲ積ミテ中ニ得る所アルヲ之ヲ徳と謂ヒ
Shūyō renma no jitsu wo tsumite naka ni eru tokoro aru wo kore wo toku to ihi
修養練磨の實を積みて、中に得る所あるを、これを徳と謂ふ。 — 内なる豊かさは、まことの精神のお修めを積み重ねるとき、おのずからお到りになる、と申します。
開導拯濟丿道ヲ弘メテ外ニ施ス所アルヲ之ヲ功ト謂フ
Kaidō jōsai no michi wo hiromete soto ni hodokosu tokoro aru wo kore wo isaoshi to ifu
功のお業とは、開導拯濟 — お導きと、苦しみを幸せへと変えるお働きの道を弘め、人々のなかにお施しになることを謂うのでございます。
功高ク徳大ニシテ始メテ一大宗師タルコトヲ得ヘシ
Kō takaku toku dai ni shite hajimete ichidai shūshi taru koto wo eru heshi
功高く徳大にして、はじめて一大宗師 — 一世代を導く真のお師たることを得らるるのでございます。
碑文は、臼井先生の御伝記からではなく、— 師とは何か、というご本質のお問いから始まります。— これは偶然ではございません。— この一節こそ、碑文ぜんたいの視座でございます。— 臼井先生は、まさにこの「真の師」のかたちを生きられた御方として、お示しになっているのでございます。
臼井先生のご出自とお人柄人物
先生通称甕男號は暁帆岐阜縣山縣郡谷合村の人
Sensei tsūshō Mikao, gō wa Gyōhan, Gifu-ken, Yamagata-gun, Taniai-mura no hito
先生のお呼び名は甕男、戒名は行伴。— 岐阜県山県郡谷合村のお生まれでいらっしゃいます。
行伴 行伴 — 「暁に掲げる帆」。仏門にお入りの折に授かられた戒名でございます。— 夜の闇を越え、決して歩みを止めぬ御方を、そっと映すお名前。
碑文は、臼井先生のお人柄を、古の偉大なお師匠さまの仏教的な肖像を思わせるご清らかさで描いております。— ご謙虚で、お柔らかなお心、いつもほほえみのご表情。お外見にはお頓着なさらず、しかしご偉いお身体つきの御方でいらっしゃいました。— 何かにご注意を向けられるとき、内なる強さ、ご忍耐、そして細やかなご準備のお力をお示しになりました。
その知のお広がりは、まこと類まれなものでいらっしゃいました。— 医学のご専門書、仏教の経典、心理学、超能力をお持ちの仙人方の道のお修法、お呪いの解きや霊力のお業、お占い、人相のお見立て。— 碑文は明確に申しております。— 「お知りでないものは、何ひとつなかった」と。
挫折と、お耐えになるお力不屈
既にして世に立つ事志と違に轗軻不遇屢窮約に處りしも毫も屈撓せす
Sude ni shite yo ni tatsu koto kokorozashi to chigau ni kanka fugū shibashiba ni kiwami tsuzumayaka ni kōri shi mo gōmo kuttō sezu
世のうちに、並外れたお業を起こされました。— けれども、それはおのぞみとは違うかたちで進んでまいりました。— たびたび、ご不遇とご侮りの極みをお受けになりましたが、— わずかも、お屈しになりませんでした。
この一節は、碑文の中でも、最も心に触れるお言葉でございます。— 霊気のお業のお到りになる前の臼井先生は、— ご挫折のうちを歩みつづけられた御方でいらっしゃいました。— 碑文はそれを隠しません。— むしろ、強くお掲げております。— なぜなら、まさにこのお耐えになるお力、— 諦めることをお知りにならぬ侍のお魂が、— 鞍馬の山にて、お受け取りになられたものを、お受け取りになりうる器を整えていたのでございますから。
鞍馬の山にての御体験鞍馬
一日鞍馬山に登り食を断ちて苦修辛練すること二十有一日倏ち一大霊気の頭上に感し
Ichinichi Kurama yama ni nobori shoku wo tachite kushu kōren suru koto nijū yū ichinichi tachimachi ichidai reiki no zujō ni kan shi
あるお日、鞍馬の山にお登りになり、食を断たれ、苦修辛練の修法をお修めになりました。— 二十一日目、にわかに、お頭頂に大いなる霊気のお力をお感じになりました。
「頭上」 — 頭のいただき。— 頂きのチャクラに関わるお言葉。— お力は上より降り、先生のお身を貫いて流れ込みました。
豁然として霊気療法を得たり
Katsuzen toshite reiki ryōhō wo etari
豁然として — まこと晴れ渡るお空のごとく、にわかに、霊気のお業の道をお授かりになりました。
豁然 — 「突として」「晴れ渡って」。— 碑文は、段階的な覚めではなく、突然のお開けをお伝えしております。— 何かが、お開きになりました。— その瞬間より、臼井先生は、別のお方となられたのでございます。
臼井先生が真にお意図になっておりましたこと本意
顧ふに霊法の主とする所は獨り疾病を療するに止まらす要は天賦の霊能に困りて心を正しくし身を健にして人生の福祉を享けしむるに在り
この霊性のお業は、ただお悩みやお習いをお支えするだけにとどまるものではございません、と明らかにいたします。— 大切なお所は、— 天賦の霊能 — 生まれながらにお授かりの霊性のお力 — を土台として、霊性のお心をお磨き、お身をお健やかに保ち、お豊かなお暮らしを受け取られる、ということにございます。
ご本意のご順序
この一節こそ、霊気のお業を解く鍵でございます。— まずは、お力(霊能)の育み。次いで、霊性のお展開。それからお身のお健やかさ。そしてようやく、お添えとして — お悩みへのお支え。— 臼井先生は、ご自身のお業を、ウェルネスのお道具としてではなく、ひとつの霊性の道として定めていらっしゃいました。
漢字「霊能」 靈能 — 五つのお感覚を超えるお力 — は、ここでまさに中心となるお言葉でございます。— どなたさまにも、ひそやかに備わるお力。— 霊性の実践によって、そっとお目覚めになります。— そして「天賦」 天賦 — 「天から授かる」 — このお言葉には、天と提婆(デーヴァ)の文字がございます。— 天よりお道とともに渡される、ひとつのお賜物。
関東大震災のさなかに震災
十二年九月大震火災起り…日に出てて市を巡り救療すること幾何なるを知るへからす
大正十二年(1923年)九月、地震と火災のお災いが起こりました。— 夜明けとともに、先生はお出かけになり、市内を巡りて、苦しんでいらっしゃる方々をお救いになりました。— ご褒美をお気になされず、ただひたすらに。
其の急に赴き患を済うこと大率比の如し
苦しみのうちにある人々をお救いになる、そのお業の大いさは、他に並ぶものなきほどでございました。
関東大震災 — マグニチュード7.9、お亡くなりになった方は十四万人余り。— 碑文は、臼井先生のご反応を、ためらいなく記しております。— 夜明けとともにお立ち、ご褒美のことなど何も考えず、お救いになりました。— はかりごとなく、ためらいなく、ただ歩み、なすべきことをなさった、ということでございます。
お伝えのご系譜伝承
先生の門に入る者二千餘人
Sensei no mon ni hairu mono nisen yojin
二千余名のお方々が、先生のもとにてご伝授をお受けになりました。
先生逝くと雖も霊法は永く世に宣播すへし
Sensei yuku to iedomo reihō wa nagaku yo ni senpa subeshi
先生はお逝きになりましたが、— 霊性のお業は、世々のすべての世代に、お道として広まってまいるべし。
碑文は、霊気のお業が、臼井先生のご逝去とともに終わるものではない、と明確にお掲げております。— このお業は、お一人の御方のものではございません。— その御縁をお受け取り、お伝えになる覚悟のあるすべての方々のものでございます。— 親しい御弟子方ご自身が、このお願いを石に刻まれました。— 「ひらかれて、世々にわたって、広まりてゆけ」、と。
碑文を記された方々著者
碑文は、1927年(昭和2年)2月にお記しになりました。— 臼井先生のご逝去から、ようやく一年。— 文章は岡田正之先生によるもので、文学博士、勲三等の位階をお持ちの高位のご学者でいらっしゃいました。— 書(書道)は牛田従三郎先生 — 日本海軍の少将、勲三等の御方によるものでございます。
これは決して、ささいな御方ではございません。— 文学博士のご位の方が文章を担われ、海軍の勲位の方が書を担われたという事実は、— 臼井先生がご当時の日本社会において、いかに高くお敬われていらしたかを、そっと物語っております。— 御墓誌は、ただの私的なお墓ではございません。— 当時の日本のご名望の方々が、臼井先生の御業に敬意を表された、ひとつの公のお記録でございます。
「後のお世代のために、できるだけのことをいたしましたことを願っております。— ご覧になった折に、お心の深きにて触れられ、仰ぎ見られ、心より賛えられ、敬いとともに語られ、声に出して伝えられますように。」
御墓誌の碑文の結びの一文(1927年) — マーク・ホサック博士訳
百年ののちにも、私どもはこのお言葉を拝しております。— そして、御弟子方がそっとお願いになった触れの気配は、— 今もなお、ここに息づいております。
臼井先生の遺されたお業を、お受け継いで
真言霊気を、ご一緒に。
臼井先生が鞍馬の山にてお授かりになった霊性のお業 — それは、真言霊気のうちに今も生きて息づいております。— ご伝授、瞑想、ご実践。— 臼井先生がお意図になっていらしたとおりに。
臼井甕男とは
五戒について