
五つのお言葉。— 朝に、夕に。— 手を胸の前に合せ、お心を内へとお向けになります。— アファメーションのように、ご自身に言い聞かせるのではございません。— 観想として — その言葉がご自身のうちに何を呼び覚ますか、— ただ静かに、判断を差し挟まずに、見つめてゆくお業でございます。
臼井先生の御訓 — 五戒 五戒 — は、霊気の世のうちで、最もよく引かれる、— けれども最も理解されてはおらぬお言葉のひとつでございます。— ことの素朴さの奥には、深い意味のお層がございます。— 日本語の原文を、漢字ひとつひとつ拝して、はじめて見えてくるものでございます。
ここでは、まさにそれを行ってまいります。
二つの典拠、ひとつのお業二源
臼井先生の五戒には、ふたつの典拠がございます。— ひとつは、よく知られている臼井先生のお写真にお書きになっている御書。— もうひとつは、東京・西方寺の御墓誌の碑文の一節でございます。
いずれにも五戒は記されておりますが、— その長さ、お言葉、深さに違いがございます。— 御書のほうは、ご簡潔です。— ふたつのお題、短いお序、五つの御訓、瞑想のお導き、そして臼井先生のお名。— 御墓誌のほうは、五戒を、より豊かなお背景に置かれており、新たな次元が見えてまいります。
御墓誌は、歴史の鍵となるお言葉を用いており、— 一見ではわからぬ多くの意味のお層がございます。— 日本の文化、歴史、霊性に親しむ方は、これらのお言葉から、習熟のない目には隠れている情報のお層を、読みお取られます。
御書のお題秘法
御書の最初の二行が、お題でございます。— 五戒のお方法とお働きを、明らかにいたしております。
幸せをお招きする秘のお業。漢字「秘」 秘は、ひそやかに隠されたものを指します。— 日々のお修めによって、はじめてその奥のお意味がお開けになります。
無数のお悩みのための霊性の薬。— 万 万は一万 — 無数を象徴するお言葉。— 病 病は、お身、お心、お魂のお悩みすべて。— 靈 靈は霊気と同じ漢字で、形のなきものすべて、霊性すべてを指します。— 薬 薬は薬草。— けれどもここでは、霊性のお働きとしての象徴の薬草として、お心に向けてお働きするものとして、お受け取りいただけたらと存じます。
五戒 — 漢字ひとつひとつ五戒
瞑想のお導き合掌
五戒に続き、御書には、こまやかな瞑想のお導きが記されております。— よく見過ごされてしまうのですが、— まさにこのお導きが、お業の鍵でございます。
朝な夕な、お手を胸の前にて合掌になさってくださいませ。— 朝夕は「お一日のすべて、お夜のすべて」を意味することもございます。— ですから、いつでもお修めいただけます。— 合掌はムドラー — 瞑想のお手のかたちで、日本ではどなたさまもご存じの姿でございます。
ご注意を、霊性の心(おこころ)に向けてくださいませ。— 心はお身の心臓ではございません。— 胸のあたりに位置する、霊性の心でございます。— 念じは、「今」と「霊性の心」のふたつの字から成ります。— 「今、霊性の心へとおいでくださいませ」、と。— 仏教における観想の瞑想へのお呼びかけでございます。
お口にて唱えてくださいませ — 声に出して、はっきりと。— これは、密教の三密 — 身、口、意 — のお導きでございます。— 身は合掌、口は声に出してお唱え、意は心の中の観想。— この三つすべてが、同時にひとつのお業として動きます。
瞑想のお導きは、三密 — 真言宗(真言密教)における身・口・意のお業を、— まさに正確にお映しになっております。— 身は合掌、口は声に出してお唱え、意は心の中の観想。— 臼井先生は、密教のお業のすべての核を、わずかな言葉のうちにお込めになりました。
御墓誌が添えるもの碑文
御墓誌の碑文は、五戒に、ひとつの大切な次元を添えております。— 臼井先生のお業は「お悩みやお習いのお支えのみに限られるべきものではない」と明らかにし、— むしろ、天賦の霊能を土台として、霊性の心をお磨き、お身を健やかにお保ち、お豊かなお暮らしをお受け取られる — そのご本意を掲げております。
御墓誌は、五戒を 修養 修養 — 深い、絶え間なきお修めによってのみお到るお業 — として記しております。— 観想の瞑想と、山々への巡礼が、そこに含まれてまいります。— このお見方では、五戒は道徳のお勧めではございません。— 心を転じてゆく、ひとつの具体のお道具でございます。
また、御墓誌には、お師匠さまのご役目についても、興味深い記述がございます。— 「卑近」 卑近のお言葉を用いて、深い仏教のお知恵を、どなたさまにも親しめるかたちにお整えする、と記されております。— まさにそれを、臼井先生は五戒においてなされました。— 密教のお核を、五つの素朴なお言葉に凝らされたのでございます。
五戒 — エネルギーのお業として氣
五戒のうちには、ひとつの秘めごとが潜んでおります。— 表面的に眺めていては、見えてはまいりません。— ひとつひとつの御訓は、ご自身のエネルギーをお集めになり、お保ちになるお方を、そっと指し示しております。
お怒りになったあとで、すぐにお疲れになるご経験はございませんでしょうか。— ご心配のあとで、お力が抜けるようなお感じはございませんでしょうか。— それは偶然ではございません。— お怒り、ご心配のとき、エネルギーがお漏れになるからでございます。— ご自身、または他のお方にお優しくなき折、何かをお隠しになる折、ご自身を大きくお見せになる折にも、同じことが起こります。— エネルギーは、それらの状態のうちに流れ去り、— 真にお養いになるべきもののために、お力が残らなくなってしまうのでございます。
五戒は、この原理を逆になさいます。— お怒りなく — エネルギーが残ります。ご心配なく — エネルギーが今ここに留まります。感謝 — ご注意を「ある」ことに向けます。業の専心 — エネルギーを霊性のご展開へと向けます。親切 — エネルギーをお外へと開くものの、枯らせはなさいません。
エネルギーは、ご注意のあとを追って流れます。— ご心配のとき、お心はどこにいらっしゃいますでしょうか。— 過去か未来でいらっしゃいます。— そして、エネルギーもそこに行ってしまいます。— 今のこの瞬間ではなく。— 五戒は、エネルギーを「今、ここ」へとお繋ぎ留める、五つのお導きでございます。
ですから、五戒は、まだお元気なうちにお修めになるのが、よろしゅうございます。— すでにお疲れになってからでは、もう一度バランスにお戻りになるのに、より大きなお力が必要になってしまいます。— エネルギーが豊かなうちに、その余りからお汲みになることが、まずもってよろしゅうございます。
多くの方々が誤ってお取りになるところ誤解
五戒は、アファメーションではございません。— ご自身に「すべてはうまくいく」と言い聞かせるためのものではございません。— 観想として、— その言葉をお見つめになり、判断なきままに味わってまいります。— 「今日丈けは — 怒るな」と聴かれたとき、ご自身のうちに何が起こりますでしょうか。— ご抵抗がございますか。— ご安心がございますか。— ひと息の静けさがございますか。— まさにそれが、観想でございます。
五戒は、お説教でもございません。— 臼井先生は、お行儀のよい人々をお育てになりたかったのではございません。— 心を清め、エネルギーをお集めになり、すべての方々に備わる霊能をお目覚めになる、ひとつのお業をお伝えになりたかったのでございます。— 倫理のお働きは、おのずからついてまいります。— 全人をお包むお業の、ひとつのお添えのお働きとして。
また、五戒は一度限りのお業でもございません。— 今日丈けは — 「ただ今日のために」 — それは、毎日新たに、ということ。— お義務のお修めとしてではなく、生きたお出会いとして。— お言葉はお変わりになりません。— けれども、ご自身がお変わりになります。— そして、お言葉のうちに見えてくるものが、お繰り返すごとに深まってまいります。