西洋の霊気では、本質的に道はひとつでございます ― お手をお添えになる、ということ。 お位置はさまざま、お志もさまざまでも、核はいつもひとつでございます。 ― 日本の伝統では、少し違っております。 臼井甕男とそのお弟子たちがお実践になったお働きは、たくさんございます。 西洋では忘れられ、ご存じない方が多く、あるいはお伝えにならなかったお働きでございます。
これらのお働きは、ある日突然生まれたものではございません。 多くは真言、神道、道教、あるいは修験道のお実践のなかに源を持っております。 ― 臼井はそれらをご自身でお作りになったのではなく、静かにひとつの道のなかに結びあわせてくださったのでございます。 真言霊気では、これらのお働きが、本来の深みのままに大切に受け継がれております。

乾浴法 ― 気のお身体の乾き払い 乾浴法
乾 乾 ― 乾く。浴 浴 ― 沐する。法 法 ― 道。 文字通り「乾いた沐浴のお道」 ― 一見不思議に感じられるかもしれませんが、大切な意味がこめられております。 水を使うことなく、気のお身体をお清めになるのでございます。
お働きはやさしく、しっかりとしたものでございます。 平たくしたお手で、お肩から反対側のお腰へと斜めに払うようになでてまいります ― それからお腕を下へ、指先のさらに外まで。お胴を三度、お腕を三度。 ひとなでごとに、ご自身のものではない気がほどけてまいります ― ほかの方の気配、人ごみのなかでの印象、感情の残り。
乾浴には、神道のなかにすぐにわかる姉妹のお働きがございます ― 禊 や 祓 でございます。お身体を 穢れ 穢れ ― 霊性の滞り ― からお清めになります。神道では滝のもとや祝詞を通して、霊気の伝統ではお手を通して行われてまいります。
日本では、乾浴は霊気のセッションの前にも後にもお実践されてまいります。 ― 前にはご自身の気のお身体を整えるために、後にはほかの方の気を持ち帰らないために。 西洋ではこのお働きがほぼ失われており、それゆえ霊気の実践者のなかには、セッションののちにお疲れや感情の重さをお感じになる方が多くいらっしゃいます。
病腺 ― 気の滞りをお感じになる 病腺
病 病 ― 不調和。腺 腺 ― 腺、線。 病腺は、お一人の気のお身体のなかの滞りを、お手でお感じになるお働きでございます。 医療の意味での診断ではなく、お実践のなかで磨かれてゆく、気のお感じでございます。
お感じはさまざまでございます ― ぴりぴり、あたたかさ、つめたさ、脈のような動き、磁のような引き、ときには細かい刺すようなお感じ。 日本の霊気の伝統には、病腺のお感じに五つの段階がございます ― 軽いあたたかさ(温熱)から、強い脈のお感じ(響き)まで。お感じが濃くなりますほど、気の滞りが深くなってまいります。
病腺がほかにない味わいを持っているところは、頭のお働きで動くものではないというところでございます。 お手をお添えになって「何をお感じになっているのだろう」とお考えになるのではございません。 ― お手がほぼひとりでに、滞りのある場へと運ばれてまいります。 意識の下でお働きになるお感じ ― ふと振り返らずとも、後ろに誰かがいらっしゃることがおわかりになる瞬間に似ております。
西洋の霊気では、お手のお位置が標準化されました ― お一人お一人に同じように当てる、固い形でございます。 日本の伝統では、形は始まりの支えであり、目的ではございません。 目的は病腺でございました ― 必要なお場へお手をお運びになるお働き。計画ではなく、お感じに従って。
霊示法 ― お手を直感的にお運びになる 霊示法
霊 霊 ― 霊性のお力。示 示 ― 示す。法 ― 道。 文字通り「霊性がお道をお示しになるお道」 ― お手をご自身のお意志でお動かしになるのではなく、霊気のお力そのものにお運びいただくお働きでございます。 ― 計画もなく、形もなく、ご自身でお導きにならず。
お働きは合掌から始まります。 霊気のお力に、お手を必要な場へお運びくださいと、静かにお願いいたします。 それからお手を合掌のかたちから解き放ち、動くままに任せます。 ― ご自身がお動かしになるのではなく、お力がお動かしくださいます。言葉では難しくお感じになるかもしれませんが、お実践のなかでは、その違いがすぐにお分かりになります。
霊示法には病腺がそなわっていることが欠かせません。 気の滞りをお感じになるお働きがなければ、お手はどこへ動けばよいかをご存じになりません。 ですから、日本の伝統では、霊示法は始めにお稽古になるものではなく、病腺のお感じが確かになってからお歩みになる道でございます。
真言のなかに姉妹のお考えがございます ― 加持 加持 ― 霊性のお力のお伝えでございます。 加持は、お働きをなさる方の意志でお起こりになるのではなく、大日如来のお力と、ひらかれた意識のあいだの共鳴のなかでお働きになります。 ― 霊示法も同じ道理でございます。ご自身がお働きになるのではなく、ご自身がひらかれて、お力がご自身を通してお働きになるのでございます。

邪気切り浄化法 ― 物のお清め 邪気切り浄化法
邪気 邪気 ― 邪な気。切り 切り ― 切る。浄化 浄化 ― お清め。法 ― 道。 このお働きは、物、場所、地を邪な気からお清めになるためのものでございます。 短くするどいお手のお動きで邪な気を切り、その後お物に霊気をお満たしになります。
そのお動きは、剣の振るいに似ております。それは偶然ではございません。 日本の伝統のなかで ― とりわけ神道と修験道では ― 剣はお清めの霊性のお道具として大切にされてまいりました。 不動明王は炎の剣を武器としてではなく、変容のお道具としてお持ちでございます。邪気切り浄化法は、その道理をお手のお働きへとお移しになったものでございます。
お実践のなかで、邪気切り浄化法は、重く感じられるお場にお入りになるとき、受け取られた物の背にある歴史を引き受けたくないとき、瞑想や霊気のセッションの前に場をお清めになりたいときに、お使いになるお働きでございます。 ― 最も実りの多い、そして古くから受け継がれてきたお働きのひとつでございます。
念達法 ― お力と志 念達法
念 念 ― 志、内なるお整え。達 達 ― 達する、お届けする。法 ― 道。 念達法は、霊気のお力と意識のお志を結ぶお働きでございます。 ひとつのお手をお額に、もうひとつをお後頭部にお添えになります。お手のあいだに気の場が結ばれ、そこへ清らかなお志が静かに込められてまいります。
真言では、志のお力は抽象的なお考えではなく、儀礼的な道理でございます ― 三密の三つめ 意密 意密、意のお働きでございます。 身(印)、口(真言)、意(観想)が共に働くとき、お力がまったきかたちでひらかれてまいります。念達法は、まさにこの三つめの場へとお働きかけになります。
凝視法と呼気法 ― お目とお息を通して 凝視法 ・ 呼気法
日本の霊気の伝統がいかに豊かであるかを示す、もう二つのお働きがございます ― 凝視法 凝視法 と 呼気法 呼気法 でございます。
凝視法では、霊気をお手からではなく、お目からお送りになります。 お視線がやわらかく整って、お身体のあるお場に静かにとどまります。 真言のなかには、これに対応するお瞑想がございます ― 月輪観 月輪観。お働きをなさる方が満月のお光を観じ、その光をまっすぐな視線を通してほかの方々へお送りになるお働きでございます。
呼気法では、お息を通してお渡しになります。 霊気のお力を必要な場へとお志しになって、静かに呼き出してまいります。 このお働きは道教のお考えに源を持っております ― お息は 気 気 をはこぶ器でございます。 真言では、お息は 口密 口密、口のお働きの一部でございます。
日本の伝統のなかでは、霊気はひとつのお道具だけのお働きではございません。 お身体のすべての道をお使いになります ― お手、お目、お息、意。 真言の三密 ― 身、口、意 ― が、これらのお働きにそのまま映っております。お手のお働きが身密。お息と真言が口密。志と観想が意密。 ― 共に働いて三密となり、三密こそが真言霊気の土台でございます。
発霊法 ― 整ったお実践 発霊法
発 発 ― 呼び起こす、ひらく。霊 霊 ― 霊性のお力。 発霊法はひとつのお働きではございません ― お清めの乾浴、お息の整えのための浄心呼吸法、お整えのための合掌瞑想、これら幾つかのお働きを結びあわせた、ひとつの流れでございます。 ― 日本では、これを毎日の霊気のお実践の土台とされてまいりました。
お名前そのものに核がございます ― 霊性のお力は作り出すものではなく、呼び起こされる ものでございます。 すでにそこにあるお力です。お実践は、それを覆っているものを静かに取り除き、流れる道をひらくのでございます。 真言のお考えとぴたりと重なります ― 仏のお姿はお得になるものではなく、すでに備わっていらっしゃるものを明らかにすることでございます。
真言霊気では、発霊法は毎朝のお実践としてお勧めしております。 ― 15分から20分。乾浴、お息のお整え、合掌、霊気の五戒。 毎朝。義務としてではなく、道として。 日本のお師匠方は、静かにこのように申されました ― お実践が道でございます。そして道がお実践でございます。