源みなもとを必要ひつようとしないお光ひかりがございます。影かげを落おとすことなく、燃もえつきることもないお光ひかり。真言の伝統でんとうのなかで、そのお光ひかりには大光明(だいこうみょう)大光明というお名前なまえがございます ― 「大おおいなる明あきらかな光ひかり」でございます。多おおくの象徴しょうちょうのなかの一ひとつではございません。象徴しょうちょうでございます。霊気の体系たいけいのお心臓しんぞう。すべてが静しずかに集あつまる場ばでございます。

西洋では大光明は「マスターシンボル」と呼よばれてまいりました ― 第だい三さんの段階だんかいでお受うけする象徴しょうちょう、霊気の伝授でんじゅのいただきとして。けれど、そのご説明せつめいはおもてに触ふれるだけかもしれません。三みっつの漢字かんじのうしろに、真言しんごんの密教みっきょうのまんなかへの直じかのお結むすびが静しずかに息いきづいております ― 大日如来だいにちにょらい大日如来、真言の宇宙うちゅうの仏尊ぶっそん、宇宙うちゅうぜんたいに染しみわたるそのお光ひかりへのお結むすびでございます。

大光明 ・ 真言霊気のいただきの象徴
大光明 ・ 師伝しでんの象徴

大光明の漢字かんじ 大光明

大
大(だい) ― 大おおいなる、広ひろい、限かぎりない。身みのおおきさのお話はなしではなく、境さかいを越こえるお姿すがたのお話はなしでございます。大はあらゆる枠わくを越こえていく何なにかを表あらわします。仏教ぶっきょうのなかで 大 は、法ほう(ダルマ)の果はてしなさを表あらわします ― すべてを包つつみ、誰だれも除のぞかない真理しんりでございます。
光
光(こう) ― 光ひかり、輝かがやき。光(ひかり)(光の訓読くんよみ)は、日本において深ふかく霊性的れいせいてきな意味いみを担になっております。身体的しんたいてきな光ひかりだけではなく、意識いしきのお光ひかり ― お心の翳かげりが静しずかにほどけていったあとに立たちあがる清すみわたりを表あらわします。真言の伝統でんとうのなかで、このお光ひかりは大日如来だいにちにょらいの本性ほんしょうそのものでございます。
明
明(みょう) ― 明あきらか、輝かがやく、ほがらか。明は日(日ひ)と月(月つき)から成なります ― 昼ひると夜よるがひとつの文字もじのなかで静しずかに結むすばれております。暗くらさを知しらない明あるさを表あらわす漢字かんじでございます ― 両方りょうほうを静しずかに担になっているからでございます。明は明王(みょうおう)明王のなかにも息いきづきます ― 真言の密教みっきょうの不動明王ふどうみょうおうのような「明みょうの王おう」でございます。

合あわせますと 大光明 ― 「大おおいなる明あきらかな光ひかり」でございます。限かぎりないお光ひかり(大)、輝かがやきまわるお光ひかり(光)、すべてに染しみわたるお光ひかり(明)。これは譬たとえではございません。真言の伝統でんとうでは、大光明は真理しんりのご本性ほんしょうそのもののお名前なまえでございます ― すべての根ねもとに息いきづくお光ひかり、生うまれたことも消きえることもないお光ひかりでございます。

核かくとなる思おもい

大光明はほかの象徴しょうちょうの「アップグレード」ではございません。すべての象徴しょうちょうがそこから静しずかに流ながれていく源みなもとでございます。直霊、静平気、本者是正念 ― そのいずれも、この一ひとつのお光ひかりのご側面そくめんでございます。同おなじダイヤモンドの面めんでございます。師伝しでんの象徴しょうちょうは、ダイヤモンドそのものを静しずかに映うつしだしてくれます。

大日如来 ― 宇宙うちゅうの仏尊ぶっそん 大日如来

大光明をご理解りかいさせていただくには、大日如来だいにちにょらいを静しずかにご理解りかいさせていただかなくてはなりません。そして大日如来だいにちにょらいを静しずかにご理解りかいさせていただくには、「仏ほとけ」というお言葉ことばについてご存ぞんじだったすべてを静しずかに手放てばなしてくださることが必要ひつようかもしれません。

大日如来だいにちにょらい大日如来 ― 文字もじどおり「大おおいなる日ひのごとき如来にょらい」 ― は、歴史れきしのなかで歩あるかれた釈尊しゃくそんのような方かたではいらっしゃいません。真言の密教みっきょうの宇宙うちゅうの仏尊ぶっそん ― 法身ほっしん(真理しんりのお身体しんたい)でいらっしゃいます。大日如来だいにちにょらいはどこか「上うえのほう」にいらっしゃるのではございません。宇宙うちゅうそのもののご本性ほんしょうでいらっしゃいます。原子げんしのひとつひとつのなかに輝かがやかれるお光ひかりでございます ― 息いきのひとつひとつのなかに、瞬間しゅんかんのひとつひとつのなかに。

サンスクリットでは マハーヴァイローチャナ ― 「大おおいに輝かがやかれる方かた」でいらっしゃいます。そのお光ひかりはあらゆる処ところに届とどかれます。届とどかない処ところはございません。除のぞかれる御方おかたはいらっしゃいません。大日経(だいにちきょう)大日経 ― 真言の根本こんぽんの経典きょうてんのなかで ― 宇宙うちゅうぜんたいが大日如来だいにちにょらいのお身体しんたいであると静しずかに説とかれております ― ひとつひとつの山やま、ひとつひとつの川かわ、ひとりひとりの御方おかた、いきものひとつひとつ。

金色にかがやく大日如来のご本尊と真言密教のお寺の祭壇
大日如来 ・ 金色こんじきのご本尊ほんぞん

大光明 ― 「大いなる明らかな光」 ― が霊気のなかで用もちいられるとき、抽象的ちゅうしょうてきな象徴しょうちょうが描かかれているのではございません。すべてに染しみわたるそのお光ひかりとのお結むすびが静しずかに立たちあがっているのでございます。宇宙うちゅうそのものでいらっしゃるお力とのお結むすびでございます。真言の伝統でんとうのなかで、このお結むすびは修行しゅぎょうすべての奥おくのお願ねがいでございます ― ご自身じしんの仏性ぶっしょうが大日如来だいにちにょらいと同おなじであるというお気きづきでございます。似にているのではございません。同おなじでございます。

「大光明は、お贈おくり物もののように受うけとるものではございません。忘わすれていたお名前なまえ ― ご自身じしんのお名前なまえ ― を静しずかに思おもいだすように、気きづかせていただくものでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

悉曇の阿あと阿字観あじかん 阿字観

真言の修行しゅぎょうのまんなかに、すべてを一ひとつの点てんに静しずかに集あつめてくださる瞑想がございます ― 阿字観(あじかん)阿字観、悉曇の音おん「阿あ」を静しずかに観かんじる瞑想めいそうでございます。悉曇文字もじで書かかれるこの音おんは、大日如来だいにちにょらいの種字しゅじ(ビージャ)でございます。

「阿あ」は最もっともはじめの音おとでございます。原初げんしょの音おとでございます。インドの伝統でんとうのなかで「阿あ」は、すべてのほかの音おとがそこから静しずかに立たちあがる音おとでございます ― 文字もじのはじまり、言葉ことばのはじまり、意識いしきのはじまり。真言の密教みっきょうのなかで「阿あ」は存在そんざいの本もとを表あらわします ― 本不生(ほんぷしょう)本不生、「本来ほんらい生うまれざる」というお真理しんりでございます。存在そんざいするすべてが、そのご本性ほんしょうにおいて生うまれず、消きえないというお気きづきへの静しずかな入口いりぐちが、悉曇の「阿あ」でございます。

阿字観あじかんのなかで修行者しゅぎょうしゃは、月輪がちりんと蓮華れんげに囲かこまれた悉曇の「阿あ」のお姿すがたの前まえに静しずかに坐ざします。その文字もじを静しずかに観かんじます。息いきとともにお迎むかえします。その文字もじと静しずかに溶とけあっていきます。そしてそのご瞬間しゅんかんに、真言の伝統でんとうが 即身成仏(そくしんじょうぶつ)即身成仏と呼よぶことが静しずかに立たちあがるかもしれません ― このお身体しんたいのままで、この命いのちのなかで仏ほとけのご本性ほんしょうが姿すがたを現あらわされる、というお気きづきでございます。

अ
阿(あ) ― 大日如来だいにちにょらいの悉曇しったんの音おんでございます。阿字観あじかんのなかで、この文字もじは真理しんりのご本性ほんしょうへの門もんとなります。修行者しゅぎょうしゃはその文字もじを静しずかに観かんじ ― やがて観みる者ものと観みられる者もののあいだの境目さかいめが静しずかにほどけ、大おおいなる明あきらかな光ひかりが内うちから静しずかにあらわれていくのでございます。

大光明と阿字観あじかんのお結むすびは直じかでございます。両者りょうしゃとも同おなじところを向むいておられます ― 大日如来だいにちにょらいのお光ひかり、すべての御方おかたのなかに息いきづくお光ひかりのことを。阿字観あじかんはそのお光ひかりへの瞑想めいそうのお道みちでございます。大光明はそのお光ひかりのお名前なまえでございます。真言霊気のなかで、その両方りょうほうの流ながれがひとつに結むすばれていくのでございます。

「マスターシンボル」では収おさまりきれないお姿すがた 師

西洋の霊気のなかで、大光明は「マスターシンボル」と呼よばれてまいりました ― 第だい三さんの段階だんかいを表あらわす象徴しょうちょう、伝授でんじゅのいただきのお名前なまえとして。このお名前なまえはわかりやすいものですが、視野しやを狭せばめてしまうことがあるかもしれません。「マスター」という言葉ことばは上下じょうげを思おもわせます ― ほかの御方おかたより高たかいところに立たたれる御方おかたを、と。

真言の伝統でんとうのなかで、師しのお姿すがたは別べつのお意味いみを担になっております。ほかの御方おかたを支配しはいすることではございません。ご自身じしんのご本性ほんしょうに静しずかに気きづかれることでございます。お光ひかりを外そとに探さがすのではなく、内うちに静しずかに見みいだされたからでございます。大光明のお意味いみでの「師し」とは、大おおいなる明あきらかな光ひかりをご自身じしんのなかに静しずかに気きづかれた御方おかた ― そしてそれゆえにほかの御方おかたのなかに静しずかに呼よびさましをお手伝てつだいできる御方おかたのことでございます。

大光明は勲章くんしょうではございません。位くらいでも、肩書かたがきでもございません。ご体験たいけんでございます ― 宇宙うちゅうを染しめるそのお光ひかりと、ご自身じしんのお胸むねのなかのお光ひかりとが同おなじであるというご体験たいけんでございます。そのご体験たいけんはすべてを静しずかに変かえてしまうことがあるかもしれません。新あたらしい何なにかをいただくからではなく、常つねにそこに息いきづいていたものに、静しずかに気きづかれるからでございます。

視点してんの転換てんかん

西洋では「いつわたしは霊気のマスターになるのでしょうか」とお尋たずねします。日本の伝統でんとうでは「いつわたしは、お光ひかりから分わかれているという感かんじをそっと手放てばなすのでしょうか」とお尋たずねします。大光明はそのお答こたえでございます ― 言葉ことばとしてではなく、ご体験たいけんとして。お光ひかりはずっとそこに居いられたのでございます。ご自身は分わかれていらっしゃらなかったのでございます。ただ、眼めを向むけることをお忘わすれになっておられただけでございます。

曼荼羅まんだらの次元じげん ― 胎蔵界たいぞうかいと金剛界こんごうかい 曼荼羅

真言の密教みっきょうには、大おおきな曼荼羅まんだらが二ふたつございます ― 大日如来だいにちにょらいのお視点してんから宇宙うちゅうをお表あらわしになる宇宙うちゅうの地図ちずでございます。両方りょうほうのまんなかには同おなじ仏尊ぶっそんがいらっしゃいます ― 大日如来だいにちにょらい。すべてに染しみわたるそのお光ひかりでございます。

胎蔵界たいぞうかい曼荼羅まんだら胎蔵界曼荼羅 ― 「いのちの蔵くらの曼荼羅まんだら」 ― は、蓮華れんげのように静しずかに開ひらかれていく宇宙うちゅうを表あらわしております。大日如来だいにちにょらいがまんなかに坐ざされ、そのご側面そくめんを体現たいげんされる菩薩ぼさつ、明王みょうおう、諸尊しょそんが静しずかに取とり巻まいておられます。これは慈悲じひのお働はたらきをお表あらわしになります ― まんなかから外そとへとお輝かがやきになるお力でございます。

金剛界こんごうかい曼荼羅まんだら金剛界曼荼羅 ― 「ダイヤモンドの曼荼羅まんだら」 ― は、九ここのつの場ばから成なる幾何学的きかがくてきな構造こうぞうとして宇宙うちゅうをお表あらわしになります。ここでもまんなかには大日如来だいにちにょらいがいらっしゃいます。けれどここでは、智慧ちえのお働はたらきが静しずかにお表あらわしになっております ― 目覚めざめたお心の、壊こわれることのない清すみわたりでございます。

マーク・ホサックによる悉曇のお書き ・ 蓮華の幾何学
悉曇のお書かき ・ 蓮華れんげの幾何学きかがく

大光明は、両りょう曼荼羅まんだらが静しずかに出会であうお場ばでございます。慈悲じひと智慧ちえを結むすびます。いのちの蔵くらとダイヤモンドを。愛あいのやわらかなお力と、気きづきのきっぱりとした清すみわたりを。真言の伝統でんとうのなかで、その両方りょうほうが必要ひつようであると大切たいせつに伝つたえられてまいりました ― 智慧ちえのない慈悲じひは盲目もうもくでございます。慈悲じひのない智慧ちえは冷つめたうございます。両者りょうしゃがひとつに結むすばれるとき、大おおいなる明あきらかな光ひかりが静しずかに立たちあがるのでございます。

大光明と伝授でんじゅのご体験たいけん 灌頂

真言の伝統でんとうのなかに、修行者しゅぎょうしゃが完全かんぜんな伝つたえにお入はいりになる瞬間しゅんかんを表あらわすお言葉ことばがございます ― 灌頂(かんじょう)灌頂、「いただきにそそぐ」儀礼ぎれいでございます。修行者しゅぎょうしゃが ― 目めを覆おおわれたまま ― 曼荼羅まんだらのうえに花はなを静しずかにお落おとしになります。花はなが落おちられた場ば所が、修行者しゅぎょうしゃと特とくに結むすばれた仏尊ぶっそんを静しずかにお示しめしになります。目めのお覆おおいが静しずかにとられます。曼荼羅まんだらが静しずかに立たちあらわれます。そしてそのご瞬間しゅんかん ― 伝統でんとうのお伝つたえのとおり ― 修行者しゅぎょうしゃは大日如来だいにちにょらいのお眼まなこで宇宙うちゅうを御おん覧らんになることがあるかもしれません。

霊気の場ばで大光明への伝授でんじゅをお受うけになるとき、その静しずかなご体験たいけんのお香かおりがそこに息いきづきます。合格ごうかくされるご試験しけんではございません。お取とりになる肩書かたがきでもございません。お気きづきの瞬間しゅんかんでございます ― 大おおいなる明あきらかな光ひかりが、もう外そとのものとして感かんじられず、御自身ごじしんのご本性ほんしょうのもっとも奥おくのところに息いきづくものとして静しずかに感かんじられる、その瞬間しゅんかんでございます。お名前なまえと姿すがたを越こえて。

「大光明への伝授でんじゅは戴冠たいかんではございません。誕生たんじょうでございます ― ご自身がこのお光ひかりそのものでしかいらっしゃらなかった、というお気きづきの誕生たんじょうでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

そのご瞬間しゅんかんに起おこることは、公開こうかいのテキストにはおさめられません。密みつの伝統でんとうのなかで千年を越こえて大切たいせつに受うけ継つがれてきたとおり、守まもられた場ばのなかでの直じかのお伝つたえのなかにのみ居場所いばしょがございます。ここで申もうし上あげられるのは、静しずかなお誘さそいだけでございます ― このお言葉ことばを読よまれて、何なにかをお感かんじになる方かた ― あたたかさ、ひろがり、言葉ことばにできない何なにかを静しずかに思おもいだされる方かた ― そのとき、大光明はすでに静しずかに輝かがやかれておられます。ご自身が働はたらきかけてくださったからではなく、これまで一度も輝かがやくことをやめられなかったからでございます。

個別こべつのご体験たいけんでございます。 結果けっかには個人差こじんさがございます。霊気と霊性れいせいの実践じっせんは、医療いりょうや心理療法しんりりょうほうの代かわりとなるものではございません。
お光ひかりとのお出会であい

真言霊気への心こころの道みち

大光明は、直じかな伝授でんじゅのなかで、その深ふかみを静しずかにあらわしてまいります。どのお道みちがご自身じしんにとっての静しずかなはじめの場ばになるのか、ご一緒に見みつけてまいりましょう。

真言霊気への心こころの道みち 霊気の象徴しょうちょうすべて