筆の穂先が紙に触れてまいります。— ひととき、ただそこに留まる。— わずかな毫のひろさ、白い素地のうえに、墨の一点。— そして、ゆっくりと動き出します。腕が運ぶのでございます、— 手ではございません。呼吸が線を運ぶのでございます、— 意志ではございません。— 墨が紙の繊維に滲みこむあいだに、— 文字を超えるもの、しるしを超えるもの、— ひとつの出会いが、静かに生まれてまいります。
悉曇の書は、書きとりの練習ではございません。— 瞑想の修法でございます。日本にて — マーク・ホサック博士が、ある禅のお坊さまのもとで日本の書と中国の書を修めましたお場所にて — 聖なるしるしを書することは、手仕事として扱われてはおりません。— ひとつの儀礼の行として、お受け継がれてまいったのでございます。— 書する者は、そのしるしの担うお力と関係を結んでまいります。— しるしを「書く」のではございません。— しるしに「なってまいる」のでございます。

儀礼としての書書道
西洋において、書は美の営みでございます。— 美しい字を書く術。— 日本と中国においては、それは根本のところで、異なるものでございます。— 書道(しょどう)— 文字どおりには「書の道」 — は、日本の古典の芸の道のひとつ。— 茶道、華道、弓道と同じ位に置かれてまいりました。— そしてこれらの芸の道はみな、まずは技ではございません。— ひとつの「道」、変容の道筋でございます。
これはどういうことでございましょう。— 外の姿 — 書かれた文字の美しさ — は、副産物にすぎぬ、ということでございます。— ほんとうのことは、書する者の内に起こってまいるのでございます。— 書するそのとき、心はまったくの現在に立ち戻ります。— 過去はなく、未来もなく、— ただ、筆と、墨と、呼吸と、しるし。— 日本の書のお師匠さまが書する姿をご覧になった方は、仰ろうとすることがお分かりになります。— 部屋全体を満たす静けさ。— 力を抜いた集中。— ひとつの流れでございます。
真言密教の寺院においては、この原理がさらに深められてまいります。— ここで書されるのは、ただの文字ではございません。— 悉曇文字 — 一字一字が仏さま、菩薩さまを担われる聖なる音節 — でございます。— 書することそれじたいが、儀礼となってまいります。— 筆は、儀礼のお道具となってまいります。— そして書きあげられた一枚は、お守り — 書するそのときに流れてまいったお力を担う一枚 — となってまいります。
下準備 — 墨をすることが、瞑想墨
最初の一画が運ばれるよりも前に、— 修法は始まっております。— 墨をすることから、でございます。
硯(すずり)が机の上に置かれてあります。— ひと塊の墨(すみ)を、湿った石の上に、ゆるやかに円を描いて、滑らせてまいります。— ゆっくりと。— 瞑想のように。— 一滴ずつ、黒が水に溶けてまいります。— 松の煤の香りが立ちのぼります。— 土のような、煙のような、深い香り。— 寺の堂と、お香と、古い御堂の静けさをそっと呼びさましてまいります。
この「すること」は、面倒な下準備ではございません。— 瞑想の始まりでございます。— 円を描く動きごとに、心が静まってまいります。— 一日の念がそっと退き、呼吸が深まってまいります。— 墨は濃く、深く、黒くなってまいります。— そして心も、より静かに、より澄んだ、より現在のものとなってまいります。— 墨がふさわしい濃さに到れば、書する者もまた、整っておりますのでございます。

マークが書に出会ってまいるまで修行
マーク・ホサック博士は、ある禅のお坊さまのもとで日本の書と中国の書を修めました。— 一日二日のお稽古ではございません。— 美しさの趣味としてでもございません。— 霊的な修法として — 何年にもわたり、日本の地で、寺の静けさのなかで。

修法は基の運筆からはじまります。— 横画、縦画、点、はね。— 何百回と同じ画を繰りかえし、— もはや頭で考えるのではなく、体で感じるようになるまで。— 心が画を計るより前に、腕が画を知っているところまで。— 動きが、腹 — 体の中心、臍の下 — から運ばれてまいるところまで。— 手首からではございません。
それから、漢字へと進んでまいります。— やさしい字から、複雑な字へ。— 一字一字が、ひとつの世界。— 一画一画が、墨の濃さ、速さ、角度、圧のお選びでございます。— けれども、— もっとも美しい画は、お選びによっては生まれません。— 手放すことのうちに、生まれてまいるのでございます。— 書する者が「制御する」をやめ、「流れる」を始めるそのとき、でございます。
その土台のうえに、ようやく悉曇の書がまいります。— 悉曇の書は、日本と中国の書の上に立ち、— けれど、美の領域を超える次元 — 儀礼の次元、お力のお授けの次元 — を加えてまいるのでございます。
書することは、お力をお授けすること加持
日本と中国において、書は儀礼として用いられてまいりました。— たとえばなしではございません。— 千年余りにわたって記されてまいった、確かな修法でございます。— 瞑想的に、観想のうちに書することを通じて、お力が書へと宿ってまいります。— 出来上がった一枚は、ただの絵ではございません。— お守りでございます。— 御札(おふだ)、お護りの聖なるしるしでございます。
その原理が、加持(かじ)— 宇宙のお力と、人のいのちが受け容れる器とが、ひとつに出会うところ — でございます。— 書する者は、ご自身を静かに開かれます。— 書しようとされる悉曇文字の仏さまのお力と、結ばれてまいります。— そしてそのお力が、ご自身を通って — 腕、筆、墨、紙へと — そっと流れてまいるのでございます。— 出来上がるのは、普通の一枚ではございません。— お力を担う、御物でございます。
日本のお寺をお訪ねになった方であれば、ご覧になっていらっしゃることでございましょう。— 壁にかけられた、書の御札。— 戸口の守りとして留められた、護符。— お守りとして身に携えられる、札。— それらは印刷されたものではございません。— 書されたものでございます。— 書しながら真言を唱え、印を結ばれ、仏さまのお力と結ばれていらっしゃるお坊さま方の手によるもの。— 民俗のお話ではございません。— 今も生きる修法でございます。
まさにこの原理 — 瞑想的な書を通して、お力が宿ってまいる — が、霊気の象徴の根でいらっしゃるのでございます。— 霊気の象徴は、書のように授けられるものでございまして、— 機械的に描き移されるものではございません。— 悉曇の御札を書するのと同じ姿勢で霊気の象徴を書する方は、— なぜ伝統が直接の伝授を大切にしてまいるか、— その由縁が、おのずと分かってまいるのでございます。
しるしを書くのではなく — しるしになってまいる入我我入
ここに、すべてを結ぶ一文がございます。— しるしを書くのではございません。— しるしになってまいるのでございます。
真言の伝統において、この原理を入我我入(にゅうががにゅう、入我我入)— 「仏さまが我に入り、我が仏さまに入る」 — と申します。— 瞑想のうち、儀礼のうち、書のうち、— 行ずる者と仏さまとの境界がそっと溶けてまいるのでございます。— お坊さまが音節「ア」を書するとき、それは大日如来さま「について」書しておられるのではございません。— その所作のひとときのあいだ、お坊さまは大日如来さまの顕れてまいる器 — お力の通る道 — となっていらっしゃるのでございます。
抽象的に聞こえてまいるかもしれません。— 修法のうちでは、ごく具体的なものでございます。— 体の体験でございます。— 呼吸が変わってまいります。— 腕の動きが、異なってまいります — 担われ、運ばれ、骨が折れぬ動きへと。— 墨が、まるで独自の智を持つかのように、流れてまいります。— そして紙の上に生まれるしるしには、— 機械的に書かれたしるしとは異なるたたずまいが、宿ってございます。— いつも目に映るとは限りません。— けれども、感じられてまいるのでございます。
愛する方からのお手紙を一度でもお受け取りになった方は、— ご存じでございましょう。— 手書きの文字は、情報を超えるものを担っております。— その方の気配を、お力を、お触れあいを。— 悉曇の書は、この日々の知られざる智慧を、宇宙の規模へと深めてまいるのでございます。— しるしは、ある方の気配を担うのではなく、— 仏さまの気配を、担ってまいるのでございます。
修法の感性感
悉曇の書は、ただの頭の修法ではございません。— 深く身体の修法でございます。— 深く感性的なお営みでございます。— そしてそこにこそ、お力が宿ってまいるのでございます。
墨の香り。— 松の煤と樟脳。土のような、温かなにおい。— 一画も書されぬうちから、その香りは部屋を満たしてまいります。— すりおろす音。— 静かに、律のごとく、— 遠くの波音が砂に触れてまいるかのように。— 手のひらに感じる筆の重み — 軽やかながら、確かなもの。— 紙に触れるときの、穂先のやさしい沈み込み。— 墨が広がってまいる湿り、— 制御と手放しのあいだの細い境。— その境のたしかな感覚が、生きた画と死んだ画とを分かってまいるのでございます。



呼吸。— 吸う息で、筆が上がります。— 吐く息で、筆が下がります。— 画は、呼吸に従ってまいります。— その逆ではございません。— 息を留めると、画は硬くなってまいります。— 息を流せば、画は生きてまいります。— 書からは、書する者が息をしておられたかどうかが、読みとれてまいるものでございます。
全身の動き。— 良き画は、手首から生まれませぬ。— 丹田、体の中心から生まれてまいります。— 肩を通り、腕を、手を、筆を、墨を、紙を — ひとつの動きとなって運ばれてまいります。— 全身を抱くひとつの動きでございます。— 言霊を発するときと同じく、— 大切なのは穂先ではございません。— 大切なのは、源でございます。
霊気とのつながり靈氣
ここに、— 多くの霊気を行ずる方々がご存じでないけれども、— ひとたびお気づきになれば、修法のすべてが変わってまいるつながりがございます。
霊気の象徴は、伝授(灌頂)においてお授けされてまいります。— ご説明されるのではございません。— ご提示されるのでもございません。— 直に、お授けされてまいります。— そしてその授けは、悉曇の書の原理にしたがってまいります。— しるしは、全身全霊で書されてまいります。— 機械的に、写しを取るかのようにではなく、— ひとつの儀礼の所作として、— お力のお授けの所作として。
霊気の修法のうちで、誰かが象徴を書するとき、— ひと違いをもたらしてまいります。— 封筒に住所を走り書きするように描くのか、— それとも、書する者の意識でもって書するのか。— 呼吸とともに。— 丹田から。— 象徴の担うお力との結びのうちに。— その違いは、理論のお話ではございません。— 感じられてまいるものでございます。— 行ずる方にも、お受けくださる方にも。
真言霊気においては、このつながりは、ただ伝えられてまいるだけではございません。— 生きていらっしゃるのでございます。— 象徴は、その本然の姿のままに — 悉曇の書の伝統に立つ生けるしるしとして — お受けされてまいります。— 「使う」「当てる」道具としてではなく、— 全身全霊で潜り抜けてまいる門として。
悉曇の書と霊気の象徴は、同じ原理にしたがってまいります。— しるしは書かれるのではなく、— 体現されてまいるのでございます。— 筆と、霊気を行ずる方の御手は、同じものでいらっしゃいます。— ご自身を超えてまいるお力が、そっと通ってまいる道でございます。— このことに気づかれた方の修法は、自ずと、変わってまいるのでございます。
生きる伝統伝
悉曇の書は、博物館に収まる珍しいものではございません。— 日本のお寺で今も生きてまいる修法でございます。— 真言宗の聖地、高野山には、— お坊さま方が日々、悉曇文字を書しておられる寺がございます。— 瞑想として、儀礼として、衆生のためのおつとめとして。
そしてその伝統は、真言霊気のうちにも息づいておりますのでございます。— マーク・ホサック博士は、悉曇の書を本のなかでお見つけになったのではございません。— 体験のうちにお出会いになりました。— 硯のかたわらで、筆をおもちになり、寺のなかで。— 墨が流れはじめるとき、心がどう変わってまいるか — そのさまを、お感じになりました。— しるしを「書く」のではなく、— しるしに「なってまいる」とは、どういうことか — そのお味を、お知りになりました。
この体験 — 書する所作のうちでの、体・心・宇宙のお力の結び — こそが、霊気の象徴を、ただ紙の上のしるしから、別のものへと深めてまいるのでございます。— 伝授においてお授けされてまいるのは、象徴の絵ではございません。— そのなかに住まう、生きるお力でいらっしゃるのでございます。
この行をお読みになりながら、もしかすると、お感じになっていらっしゃるかもしれません。— 言葉におさまりにくい、ある憧れを。— はじめの一画の前の静けさへの。— 墨の香りへの。— 筆が紙に触れて、すべてが素朴になるそのひとときへの。— その憧れは、感傷ではございません。— ひとつの方位磁石でございます。— お力のお越しになる方を、そっとお示ししてまいるのでございます。