筆の穂先ほさきが紙にれてまいります。— ひととき、ただそこにまる。— わずかなごうのひろさ、白い素地そじのうえに、墨の一点。— そして、ゆっくりと動き出します。うでが運ぶのでございます、— 手ではございません。呼吸が線を運ぶのでございます、— 意志いしではございません。— 墨が紙の繊維せんいにじみこむあいだに、— 文字を超えるもの、しるしを超えるもの、— ひとつの出会いが、静かに生まれてまいります。

悉曇の書は、書きとりの練習れんしゅうではございません。— 瞑想の修法でございます。日本にて — マーク・ホサック博士が、ある禅のお坊さまのもとで日本の書と中国の書をおさめましたお所にて — 聖なるしるしを書することは、手仕事としてあつかわれてはおりません。— ひとつの儀礼のぎょうとして、お受けがれてまいったのでございます。— 書する者は、そのしるしの担うお力と関係を結んでまいります。— しるしを「書く」のではございません。— しるしに「なってまいる」のでございます。

1997年のマーク・ホサック博士 · 日本にて、お師匠さまの書の前で
1997年のマーク · 日本にて書を修めて

儀礼としての書書道

西洋において、書はいとなみでございます。— うつくしい字を書くすべ。— 日本と中国においては、それは根本こんぽんのところで、ことなるものでございます。— 書道(しょどう)— 文字どおりには「書の道」 — は、日本の古典こてんの芸の道のひとつ。— ちゃどうどうきゅうどうおなくらいに置かれてまいりました。— そしてこれらの芸の道はみな、まずは技ではございません。— ひとつの「」、変容の道筋でございます。

これはどういうことでございましょう。— 外の姿すがた — 書かれた文字のうつくしさ — は、ふくさんぶつにすぎぬ、ということでございます。— ほんとうのことは、書する者のうちに起こってまいるのでございます。— 書するそのとき、こころはまったくの現在げんざいち戻ります。— 過去はなく、未来もなく、— ただ、筆と、墨と、呼吸と、しるし。— 日本の書のお師匠さまが書する姿をごらんになった方は、おっしゃろうとすることがおかりになります。— 部屋全体を満たす静けさ。— ちからを抜いた集中。— ひとつのながれでございます。

(どう)— 道、みち原理げんり。— 柔道剣道合気道、そして書道のうちにも宿る、同じ一字でございます。— とは、技ではございません。— 変容の道筋でございます。— うまくなるために稽古けいこするのではなく、— よりひらかれたうつわになるために、稽古いたしますのでございます。

真言密教の寺院においては、この原理げんりがさらに深められてまいります。— ここで書されるのは、ただの文字ではございません。— 悉曇文字 — 一字一字が仏さま、菩薩さまをになわれる聖なる音節 — でございます。— 書することそれじたいが、儀礼となってまいります。— 筆は、儀礼のお道具どうぐとなってまいります。— そして書きあげられた一枚は、お守り — 書するそのときに流れてまいったお力を担う一枚 — となってまいります。

準備じゅんび — 墨をすることが、瞑想

最初の一画が運ばれるよりも前に、— 修法は始まっております。— 墨をすることから、でございます。

(すずり)が机の上に置かれてあります。— ひとかたまり(すみ)を、湿った石の上に、ゆるやかにえんを描いて、すべらせてまいります。— ゆっくりと。— 瞑想のように。— 一てきずつ、黒が水にけてまいります。— まつすすかおりが立ちのぼります。— 土のような、煙のような、深い香り。— 寺の堂と、おこうと、古い御堂の静けさをそっとびさましてまいります。

この「すること」は、面倒めんどうな下準備じゅんびではございません。— 瞑想のはじまりでございます。— 円を描く動きごとに、心がしずまってまいります。— 一日のねんがそっと退しりぞき、呼吸が深まってまいります。— 墨はく、深く、黒くなってまいります。— そして心も、より静かに、よりんだ、より現在げんざいのものとなってまいります。— 墨がふさわしいさに到れば、書する者もまた、ととのっておりますのでございます。

マーク・ホサック博士の悉曇の書 · 筆と墨の修法
悉曇 · マーク・ホサック博士の書
「墨をすってまいるとき、心をすってまいるのでございます。— 墨がととのえば、書する者もまた整っております。— 偶然ではございません、— 修法そのものでございます。」 マーク・ホサック博士

マークが書に出会ってまいるまで修行

マーク・ホサック博士は、ある禅のお坊さまのもとで日本の書と中国の書をおさめました。— 一日二日のお稽古けいこではございません。— 美しさの趣味しゅみとしてでもございません。— 霊的な修法として — 何年にもわたり、日本の地で、寺の静けさのなかで。

マーク・ホサック博士が、お師匠さまとともに巻物を見ておられるさま
お師匠さまとともに、巻物を紐解ひもとくひととき

修法はもとうんぴつからはじまります。— よこかくたてかく、点、はね。— 何ひゃくかいおなじ画をりかえし、— もはやあたまかんがえるのではなく、からだかんじるようになるまで。— 心が画をはかるより前に、腕が画をっているところまで。— 動きが、はら — 体の中心ちゅうしんへそした — から運ばれてまいるところまで。— くびからではございません。

それから、漢字かんじへと進んでまいります。— やさしい字から、複雑な字へ。— 一字一字が、ひとつの世界。— 一画一画が、墨のさ、はやさ、角度かくどあつのおえらびでございます。— けれども、— もっとも美しい画は、お選びによっては生まれません。— 手放すことのうちに、生まれてまいるのでございます。— 書する者が「せいぎょする」をやめ、「ながれる」を始めるそのとき、でございます。

その土台どだいのうえに、ようやく悉曇の書がまいります。— 悉曇の書は、日本と中国の書の上に立ち、— けれど、美の領域を超える次元 — 儀礼の次元、お力のおさずけの次元 — を加えてまいるのでございます。

書することは、お力をお授けすること加持

日本と中国において、書は儀礼として用いられてまいりました。— たとえばなしではございません。— 千年余りにわたってしるされてまいった、たしかな修法でございます。— 瞑想的に、観想のうちに書することを通じて、お力が書へと宿ってまいります。— 出来上がった一枚は、ただの絵ではございません。— お守りでございます。— 御札(おふだ)、お護りのせいなるしるしでございます。

その原理げんりが、加持(かじ)— 宇宙のお力と、人のいのちが受けれるうつわとが、ひとつに出会うところ — でございます。— 書する者は、ご自身を静かにひらかれます。— 書しようとされる悉曇文字の仏さまのお力と、結ばれてまいります。— そしてそのお力が、ご自身を通って — 腕、筆、墨、紙へと — そっと流れてまいるのでございます。— 出来上がるのは、普通ふつうの一枚ではございません。— お力を担う、ぶつでございます。

加持
加持(かじ)— 文字どおりには「加える」「たもつ」。— 仏さまのお力が加えられ、行ずる者がそれをたもってまいります。— 加持とは、宇宙のお力と人の修法とが出会うひととき — 瞑想のうちに、儀礼のうちに、書のうちに — を、ひとことでになうお言葉でございます。

日本のお寺をおたずねになった方であれば、ごらんになっていらっしゃることでございましょう。— 壁にかけられた、書の御札。— 戸口のまもりとして留められた、護符。— お守りとしてたずさえられる、ふだ。— それらは印刷いんさつされたものではございません。— 書されたものでございます。— 書しながら真言を唱え、印を結ばれ、仏さまのお力と結ばれていらっしゃるお坊さま方の手によるもの。— みんぞくのお話ではございません。— 今も生きる修法でございます。

霊気の象徴の根

まさにこの原理 — 瞑想的な書を通して、お力が宿ってまいる — が、霊気の象徴の根でいらっしゃるのでございます。— 霊気の象徴は、書のようにさずけられるものでございまして、— 機械的に描きうつされるものではございません。— 悉曇の御札を書するのと同じ姿勢で霊気の象徴を書する方は、— なぜ伝統が直接の伝授でんじゅを大切にしてまいるか、— そのえんが、おのずと分かってまいるのでございます。

しるしを書くのではなく — しるしになってまいる入我我入

ここに、すべてをむすぶ一文がございます。— しるしを書くのではございません。— しるしになってまいるのでございます。

真言の伝統において、この原理げんり入我我入(にゅうががにゅう、入我我入)— 「仏さまが我に入り、我が仏さまに入る」 — ともうします。— 瞑想のうち、儀礼のうち、書のうち、— 行ずる者と仏さまとの境界きょうかいがそっとけてまいるのでございます。— お坊さまが音節「」を書するとき、それは大日如来さま「について」書しておられるのではございません。— その所作のひとときのあいだ、お坊さまは大日如来さまのあらわれてまいるうつわ — お力の通るみち — となっていらっしゃるのでございます。

抽象的ちゅうしょうてきこえてまいるかもしれません。— 修法のうちでは、ごくたいてきなものでございます。— 体の体験たいけんでございます。— 呼吸が変わってまいります。— 腕の動きが、ことなってまいります — になわれ、運ばれ、ほねが折れぬ動きへと。— 墨が、まるで独自どくじつかのように、流れてまいります。— そして紙の上に生まれるしるしには、— 機械的に書かれたしるしとは異なるたたずまいが、宿ってございます。— いつも目に映るとは限りません。— けれども、かんじられてまいるのでございます。

あいする方からのお手紙を一度でもおりになった方は、— ごぞんじでございましょう。— きの文字は、情報じょうほうを超えるものを担っております。— その方の気配けはいを、お力を、おれあいを。— 悉曇の書は、この日々のられざる智慧ちえを、宇宙の規模きぼへと深めてまいるのでございます。— しるしは、あるひとの気配を担うのではなく、— 仏さまの気配を、担ってまいるのでございます。

修法の感性かんせい

悉曇の書は、ただのあたま修法しゅほうではございません。— 深く身体しんたいの修法でございます。— 深くかん性的なおいとなみでございます。— そしてそこにこそ、お力が宿ってまいるのでございます。

墨の香り。— まつの煤と樟脳しょうのう。土のような、温かなにおい。— 一画も書されぬうちから、その香りは部屋を満たしてまいります。— すりおろすおと。— 静かに、りつのごとく、— 遠くの波音なみおとが砂にれてまいるかのように。— 手のひらに感じる筆のおもみ — かろやかながら、たしかなもの。— 紙に触れるときの、穂先のやさしいしずみ。— 墨が広がってまいる湿しめり、— 制御と手放しのあいだの細いさかい。— その境のたしかなかん覚が、生きた画と死んだ画とをかってまいるのでございます。

マーク・ホサック博士の悉曇の書 · 蓮の曼荼羅
悉曇の書 · マーク・ホサック
マーク・ホサック博士の悉曇の書 · 三角と蓮の曼荼羅
悉曇の書 · マーク・ホサック
マーク・ホサック博士の悉曇の書 · 太陽と蓮の曼荼羅
悉曇の書 · マーク・ホサック

呼吸。— 吸う息で、筆が上がります。— 吐く息で、筆が下がります。— 画は、呼吸にしたがってまいります。— そのぎゃくではございません。— 息をめると、画はかたくなってまいります。— 息を流せば、画は生きてまいります。— 書からは、書する者がいきをしておられたかどうかが、みとれてまいるものでございます。

全身の動き。— 良き画は、手首から生まれませぬ。— 丹田、体の中心から生まれてまいります。— かたを通り、腕を、手を、筆を、墨を、紙を — ひとつの動きとなって運ばれてまいります。— 全身をいだくひとつの動きでございます。— 言霊を発するときと同じく、— 大切なのは穂先ではございません。— 大切なのは、みなもとでございます。

「筆は、お道具ではございません。— 全身が、お道具でいらっしゃるのでございます。— 筆は、— その動きが目に見えてまいる、— 最後の一点でございます。」 マーク・ホサック博士

霊気とのつながり靈氣

ここに、— 多くの霊気を行ずる方々がごぞんじでないけれども、— ひとたびおづきになれば、修法のすべてが変わってまいるつながりがございます。

霊気の象徴は、伝授(灌頂かんじょう)においておさずけされてまいります。— ごせつ明されるのではございません。— ごていされるのでもございません。— 直に、おさずけされてまいります。— そしてその授けは、悉曇の書の原理げんりにしたがってまいります。— しるしは、ぜんしんぜんれいで書されてまいります。— 機械的に、写しを取るかのようにではなく、— ひとつの儀礼の所作として、— お力のお授けの所作として。

霊気の修法のうちで、誰かが象徴を書するとき、— ひと違いをもたらしてまいります。— 封筒に住所を走り書きするように描くのか、— それとも、書する者の意識いしきでもって書するのか。— 呼吸とともに。— 丹田から。— 象徴の担うお力との結びのうちに。— その違いは、ろんのお話ではございません。— 感じられてまいるものでございます。— 行ずる方にも、お受けくださる方にも。

真言霊気においては、このつながりは、ただつたえられてまいるだけではございません。— 生きていらっしゃるのでございます。— 象徴は、その本然の姿のままに — 悉曇の書の伝統に立つ生けるしるしとして — お受けされてまいります。— 「使う」「当てる」道具どうぐとしてではなく、— 全身全霊でくぐり抜けてまいるもんとして。

この橋

悉曇の書と霊気の象徴は、同じ原理にしたがってまいります。— しるしは書かれるのではなく、— 体現されてまいるのでございます。— 筆と、霊気を行ずる方の御手は、同じものでいらっしゃいます。— ご自身を超えてまいるお力が、そっと通ってまいるみちでございます。— このことに気づかれた方の修法は、自ずと、変わってまいるのでございます。

生きる伝統

悉曇の書は、博物はくぶつかんに収まるめずらしいものではございません。— 日本のお寺で今も生きてまいる修法でございます。— 真言宗のせい、高野山には、— お坊さま方が日々、悉曇文字を書しておられる寺がございます。— 瞑想として、儀礼として、衆生のためのおつとめとして。

そしてその伝統は、真言霊気のうちにも息づいておりますのでございます。— マーク・ホサック博士は、悉曇の書を本のなかでお見つけになったのではございません。— 体験のうちにお出会いになりました。— 硯のかたわらで、筆をおもちになり、寺のなかで。— 墨が流れはじめるとき、心がどう変わってまいるか — そのさまを、お感じになりました。— しるしを「書く」のではなく、— しるしに「なってまいる」とは、どういうことか — そのおあじを、お知りになりました。

この体験 — 書する所作のうちでの、体・心・宇宙のお力のむすび — こそが、霊気の象徴を、ただ紙の上のしるしから、別のものへと深めてまいるのでございます。— 伝授においてお授けされてまいるのは、象徴の絵ではございません。— そのなかに住まう、生きるお力でいらっしゃるのでございます。

この行をおみになりながら、もしかすると、お感じになっていらっしゃるかもしれません。— 言葉におさまりにくい、あるあこがれを。— はじめの一画の前のしずけさへの。— 墨の香りへの。— 筆が紙に触れて、すべてがぼくになるそのひとときへの。— その憧れは、感傷かんしょうではございません。— ひとつのほうしゃくでございます。— お力のおしになる方を、そっとお示ししてまいるのでございます。

この修法を体感してまいる

真言霊気を、ご一緒に。

悉曇の書のお力は、直接の伝授のうちに生きてまいります。— その道に、どうそっとお足をおはこびになれるか、おたしかめくださいませ。

心の道 悉曇の歴史