言霊。— このおことば、— 日本にお生まれの方であれば、どこかでおみみになさったことがおありかと存じます。— 万葉集には、すでに「言霊のさきはふ国」とうたわれてございました。— 響きそのものにお力が宿り、— ことばが現実をそっとととのえてまいる、というお考えでございます。— ただの意味いみではございません。— 響きそのもの。— そして、この言霊のお考えがおかりになると、— 霊気の象徴がなぜ「しずかに」だけではなく「こえに出して」修法されてまいるのか、— おのずとおかりになるのでございます。

西洋の霊気においては、しばしば、象徴のお名前は心のなかで三度、つぶやかれます。— しるしを観想し、— それでがり。— ある程度ていどのところまでは、おはたらきになります。— けれども日本の伝統においては、その修法に大切な一つがけてまいるのでございます。— お声、でございます。— 真言密教において、お声はえのものではございません。— 三密さんみつのうちのひとつ — 「口密」、— でいらっしゃるのでございます。

臼井先生の御念碑にある「霊気」の漢字 · 響きが書として立つお姿
臼井先生の御念碑にある「霊気」の漢字 · 響きが書としてお姿すがたを結んで

言霊とは言霊

言霊
(こと)— ことば、お声、響き。(たま、れい)— 霊、たましい、霊的なお力。— 「霊気」のと同じ一字でございます。— 文字どおりには「ことばのたましい」「響きのうちに住まう霊」。— 言霊とは、響きそのものが独自どくじ現実げんじつびさましてまいる、という日本古来の信のお姿でございます。— 象徴のお話としてではなく、— たしかな、直のおはたらきとして。

お考えそのものは、仏教が日本にお越しになるよりも、古くからございます。— 八世紀の万葉集には、すでに、— 日本は言霊のさきはふ国(ことだまのさきわうくに)としるされてございました。— 神道のお祈り、— 祝詞(のりと、祝詞) — は、むものではございません。— 奏上そうじょうされてまいるもの、でございます。— たしかな抑揚、たしかなりつ、たしかな呼吸とともに。— 神々さまがおことばをおかいになるためではなく、— 響きそのものが、はたらきをびさましてまいるからこそ、でございます。

これはたとえばなしではございません。— 神道の宇宙観うちゅうかんにおいて、響きは現実げんじつをそっと立ちあげてまいります。— 伊邪那岐いざなぎのみこと、伊邪那美いざなみのみことが日本のお島々をお生みになったとき、— おことばを通じて、お生みになったのでございます。— 響きは、お姿のまえに。— まずは音、— そして世界。

真言密教における真言真言

九世紀、仏教が日本にお越しになったとき、空海さま(弘法大師さま)は、ただおきょうをお持ちになっただけではございません。— 響きの宗教を、お運びになったのでございます。— 真言(しんごん、真言)— 文字どおりには「真の言葉」 — は、サンスクリットの「マントラ」のおやくでいらっしゃいます。— その宗派の御名そのものが、— 響きが真理をになう、という原理げんりのうえに、立っていらっしゃるのでございます。

空海さまはお書きになっていらっしゃいました。— 大日如来さま — 宇宙の仏さま — のお声は、宇宙そのものの根本こんぽんれである、と。— 一字一字の悉曇文字は、— 凍ったおおと。— 一つひとつの真言は、その宇宙のれのひと側面そくめんを、そっとひらくかぎ。— 真言宗の寺院でお坊さまが「オン アビラウンケン」とお唱えになるとき、— その方は仏さまをおびになっていらっしゃるのではございません。— その仏さまそのものでいらっしゃる振れを、— そっと立ちあげていらっしゃるのでございます。

「真言において、響きは現実のうつしではございません。— 響きそのものが、現実でございます。— ひとふしの真言は、仏さまについてべていらっしゃるのではございません。— 響きのお姿の仏さま、なのかもしれません。」 マーク・ホサック博士

ここで、言霊と真言が、そっとお出会いになります。— 神道はおっしゃいます。「響きは現実を立ちあげる」と。— 真言密教はおっしゃいます。「響きは現実そのもの」と。— 二つの伝統は、霊気のうちに、ひとつに流れ込んでまいります。— 臼井甕男(うすい・みかお)先生は、— その両方が、ごく自然しぜんに息づくお文化ぶんかのうちで、お生まれになったのでございます。

霊気の象徴を、なぜ「こえに出して」修法されてまいるのか

西洋の霊気の伝統において、— 象徴のお名前はめたることば、— 三度心のうちでとなえ、— しるしを観じて、— お働きをお待ちになる。— それは間違いではございません。— けれども、十分ではございません。

日本の伝統において、ひとつの象徴は、— ただ思われ、描かれるのではなく、— 声に出して唱えられてまいるのでございます。— 大きく、あるいはひそやかに、— こころざしと呼吸とともに。— 象徴のお名前は、ふだのおふだではございません。— ひとつの真言、でございます。— そして真言は、— 体を通ってはじめて、そのまるごとのお力をあらわしてまいるのでございます。— 呼吸を通って、こえおくを通って、唇を通って。

これは、真言の三密(さんみつ)— 身、口、意 — に直にかかわってまいります。— 体は印、— 口は真言、— 意は観想。— もし象徴を、ただ思って描かれるだけなら、— 三密のうちのふたつは生きておりますが、— 三つ — 口、お声 — がけてまいります。— そしてまさにその三つ目が、— エネルギーをそっとるわせてまいる、響きの器でいらっしゃるのでございます。

三密と響き

思いは、意。— 描くは、身。— 唱えるは、口。— この三つがひとつにととのってはじめて、真言の伝統でんとう加持(かじ、加持)— 宇宙のお力と人のいのちが、ひとつにとおきとおる瞬間しゅんかん — とびならわしてまいるお姿が、立ちあがってまいります。— 真言霊気のうちで、お声に出して名が唱えられぬ象徴は、ございません。— 規則きそくではございません。— 物の理 — 響きの理 — でございます。

四つの霊気の象徴の、それぞれの言霊四符

古典の四つの霊気の象徴は、それぞれの言霊を担っていらっしゃいます。— しるしのかたちを超えておはたらきになる、— 響きのかくでございます。— 日本の伝統には、しるしをえがかずに、響きだけを用いる修法もございます。— 響きだけで、十分におはたらきになるのでございます。— ふさわしいこころざしと呼吸とともに、唱えられてまいるかぎり。

チョクレイ

直霊

(ちょく)— まっすぐ、まことに、直に。(れい)— 霊、たましい、霊的なお力。— この響きは、エネルギーをまっすぐな一線へとおみちびきになります。— 整え、まなざしを集め、深めてまいります。— 神道の伝統において、直霊とは、まっすぐの霊 — 回り道のないつながり、— でいらっしゃいます。— この響きをお唱えになるとき、エネルギーがそっとたばねられてまいります。

セイヘキ

聖癖

(せい)— 聖なる、清らか。(へき)— ならわし、傾き、心のかたち。— この響きは、心のうちに居座っているならわし — 習慣、深い印、感情のとどこおり — に、そっとおれになります。— 密教の文脈においてセイヘキは、悉曇の「ア」 — すべてのならわしを、源へと立ち戻してかしてまいる、はじまりの音 — と通じております。

ホンシャゼショウネン

本者是正念

五字、五音節、ひとつのお告げ。— 「本(もと)は、是(これ)正念しょうねん」 — いのちの本来ほんらいは、まっすぐなお気づき。— この言霊は、空間とときえてわたりをかけてまいります。— 不思議の所作としてではございません。— すべての現象げんしょうはおたがいに結ばれている(縁起、えんぎ、縁起)、という仏教のづきのあらわれとして、でございます。— この響きをお唱えになるとき、— はじめからずっとそこに在ったつながりが、そっとひらかれてまいります。

ダイコウミョウ

大光明

(だい)— 大いなる。(こう)— 光。(みょう)— 照り、明るさ、悟り。— 「大いなる、照らす光明」。— この言霊は、さとりそのものの響きでございます。— 霊気の伝統における、最も高きれ。— 真言の修法において、それは大日如来さまの光、— すべてをあまねく照らす光、と通じております。

大光明 · 大いなる照らす光のお書
大光明 · 大いなる照らす光のお書

悉曇 — 凍ったおおと悉曇

真言密教において、悉曇文字(梵字、ぼんじ、梵字)は、ただの文字もじではございません。— 目に見えるお姿すがたの真言 — 凍ったお音、でいらっしゃいます。— 一字一字がサンスクリットの音節を担い、— その音節は、宇宙の真理のひとつのお側面そくめんでございます。— 悉曇をごらんになる方は、目で響きを「お聴き」になります。— 真言をお唱えになる方は、耳でしるしを「お見」になります。

空海さまは、悉曇を、— 大日如来さまのお身体しんたいとおびになりました。— 宇宙の仏さまは、文をおかたりになりません。— 一音一音の音節をお語りになります。— その一音のうちに、ひとつの宇宙が宿っております。— 悉曇の「ア」(अ)— 最初の音節、すべての響きのみなもと — は、— 空海さまによれば、仏教のすべての真理を、ひとつの音のうちにたたえていらっしゃるのでございます。— その響きをおかいになる方は、すべてをおかいになっておられるのでございます。

真言霊気のうちで、悉曇は深まりの修法としてごていきょうされてまいります。— 一つひとつのいのちのお力の場、仏さま、お護りの諸尊しょそんさまには、それぞれ独自の悉曇 — そして独自の真言 — が、おさずけくださっております。— 悉曇(目に見える)・真言(響き)・印(身)の組み合わせが、三密のまるごとの立ちあがりを、そっとお生み出しになるのでございます。

抑揚よくよう — 真言は、どう唱えられてまいるか

真言は、ただ口に出されるのではございません。— 抑揚とともに、— たしかなおんてい、たしかなりつ、たしかな呼吸の運びとともに、— 唱えられてまいるのでございます。— 真言宗の寺院には、何ひゃく年もの系譜けいふたたえるお唱えの伝統(声明、しょうみょう、声明)がございます。— 阿闍梨さまから、お受けくださる方へと、— ひと節ずつ、お授けされてまいるものでございます。— そのふしは、おかざりではございません。— おはたらきそのものの一部、でいらっしゃるのでございます。

霊気の修法のためには、お坊さまである必要はございません。— けれども、違いをそっと立ちあげる原理げんりは、ございます。— 響きは丹田から、— 頭からではございません。— 呼吸が真言を運び、— 真言が呼吸のうえに乗ってまいります。— 繰り返しが、れをそうのようにかさねてまいります。— 百回お唱えのとき、ひと節の真言は、三回お唱えのときとは、別のお姿をなさっていらっしゃいます。— ことばは変わらぬのに。— 場、空間そのものが、変わってまいったから、でございます。

「ひと節の真言を、はじめてお唱えになるとき、— ひとつのおことばを唱えていらっしゃいます。— 百回目にお唱えになるとき、— そのおことばが、ご自身を、唱えていらっしゃるのかもしれません。」 マーク・ホサック博士

日々の修法のうちの言霊日課

霊気のなかで、最もよく知られた言霊の修法は、— 五戒(ごかい)— いのちの五つのおことば — のお唱えでございます。— 臼井先生は、はっきりとおしめしになっていらっしゃいました。— 口に唱えよ、と。— 思うのではございません。— 唱えるのでございます。— 五戒は、心のなかで読まれる標語ひょうごではございません。— 真言、でいらっしゃいます。— そのお力は、唱えられた響きを通じて、呼吸に運ばれ、合掌のお姿にまとめられて、ひらかれてまいるのでございます。

そのほかにも、真言霊気には、— 象徴のお名前を、一人立ちの真言としてお唱えになる修法がございます。— 霊気のお取り扱いの場をおもうけにならぬときにも、お唱えくださってまいるのでございます。— 合掌のうちに、大光明を百八べん。— それで、ひとつのまるごとの瞑想となってまいります。— 響きが心をましてまいります。— 繰り返しが、エネルギーの場を立ちあげてまいります。— やがて、お気づきになります。— 「もはや、唱えていない」と。— 「唱えられている」と。

日々の修法のために

象徴のお名前を、声に出してお唱えくださいませ。— まず、五戒から。— 朝晩、合掌のうちに、声に出して。— それから、象徴のお名前を、真言としての修法に。— 百八遍、— 丹田から、呼吸のうえに。— 響きはおえではございません。— 三つ目のかぎでございます。— そのかぎがなければ、ふたつのは、— ざされたままなのでございます。

響きと修法を体感してまいる

三密のまるごとを、ご一緒に

印、真言、観想 — 言霊は、その第二のみつでございます。— 真言霊気のうちで、その三つを、ご一緒に体感してまいることができます。

心の道 霊気の象徴