ひとつの音。— 言葉でもなく、文ではなく、ただひとつの音。— そして、その音のうちに、ひとつの宇宙が宿っております。— 悉曇の音節は、そのようなしくみで生きてまいります。— 一音一音が、宇宙のお力の凝縮であり、— 仏さまへ、菩薩さまへ、宇宙の原理へと通ずる、音の門でございます。— 唱えてまいる方は、ただ音を発するのではございません。— 人の言葉よりも古いお力との共鳴のうちに、入ってまいられるのでございます。
真言宗の伝統において、これらの音節は抽象の概念ではございません。— 生きていらっしゃるのでございます。— 唱えられ、観想され、瞑想のなかで体験されてまいります。— どのお坊さまもよくご存じでいらっしゃいます。— どの行ずる方も、お出会いになります。— そして、その奥に何があるかをお分かりになる方は、— 霊気の象徴の根もまた、お分かりになるのでございます。

種子真言とは種子
サンスクリットでは「ビージャ」 — 種(たね)と申されます。— 日本語では種子(しゅじ)— 種の文字、でございます。— このたとえは、的確でございます。— ちいさな一粒の種に、一本の樹のすべてが宿っておりますように、— ひとつの悉曇の音節に、お一人の仏さまのすべてのお力と智慧が、宿っておりますのでございます。— 象徴としてではございません。— 記憶のしるしとしてでもございません。— ほんものの気配として。
西洋の頭には、不思議に響くかもしれません。— 文字が、どうして仏さまでいらっしゃるのか、と。— けれども、真言の伝統において、しるしとお姿のあいだの境界は、透きとおっておりますのでございます。— 「ア」の響きは、大日如来さまへの指ししるしではございません。— その響きは、— 大日如来さまの音のうえのお姿そのもの、でいらっしゃるのでございます。— 「ア」の悉曇文字は、大日のお絵姿ではございません。— 目に見えるお姿そのものでございます。— 響きと、しるしと、御方は、ひとつ。
ひとつの種子真言には、仏さまのまるごとが宿っておりますのでございます。— 種に樹のまるごとが宿っておりますように。— 唱えてまいる方は、種を蒔かれます。— 瞑想なさる方は、種を育ててまいられます。— 内に深めてまいる方は、— 樹そのものになってまいるのでございます。
阿 — はじまりの音節と、大日如来阿
すべては「ア」よりはじまります。— 世界のどの言葉のうちでも、子どもがはじめにこぼされるのは「ア」の音でございます。— 口がひらかれ、息が流れ、そして音が生まれてまいる。— 力みもなく、舌も唇も使わず。— 純粋。— ひらかれて。— なにものにも濾されておりません。— 真言の伝統において、「ア」はただの一字目ではございません。— あらゆる言葉、あらゆる音、あらゆるお顕れの根、でございます。
「ア」をめぐる瞑想 — 阿字観(あじかん)— は、真言密教の中心の修法でございます。— 高野山 — 空海さま(弘法大師さま)が真言宗をお開きになった聖地 — のお坊さま方は、これを日々お修めになります。— 朝まだ闇のなかで。— 一本の蝋燭の明かりのもとで。— 蓮華のうえに浮かぶ月輪のなかに描かれた、悉曇の「ア」の前で。
行ずる方は、お座りになります。— 息を整えられます。— その文字へと視線を向けられます。— そして起こってまいるのは、言葉では掴みきれぬこと。— けれども、千年余りにわたって、行ずる方々が証してまいられたこと、でございます。— 観るものと観られるものとの境界が、そっと溶けてまいるのでございます。— 「ア」は、もう外にはございません。— 内にいらっしゃいます。— そして内にあったもの — ちいさな、わかれた自分 — が、— 大いなるものの一部として、— 大日如来さまのお顕れとして、自らをお気づきになるのでございます。
バンと、バーン(ヴァン) — 大日如来さまの二つのお姿金胎
大日如来さまには、二つのお姿がございます。— 真言の二つの大きな曼荼羅のなかに、お描きになっていらっしゃいます。— 同じ宇宙の真理の、二つのお側面。— そのおのおのに、独自の種子真言が宿っております。
二つの曼荼羅。— 二つの音節。— 同じ真理の、二つのお側。— 真言密教において、二つの曼荼羅はつねにご一緒に観じられてまいります。— 慈悲のない智慧は冷たく、— 智慧のない慈悲は盲る、と申されてまいったのでございます。— バンとバーンは、吸う息と吐く息のように、— 合掌(がっしょう、合掌)の左の御手と右の御手のように、— つねにご一緒でいらっしゃいます。
ひとつのなかの二つ。— これは、真言の最も深い原理のひとつでございます。— そして、霊気の修法のなかにも、そっと響いてまいります。— 与えることと受けとること、— こころざしと手放し、— 能動のお働きと、静かな許し、— その二つの一致のうちに。
フリーヒ — 阿弥陀如来さまと観音さま弥陀
「ア」がはじまりであるなら、— フリーヒはその応答でございます。— 音節フリーヒは、阿弥陀如来さま(阿弥陀如来)を宿していらっしゃいます。— 無量光と無量寿の仏さま、でございます。— そして同じ音節は、観音さま(観音) — 慈悲の菩薩さま、世のお声を聴き、どんな呼びかけにも応えてまいられる御方 — をも宿していらっしゃいます。

フリーヒは、慈悲の音節でございます。— 真言のお坊さまがフリーヒを唱えてまいるとき、— ただ慈悲というお言葉と結ばれていらっしゃるのではございません。— 阿弥陀如来さまに宿るお力 — どのいのちも見放たぬお力、いつのときにも届いてまいるお力、条件なく照らしてまいるお力 — と、共鳴しておられるのでございます。— 誰を照らすかをお問いになることのない、ひとつの光のように。
観音さま — サンスクリットではアヴァローキテーシュヴァラさま — は、東アジアの仏教のうちで最もよく知られた御方でございましょう。— 日本のあちらこちらに、観音さまはいらっしゃいます。— 道のかたわらに、お寺のうちに、山のうえに。— 観音さまは、苦しむいのちにお会いになるためには、どのお姿にもなってまいられるのでございます。— その御方の種子真言が、フリーヒ、— 「あなたさまのお声、聴いておりますのでございます。— ここにおります」と告げる音、でございます。
フリーヒは、遠い仏さまへのお祈りではございません。— 慈悲そのものの響き — 唱えられ、聴かれ、体験されてまいる響き — でございます。— フリーヒを唱えてまいる方は、観音さまを呼ばれるのではございません。— 観音さまが、ご自身を通って、そっとお働きになるのでございます。
キリーク — 阿弥陀さまの別のお姿光明
音節キリーク(キリク)もまた、阿弥陀如来さまの種子真言でございます。— 日本では、よく墓石に、— 五輪塔(ごりんとう、五輪塔) — 地・水・火・風・空の五大を担う、五段の塔のうちに、お見受けいたします。— 五輪塔の頂のキリークは、— 「故人さまは、阿弥陀さまの光のうちに、すでに包まれていらっしゃる」、— その静かな告げでございます。
日本のいたるところで、こうしたしるしを見つけることができます。— 古い墓地に、山の頂に、巡礼路のかたわらに。— 多くの方は気づかずにお通りになります。— けれども、悉曇の音節をご存じでいらっしゃる方には、— ふと、いたるところに言伝てが見えてまいるのでございます。— どの石にも、どの寺の門にも。— 仏さまは、そのしるしをそっと遺されました。— ただ、見る目を、開いてまいるだけでございます。
そのほかの種子真言 — 響きの宇宙五仏
金剛界曼荼羅の五智如来(五智如来)さまは、それぞれご独自の種子真言を担っていらっしゃいます。— 五つの音をあわせてまいると、ひとつの音の曼荼羅 — 五つの響きのうちに描かれた宇宙の地図 — となってまいるのでございます。
五仏。— 五音節。— ひとつの宇宙の智慧の、五つのお姿。— 真言の瞑想において、— これらは順に名を列ねるのではございません。— ひとつの音として — 五つの方角へとひらかれてまいるひとつの音として — 体験されてまいります。— 白い光が、プリズムのなかですべての色へとひろがってまいるかのように。
阿字観 — 真言密教の中心の修法阿字観
阿字観(あじかん、阿字観)— 「ア」の音節をめぐる瞑想 — は、真言密教の中心の瞑想の修法でございます。— これほど根本であり、これほどシンプルなお姿でありながら、これほどに深淵な修法は、ほかにございません。
行ずる方は、ひとつの絵の前にお座りになります。— 八葉の蓮華のうえに浮かぶ白い月輪、その月輪のなかに金で書された悉曇の「ア」。— 三つのお姿でございます。— 蓮は、世の泥のなかから立ちのぼりながら、汚されぬ心。— 月輪は、目覚めた意識の清みやかさ。— そして「ア」は、真理そのもの — 生ぜず、こわれず、はじまりの前からあり、終わりの後もある、それ — を担ってまいります。

修法は、姿勢から、息から、文字へのまなざしから、はじまります。— それから、音節「ア」を静かに口にするか、— あるいは内に聴いてまいります。— 機械的な反復の真言としてではございません。— 全身を染めとおす振れあいへの、入口として、でございます。— 響きが息となり、息がしるしとなり、しるしが体験となってまいるのでございます。
高野山には、お参りの方々のための阿字観の会を設けてくださるお寺がございます。— 暗いお堂のなかに座し、絵の前で、お香の香りと静けさに包まれて。— 瞑想に親しんでこられなかった方であっても、— 静けさよりもなお深い静けさを、お感じになることがおありとのこと。— どこかではなく、ここに、— このひとときに、— この音のなかに、— やっとたどり着いた、というその感覚を。
悉曇の音節と霊気の象徴靈氣
ここに、多くの霊気のご本ではあまり触れられぬつながりが、あらわになってまいります。— 霊気の象徴は、悉曇の音節と同じ原理にしたがってまいります。— しるしは、お道具として「使う」のではございません。— 瞑想のお対象として、体験されてまいるのでございます。— 機械的に描き移すのではなく、— 内に深めてまいるもの。— 響きと、しるしと、お力は、— ひとつ。
大光明 — 霊気のマスター・シンボル — は、すでにその御名のうちに、このつながりを担っていらっしゃるのでございます。— 大光明、「大いなる光明」。— 阿字観のなかで現れてまいる光と、同じ光のお名でございます。— 大日如来さまの光、すべてを照らす大いなる太陽の光。— お姿は違えども、その原理は、ひとつでございます。
悉曇の音節をご存じでいらっしゃる方は、霊気の象徴を、技を超えた層で受けとめてまいります。— ご自身でお気づきになるのでございます — このしるしは、たまたま選ばれたものではない、と。— インドの悉曇から、中国の陀羅尼の阿闍梨さま、空海さま、— そして臼井甕男(みかお)先生まで、— 切れ目のない系譜のうちに、立っていらっしゃるのでございます。— 聖なるしるしを通したお力のお授けの伝統 — そのお道のひとすじでございます。
悉曇の音節は、霊気の象徴の祖でいらっしゃるのでございます。— 「使う」のではなく「体験する」しるし、— という同じ原理が、— インドの僧院から日本の寺院を経て、今の霊気の修法へと、— ひとすじに流れ続けてまいったのでございます。— 根をご存じでいらっしゃる方は、樹をご存じでいらっしゃるのでございます。
ほんとうの体験 — 「ア」が体のうちでどう感じられてまいるか、— フリーヒが胸のうちにどうひろがってまいるか、— バンが心を、言葉の外の清みやかさへとどう導いてまいるか — それは、文章のうちには、収まりません。— 修法のうちにございます。— 直接の伝授のうちに。— 二人の人のあいだの空間、聖なるものが感じられてまいる空間のうちに。
ここに記すことができますのは、— ひとつのお招きでございます。— これらの音節は、お待ちになっていらっしゃるのでございます。— 千年余りも前から。— 耳でだけお聴きになるのではなく、全身全霊で聴かれてまいることを、お待ちになっていらっしゃいます。— もしかすると、この一文をお読みになりながら、— すでにご自身のうちに、振れるなにかをお感じになっていらっしゃるかもしれません。— 響きの下の、響き。— 知の下の、知。— それが、音節「ア」でございます。— はじめからずっと、そこにいらっしゃるのでございます。