西洋に伝わった霊気では、師範の段階がひとつの目標とされてまいりました。三つの段階を歩み、修了証を受け取り、そして ― それで「師匠」と呼ばれる。少なくとも、紙の上ではそうでございます。けれども、日本の伝統において 道 という言葉には、別の響きがございます。道とは、ここから始まる、という意味なのでございます。
この記事では、なぜ真言霊気において師範の段階が終点ではなく、ひとつの移り目であるのか、そしてなぜ 二年間の道 ― 二十四ヶ月にわたる師匠の道 ― が、実践の本当の核であるのかを、ご一緒にたどってまいります。

「段位」をめぐって 段位
「師範の段階」という概念は、西洋から生まれたものでございます。本来の日本の霊気の実践には、人を「師匠」と宣言する修了証はございませんでした。あったのは 伝授 ― 文字通り「伝え授けること」 ― と、ただ続いてまいります実践だけでございます。伝授はひとつの扉を開きました。その扉を通って歩むかどうかは、それぞれの方の歩みに委ねられていたのでございます。
1980年代、霊気が西洋に渡った折、それは認定の制度に当てはめられてまいりました。三つの段階。明確な順序。最後に、師範。それは理解できることでございます ― 西洋の世界は、なじみある枠組みを必要といたしますから。けれども、その過程で、ある大切なものが失われてしまいました ― 「師匠」とは状態ではなく、過程そのものである、という感覚でございます。
真言霊気が息づきます真言の伝統には、阿闍梨 という概念がございます ― 長い年月の修と伝授を経て、他の方々を実践へとお導きする力を授かった方のことでございます。阿闍梨は、任命されるのではございません。その立ち位置へと、少しずつ育ってまいります。そして、阿闍梨は実践を止めることがございません ― なぜなら、実践は師匠への準備ではなく、実践そのものが師匠の姿であるからでございます。
師匠の道とは何か 道
真言霊気の師匠の道は、二十四ヶ月にわたる体験の道でございます。この道は、真言霊気2の後にひらかれます ― 基礎が置かれ、象徴が内に息づき、病腺の感知が育ってまいりました頃でございます。けれども、師匠の道は、それまでの歩みを繰り返すものではございません。別の層を、そっと開くものでございます。
その中心に置かれますのが 三密 ― 身・口・意、つまり身体と言葉と心の三つの秘密でございます。真言霊気1と2では、それぞれを別々に体験してまいります。師匠の道において、三つは溶け合ってまいります。手に結ぶ印契、口に唱える真言、心に観じる姿 ― それらが、順を追ってではなく、ひとつの瞬間に同時に結ばれてまいります。
容易に聞こえるかもしれません。けれども、容易ではございません。日々の修と、忍耐と、同行が必要でございます。だからこそ、師匠の道は二年にわたります ― 内容が多いからではなく、変容そのものに時間が必要であるからでございます。地に蒔かれた種が、目に見えるところに芽吹く前に、まず根を静かに張るように。
師匠の道は、講座でも制度でもございません。生きた歩みでございます。同じ道を歩む方々と、共に。ご自身の歩みの速さで。そして、この道をすでに歩んでまいりましたマークとアイリーンの同行と共に。概念としてではなく、生きた体験として。
段階と道 段対道
師範の段階と師匠の道との違いは、ひとつの絵に映すことができます ― 段階は頂でございます。道は山々でございます。
ひとつの称号
段階を登り終えた地点。他の方々に伝授を行う権限。週末に受け取られることもございます。その後は ― そこで終わり。
ひとつの道
二十四ヶ月にわたる実践と伝授と深まり。他の方を導く力は、ご自身の変容から自然に育ってまいります。終わりはございません ― ただ地平線がございます。
西洋の制度では、師範の段階を得てから、伝授を行うことが許されます。真言霊気では、順序が逆でございます ― 伝授を技としてだけではなく、自らの体験から渡すことができるようになるまで、深く長く歩んでまいります。この違いは頭の中の話ではございません。本当に道を歩んでこられた方から伝授を受けた折、人は確かに感じ取るのでございます。
師匠の道で起こること 変容
師匠の道は、段階に分かれてまいります ― けれども、それぞれの段階が「内容の包み」というわけではございません。段階は、実践を歩む方の自然な育ちに沿っております。
最初の数ヶ月は、深まりの時でございます。真言霊気2でお受け取りになりました象徴に、より静かに沈んでまいります。それまで気づかれなかった層を、見つけられることがございます。すでに使っておられます遠隔霊気は、より細やかに、より正確になってまいります。瞑想は、より静かになってまいります。
次に続くのが、新たな伝授の時期でございます。師匠の道では、基本の象徴を超えた仏尊と諸力への伝授をお受け取りになります。一つひとつの伝授が、それぞれの扉でございます ― それぞれに真言があり、印契があり、独自の気配がございます。これら諸尊のうちには、真言の伝統から来るものがございます。修験道から来るものもございます。そして、マークが日本において直に受け継いだ系譜から渡されるものもございます。
最後の段階では、統合と受け継ぐことが主題となってまいります。すべてが、ひとつに結ばれてまいります。ご自身の実践の形が、育ってまいります ― 伝統からの逸脱としてではなく、伝統の中の個人の表現として。そして、他の方々をその方の道に同行することができるようになってまいります ― 紙が許すからではなく、ご自身がその道を歩んでこられたからでございます。
師匠の道は、どなたのためのものか 誰
真言霊気を実践される全ての方が、師匠の道を歩まれるわけではございません。それでよろしいのでございます。真言霊気1の中に、ご自身に必要な全てを見つけられる方もいらっしゃいます。真言霊気2まで歩まれ、伝授の会で個々の仏尊を深めてまいられる方もいらっしゃいます。師匠の道は、「ここにはまだ何かがある」と静かに感じておられる方々のための道でございます。そして、その静かな感じに、二年を差し出す覚悟のある方々のための道でございます。
師匠の道に来られる方々のうちには、長い年月の実践を携えてこられる方がいらっしゃいます。また、子どもの頃に抱いた感覚を、そっと胸に抱いてこられる方もいらっしゃいます ― 「ここにはもっと何かがある」というあの感覚でございます。子どものころに惹かれたあの不思議さは、空想ではなく、本物に触れていたのかもしれません。人生の歩みの中で、その感覚はそっと覆われてしまうこともございます。師匠の道は、その感覚を、もう一度呼び戻す道でもございます。
お持ちいただきますもの ― 真言霊気2を基盤として。日々静かに実践に触れる用意を。そして、ご自身が変わってまいる余地を ― なぜなら、師匠の道は変えてまいるからでございます。いつもくつろいだ変容とは限りません。けれども、いつも本物でございます。
日本の視点 日本の視点
日本において 道 という言葉には、西洋ではときに誤って受け取られる意味がございます。武士道 ― 武の道。茶道 ― 茶の道。書道 ― 文字の道。これらの道のいずれにも、「終わり」というものはございません。段階はもちろんございます。けれども、それぞれの段階が次の段階を開いてまいります。道は終わることがございません ― ただ、より深くなってまいるのでございます。
霊気は、この文化から生まれてまいりました。臼井甕男先生は、ご自身の実践を「三つの段階を持つ制度」として構想されたわけではございません。人々に伝授をお授けになり、その方々の道を同行してこられました。段階は後に整えられました ― 実用の枠組みとして。終点として意図されたものではなく。
真言霊気の師匠の道において、私たちはこの本来の感覚へと、そっと戻ってまいります。道が実践でございます。実践が人生でございます。そして、人生には終わりがございません ― ただ、新たな深みが絶えず開かれてまいるのみでございます。
