西洋に伝わった霊気れいきでは、師範しはんの段階だんかいがひとつの目標とされてまいりました。三つの段階を歩み、修了証しゅうりょうしょうを受け取り、そして ― それで「師匠」と呼よばれる。少なくとも、紙の上ではそうでございます。けれども、日本の伝統において 道 という言葉には、別の響ひびきがございます。道みちとは、ここから始まる、という意味なのでございます。

この記事では、なぜ真言霊気において師範の段階が終点ではなく、ひとつの移うつり目であるのか、そしてなぜ 二年間ねんかんの道 ― 二十四ヶ月にわたる師匠の道 ― が、実践じっせんの本当の核かくであるのかを、ご一緒にたどってまいります。

日本の仏壇の前のマーク・ホサック博士
日本の仏壇ぶつだんの前のマーク

「段位だんい」をめぐって 段位

「師範しはんの段階」という概念がいねんは、西洋から生まれたものでございます。本来の日本の霊気の実践じっせんには、人を「師匠」と宣言せんげんする修了証しゅうりょうしょうはございませんでした。あったのは 伝授でんじゅ ― 文字通り「伝つたえ授さずけること」 ― と、ただ続いてまいります実践だけでございます。伝授はひとつの扉とびらを開ひらきました。その扉を通とおって歩あゆむかどうかは、それぞれの方の歩あゆみに委ゆだねられていたのでございます。

1980年代、霊気が西洋に渡わたった折、それは認定にんていの制度せいどに当てはめられてまいりました。三つの段階。明確めいかくな順序じゅんじょ。最後に、師範。それは理解りかいできることでございます ― 西洋の世界せかいは、なじみある枠組わくぐみを必要ひつようといたしますから。けれども、その過程かていで、ある大切なものが失うしなわれてしまいました ― 「師匠」とは状態じょうたいではなく、過程かていそのものである、という感覚かんかくでございます。

「日本では、誰も『あなたは霊気の師匠ですか』とは尋たずねません。問とわれるのは、こうでございます ― 『実践じっせんはどれほど深ふかまっておられますか』。一方は称号しょうごうでございます。もう一方は、生いきておられる人生そのものでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

真言霊気が息いきづきます真言の伝統でんとうには、阿闍梨あじゃり という概念がいねんがございます ― 長い年月ねんげつの修しゅと伝授を経へて、他の方々を実践じっせんへとお導みちびきする力を授さずかった方のことでございます。阿闍梨は、任命にんめいされるのではございません。その立たち位置いちへと、少すこしずつ育そだってまいります。そして、阿闍梨は実践じっせんを止とめることがございません ― なぜなら、実践は師匠への準備じゅんびではなく、実践そのものが師匠の姿すがたであるからでございます。

師匠の道とは何か 道

真言霊気の師匠の道は、二十四ヶ月にわたる体験たいけんの道でございます。この道は、真言霊気2の後にひらかれます ― 基礎が置かれ、象徴しょうちょうが内うちに息いきづき、病びょう腺せんの感知かんちが育そだってまいりました頃でございます。けれども、師匠の道は、それまでの歩あゆみを繰くり返かえすものではございません。別の層そうを、そっと開ひらくものでございます。

その中心ちゅうしんに置かれますのが 三密さんみつ ― 身・口・意い、つまり身体しんたいと言葉ことばと心こころの三つの秘密ひみつでございます。真言霊気1と2では、それぞれを別々に体験たいけんしてまいります。師匠の道において、三つは溶とけ合ってまいります。手てに結むすぶ印契いんげい、口くちに唱となえる真言しんごん、心に観かんじる姿すがた ― それらが、順じゅんを追ってではなく、ひとつの瞬間しゅんかんに同時どうじに結むすばれてまいります。

容易よういに聞きこえるかもしれません。けれども、容易よういではございません。日々の修しゅうと、忍耐にんたいと、同行どうぎょうが必要ひつようでございます。だからこそ、師匠の道は二年にわたります ― 内容が多おおいからではなく、変容へんようそのものに時間が必要ひつようであるからでございます。地ちに蒔まかれた種たねが、目に見みえるところに芽吹めぶく前に、まず根ねを静しずかに張はるように。

核

師匠の道は、講座こうざでも制度せいどでもございません。生きた歩みでございます。同じ道を歩む方々と、共ともに。ご自身の歩あゆみの速はやさで。そして、この道をすでに歩あゆんでまいりましたマークとアイリーンの同行どうぎょうと共ともに。概念がいねんとしてではなく、生いきた体験たいけんとして。

段階だんかいと道 段対道

師範の段階と師匠の道との違ちがいは、ひとつの絵えに映うつすことができます ― 段階は頂いただきでございます。道は山々やまやまでございます。

西洋の師範しはんの段階だんかい

ひとつの称号しょうごう

段階を登のぼり終おえた地点ちてん。他の方々に伝授を行う権限けんげん。週末しゅうまつに受うけ取られることもございます。その後は ― そこで終おわり。

真言霊気の師匠ししょうの道

ひとつの道

二十四ヶ月にわたる実践じっせんと伝授でんじゅと深ふかまり。他の方を導みちびく力は、ご自身の変容へんようから自然しぜんに育そだってまいります。終おわりはございません ― ただ地平線ちへいせんがございます。

西洋の制度せいどでは、師範の段階を得えてから、伝授を行うことが許ゆるされます。真言霊気では、順じゅん序が逆ぎゃくでございます ― 伝授を技わざとしてだけではなく、自みずからの体験たいけんから渡わたすことができるようになるまで、深ふかく長ながく歩あゆんでまいります。この違いは頭あたまの中の話ではございません。本当に道を歩んでこられた方から伝授を受けた折、人は確たしかに感かんじ取るのでございます。

師匠の道で起おこること 変容

師匠の道は、段階だんかいに分かれてまいります ― けれども、それぞれの段階が「内容ないようの包つつみ」というわけではございません。段階は、実践じっせんを歩あゆむ方の自然しぜんな育そだちに沿そっております。

最初の数すうヶ月は、深ふかまりの時でございます。真言霊気2でお受うけ取りになりました象徴しょうちょうに、より静しずかに沈しずんでまいります。それまで気きづかれなかった層そうを、見つけられることがございます。すでに使つかっておられます遠隔えんかく霊気れいきは、より細こまやかに、より正確せいかくになってまいります。瞑想めいそうは、より静しずかになってまいります。

次に続つづくのが、新たな伝授でんじゅの時期じきでございます。師匠の道では、基本の象徴を超こえた仏尊ぶっそんと諸しょ力りょくへの伝授でんじゅをお受け取りになります。一つひとつの伝授が、それぞれの扉とびらでございます ― それぞれに真言があり、印契があり、独自どくじの気配けはいがございます。これら諸尊のうちには、真言の伝統でんとうから来きるものがございます。修験道しゅげんどうから来きるものもございます。そして、マークが日本において直じかに受うけ継ついだ系譜けいふから渡わたされるものもございます。

最後の段階だんかいでは、統合とうごうと受うけ継つぐことが主題しゅだいとなってまいります。すべてが、ひとつに結むすばれてまいります。ご自身の実践じっせんの形かたちが、育そだってまいります ― 伝統でんとうからの逸脱いつだつとしてではなく、伝統の中の個人こじんの表現ひょうげんとして。そして、他の方々をその方の道に同行どうぎょうすることができるようになってまいります ― 紙が許ゆるすからではなく、ご自身がその道を歩あゆんでこられたからでございます。

「師匠ししょうとは、全すべてを知しっている人ではございません。師匠とは、ご自身の道を深ふかく歩あゆんでこられたからこそ、他の方々の入はいり口ぐちを静しずかに示しめすことができる方でございます ― ご自身の道を、その方に強しいることなく。」 マーク・ホサック博士はかせ

師匠の道は、どなたのためのものか 誰

真言霊気を実践じっせんされる全すべての方が、師匠の道を歩まれるわけではございません。それでよろしいのでございます。真言霊気1の中なかに、ご自身じしんに必要ひつような全すべてを見みつけられる方もいらっしゃいます。真言霊気2まで歩まれ、伝授の会で個々ここの仏尊ぶっそんを深ふかめてまいられる方もいらっしゃいます。師匠の道は、「ここにはまだ何かがある」と静しずかに感かんじておられる方々のための道でございます。そして、その静しずかな感かんじに、二年を差さし出だす覚悟かくごのある方々のための道でございます。

師匠の道に来られる方々のうちには、長ながい年月の実践じっせんを携たずさえてこられる方がいらっしゃいます。また、子どもの頃に抱いだいた感覚かんかくを、そっと胸むねに抱いだいてこられる方もいらっしゃいます ― 「ここにはもっと何かがある」というあの感覚かんかくでございます。子どものころに惹ひかれたあの不思議ふしぎさは、空想くうそうではなく、本物ほんものに触ふれていたのかもしれません。人生じんせいの歩あゆみの中で、その感覚かんかくはそっと覆おおわれてしまうこともございます。師匠の道は、その感覚かんかくを、もう一度呼よび戻もどす道でもございます。

お持もちいただきますもの ― 真言霊気2を基盤きばんとして。日々静しずかに実践じっせんに触ふれる用意よういを。そして、ご自身が変かわってまいる余よ地ちを ― なぜなら、師匠の道は変かえてまいるからでございます。いつもくつろいだ変容へんようとは限かぎりません。けれども、いつも本物ほんものでございます。

日本の視点してん 日本の視点

日本において 道 という言葉ことばには、西洋ではときに誤あやまって受うけ取られる意味いみがございます。武士ぶし道 ― 武ぶの道。茶ちゃ道 ― 茶の道。書しょ道 ― 文字の道。これらの道のいずれにも、「終わり」というものはございません。段階だんかいはもちろんございます。けれども、それぞれの段階が次の段階を開ひらいてまいります。道は終おわることがございません ― ただ、より深ふかくなってまいるのでございます。

霊気は、この文化ぶんかから生うまれてまいりました。臼井うすい甕みか男お先生せんせいは、ご自身の実践じっせんを「三つの段階を持つ制度せいど」として構想こうそうされたわけではございません。人々に伝授をお授さずけになり、その方々の道を同行どうぎょうしてこられました。段階は後のちに整ととのえられました ― 実用じつようの枠組わくぐみとして。終点しゅうてんとして意図いとされたものではなく。

真言霊気の師匠の道において、私たちはこの本来ほんらいの感覚かんかくへと、そっと戻もどってまいります。道が実践じっせんでございます。実践が人生じんせいでございます。そして、人生には終おわりがございません ― ただ、新あらたな深ふかみが絶たえず開ひらかれてまいるのみでございます。

マーク・ホサックによる悉曇文字の書 ― 系譜を担う者として
悉曇しったん · マーク・ホサック · 書しょ
道へのご縁えん

師匠の道に触ふれてみる

三つの入はいり口ぐち、ひとつの方向ほうこう ― ご自身の道を、より深ふかく。マークとアイリーンの同行どうぎょうのもと、ご自身の速はやさで、二十四ヶ月をかけて。

師匠の道を見る マーク自身の道