九字切り ― 九つの音節おんせつ、九つの印契いんげい、九つの切きり目め。大衆文化たいしゅうぶんかのうちで派手はでな所作しょさとして映うつるものは、実じつには東ひがしアジアの最もっとも古く、最もっとも深ふかい霊性れいせいの道のひとつでございます。真言霊気においては、九字切りはひとつの要素ようそではなく、九つの段階だんかいと九つの伝授でんじゅからなる、身しん・口く・意いを変かえ続つづける、体系的たいけいてきに深ふかまる師匠の道でございます。

それぞれの段階には、固有こゆうの印契いんげい(手印しゅいん)、固有こゆうの真言しんごん、そして固有こゆうの力ちからがございます。九つの段階は順じゅんに積つみ重かさなってまいります ― 任意の並ならびではなく、ひとつの力が次の力の下地したじを築きずく有機的ゆうきてきな道でございます。第一だいいちを飛とばして第九だいきゅうから始はじめることはございません。道みちそのものが実践じっせんでございます。

禅の印契 ― 九字切りの結実
禅ぜん · 九字切りの第九だいきゅうの印いん

九字切りの源流げんりゅう 源流

九字切りは忍術より古く、武士の伝統でんとうよりも、日本の仏教よりも古いのでございます。九つの字は四世紀の道教どうきょうの書 抱朴子ほうぼくし(葛洪かっこう著)に遡さかのぼります。そこには、荒野こうやを越こえる折おりの守まもりの呪じゅとして唱となえられる九つの字じ ― 臨兵闘者皆陣列在前 ― が記しるされております。

中国ちゅうごくから朝鮮半島ちょうせんはんとうを経へて、その実践じっせんは日本へとまいりました。日本では、修験道しゅげんどうの山伏やまぶしがそれを取とり入れ、霊性れいせいの実践じっせんのうちに編あみ込こみました。真言宗と天台宗の密教みっきょうのなかで、密みつの伝統でんとうの印契と真言とひとつに融とけ合いました。そして、伊賀いがと甲賀こうがの忍しのび ― 山伏と密みつに触ふれ合っておりました ― がそれを受うけ継つぎ、その伝統でんとうの中心となる要素ようそに育そだてたのでございます。

つまり、九字切りはひとつの源みなもとから生まれたものではございません ― 道教どうきょうの呪術じゅじゅつ、修験道しゅげんどう、真言密教みっきょう、神道しんとう。幾世紀いくせいきのうちに育そだった融合ゆうごうでございます。真言霊気においては、この幾重いくえもの層そうが守まもられ、ひとつの伝統でんとうに還元かんげんされることはございません。

「九字切りは、仏教の儀礼でも、道教の儀礼でもございません。これらすべての伝統を通とおり抜ぬけて、独自どくじの何かになった道でございます ― それぞれの源みなもとよりも、奥おくに達たっするもの。」 マーク・ホサック博士はかせ

九つの段階の概観がいかん 九字

九つの段階のそれぞれが、漢字かんじと真言しんごんと力を担になっております。ここに概観がいかんを ― 網羅もうら的なご説明せつめい(それぞれの段階の深ふかみは伝授と実践を必要ひつようといたします)としてではなく、道の方角ほうがくを定さだめる道みちしるべとしてお受うけくださいませ。

力の名は、大おおげさに聞きこえるかもしれません ― そして、大おおきなものでございます。けれども、超人ちょうじん的な能力という意味いみではございません。霊性れいせいのあらゆる伝統に知しられる知覚ちかくの力ちからを体系的たいけいてきに育そだてる、ということでございます ― 現前げんぜん、直観ちょっかん、共感きょうかん、集中しゅうちゅう、目めに見みえるものを越こえて感かんじ取る力ちから。九字切りは、これらの力が偶然ぐうぜんに育そだつのではなく、確たしかに育そだってまいる道でございます。

道の構かまえ 道の構え

九字切りの師匠の道は、印契から始はじまるのではございません。礎いしずえから始はじまります ― 瞑想めいそう、呼吸こきゅう、気きの知覚ちかく。この礎いしずえなくしては、印契は空からの所作しょさに過すぎません ― 内に力を持もたぬ外の形にとどまります。だからこそ、真言霊気においては、九字切りのそれぞれの段階が、霊気の実践じっせん全体ぜんたいのうちに収おさめられております。

それぞれの段階には三つの次元じげん ― 三密、真言密教みっきょうの三つの秘ひ ― が含まれます。身体しんたい(印契、手印)、言葉ことば(真言)、そして心こころ(観想かんそうと瞑想めいそう)。三つすべてが同時どうじに働はたらくとき、その段階の本来ほんらいの力が展ひらかれてまいります。これが、九字切りを書物しょもつや映像えいぞうから体験たいけんすることができぬ理由りゆうでございます ― 伝つたわるのは情報じょうほうではなく、伝授でんじゅであるからでございます。

三密 ― 三つの秘

身: 印契 ― それぞれの段階に固有こゆうの手印が、身体のうちの気きの流ながれを変かえてまいります。
口: 真言 ― それぞれの段階に固有の音おとが、身体のうちで共鳴きょうめいし、意識いしきを整ととのえてまいります。
意: 観想 ― それぞれの段階に固有の内うちなる像すがたが、その力との結むすびつきを生うみます。

段階と段階のあいだに、実践じっせんがございます。知識ちしきでも、理解りかいでもございません ― 実践じっせんでございます。印契は、考かんがえずとも結むすべるようになるまで修しゅうします。真言は、口くちに出だすというより聴きこえてくるまで唱となえてまいります。観想は、思おもい描えがくものから体験たいけんするものへと深ふかまってまいります。そのとき ― そしてそのときにのみ ― 次の段階の用意ができたのでございます。

はじめの三つの段階 ― 礎いしずえ 臨兵闘

リン 臨 ― 第一段階 ― 内うちなる強つよさを育そだてます。固かたさでも、筋肉きんにくの力でもございません ― ご自身に根ねを下おろす力ちからでございます。リンの印契は両手りょうてを結むすび、気きの身体を密ちめます。真言は丹田たんでん ― 下腹かふくの気きの中心を呼び覚まします。リンを修してまいりますと、外そとの状況じょうきょうに左右さゆうされぬ安定あんていが、しずかに育そだってまいります。

ピョウ 兵 ― 第二段階 ― 力に方向ほうこうを与あたえます。リンが力を築きずき、ピョウがそれを必要ひつような所ところへ導みちびいてまいります。印契は変かわり ― 指ゆびが新たな形かたちを結むすび、気きの流ながれを中央から外へと向むけます。本来の実践においては、ピョウは心こころを目的もくてきへと定さだめるために用いられました。今日においては ― 集中しゅうちゅう、決断けつだんの清明せいめい、気きを散ちらさぬ力ちからでございます。

トウ 闘 ― 第三段階 ― 調和ちょうわを育そだてます。「すべてが善よし」という意味いみではなく、共鳴きょうめいという意味いみでございます ― ご自身の気が、周まわりの気と息いきを合あわせてまいります。トウを修しゅうされる方は、すべてが結むすばれていることを感かんじ始められます ― ご自身の気、場ばの気、周まわりの方々の気。理論りろんではございません。実践じっせんのうちで育そだつ知覚ちかくでございます。

闘の印契 ― 九字切り
闘とう · 師匠の道の第三だいさんの印いん

中なかほどの段階 ― 感覚かんかくを越こえた知覚ちかく 者皆陣

第四段階 ― シャ 者 ― から、焦点しょうてんは外そとなる力から内うちなる知覚ちかくへと移うつってまいります。シャは自みずからを整ととのえる力 ― ご自身の気きの状態じょうたいを意識いしきして導みちびく力 ― を育そだてます。これがその後すべての下地したじでございます。なぜなら、高たかき力ちから(直観ちょっかん、共感きょうかん、遠隔えんかくの知覚ちかく)は、細こまやかな合図あいずを受うけ取れるほど静しずかな心こころを必要ひつようといたしますから。

カイ 皆 ― 第五段階 ― 直観ちょっかんの知覚ちかくを開ひらきます。忍しのびの伝統でんとうにおいては、カイは危あやうさを事前じぜんに感かんじ取る力として記しるされました。霊性れいせいの文脈ぶんみゃくでは、最もっとも深ふかい意味いみでの直観ちょっかんでございます ― 五感ではなく、気きの場ばを通とおして働はたらく知覚ちかく。カイを修しゅうされる方は、考かんがえる前にすでに知しっておられる、ということが増ふえてまいります。

ジン 陣 ― 第六段階 ― 知覚ちかくを他たの方かたへと広ひろげてまいります。思おもいと感情かんじょうを感かんじ取る ― 空想くうそうのうちの読心術どくしんじゅつではなく、相手あいての気きの場ばを読よむ磨みがかれた共感きょうかんでございます。霊気の実践じっせんのうえで、ジンは特とくに大切たいせつでございます ― ジンを深ふかめた方は、相手が言葉ことばにする前に、その方が必要ひつようとされるものを感かんじ取られます。

後のちの三つの段階 ― 師匠の姿すがた 列在前

第七から第九の段階は、師匠の段階でございます。その具体的ぐたいてきな内容ないようについては、伝統でんとうのうちで公おおやけに語かたられることはございません ― 秘ひを守まもるためではなく、直接ちょくせつの体験たいけんのうちでしか理解りかいできぬからでございます。「空間くうかんと時間じかんを越こえる」「悟さとり」といった言葉ことばは、陳腐ちんぷに聞きこえるか、幻想げんそうのように聞きこえるか ― どちらも、その本ほん当の姿すがたには届とどきません。

お伝つたえできるのは、このことでございます ― レツ 列 は物理的ぶつりてきな空間くうかんを越こえるものに働はたらきかけてまいります。ザイ 在 は修しゅうする方を自然しぜんの力ちからと結むすびます ― 比喩ひゆではなく、直じかな気きの体験たいけんとして。そして ゼン 前 ― 第九段階 ― 道全体ぜんたいが向むかう場所ばしょでございます ― 完まったき清明せいめい、すべての段階だんかいがひとつの状態じょうたいのうちに結むすばれる場所ばしょ。

マークは、この道を幾いく十年にもわたって歩んでまいりました ― 田口流忍術(如拳如変術)の継承者けいしょうしゃとして、そして真言霊気の創始者そうししゃとして。ハイデルベルク大学における研究けんきゅうは、九字切りの歴史的れきしてきな根ねを学術的がくじゅつてきに記録きろくいたしました。実践じっせんは、それを生いかしてまいりました。真言霊気においては、九字切りの師匠の道は開ひらかれております ― 閉とざされた会かいの秘ひではなく、歩む覚悟かくごのあるどの方にも開ひらかれた道として。

「九つの字じは、九つの技わざではございません。九つの門もんでございます。それぞれの門の奥おくには、これまで思おもい描えがかれた何なによりも大おおきな世界せかいがございます。道は長ながうございます。けれども、それは第一だいいちの字から始はじまります ― そして、第一の字は今いまでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

九字切りと真言霊気 ― ひとつの道 一つの道

真言霊気においては、九字切りと霊気は分わかれた道みちではございません。同じ道の二つの面めんでございます。霊気の実践じっせん ― 瞑想めいそう、手当てあて、象徴しょうちょう、真言 ― が礎いしずえでございます。九字切りはその礎を深ふかめ、西洋せいようの霊気れいきには含ふくまれぬ次元じげんへと広ひろげてまいります。

その結むすびつきは歴史的れきしてきでございます ― どちらの実践じっせんも、真言密教みっきょう、修験道しゅげんどう、そして道教どうきょうの呪術じゅじゅつに根ねを下おろしております。どちらも印契、真言、観想 ― 真言宗の三密の実践じっせん ― を用います。そして、どちらも同じ処ところへと導みちびいてまいります ― 霊性れいせい、気き、そして具体的ぐたいてきな日々の営いとなみのうちで、人間の本来ほんらいの力ちからを展ひらく処へ。

九字切りの師匠の道は、第一だいいちの一歩いっぽを踏ふみ出だしたいどの方にも開ひらかれております。事前じぜんの知識ちしきは不要ふようでございます ― 表面に映うつるものよりも深ふかくまでまいる道に身みを委ゆだねる、その覚悟かくごだけが必要ひつようでございます。そして、第一だいいちの字じ ― 臨 リン ― はすでにお待まちしております。

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九字切り ― 最初の伝授

九つの字。九つの力。幾世紀いくせいきのあいだ歩まれてきた道。そして、それは最初さいしょの一歩いっぽから始はじまります。

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