武士の方が、お床に跪ひざまずかれていらっしゃいます。— お目めはお閉とじになって。— お傍かたわらに、お刀かたながお置きになっていらっしゃいます。— 外からご覧になりますと、お静しずけさのようにお見えになります。— けれども、その閉じられたお目めのうしろでは、お死しへのご覚悟かくごのあるお心こころがお働はたらきでいらっしゃいます。— 日本の武士は、おくつろぎのために瞑想なさったのではございません。— 次つぎの戦たたかいのうちに生き残るために、瞑想なさったのでございます。

これは、西洋せいようでは殆ほとんどお失うしなわれになった次元じげんでございます。— 瞑想は、今では、おくつろぎの技わざとして商あきなわれてまいります — 日々のお労つかれに、十分の気きづきを、と。— けれども、日本の瞑想のお根ねは、ウェルネスのお商しょういのうちには、ございません。— 密教みっきょう、修験道、神道しんとう、シャーマン的道教どうきょうの伝統のうちに、ございます。— そして、霊的なお修めがお余暇よかのお働はたらきではなく、生き残ることのお土台どだいであった男女だんじょの方々によって、なさいました。

禅と剣 — 戦のうちの無心無心

禅と剣のお術わざのお繋つながりは、偶然ぐうぜんではございません。— 歴史のうちに育まれ、哲学てつがくのうちに必要なものとして、結ばれてまいりました。— 禅のうちには、剣の方がどなたもお理解いただかねばならぬ御原理がございます — 無心 無心(むしん)、心こころのない心。— 思い巡めぐらしがおやめになり、お動うごきが、お分析ぶんせき、お疑い、お惧れの回り道なしに、まっすぐ感かんのお働はたらきから流れてまいる状態じょうたいでございます。

なぜ、それが命にかかわるほどのものでありましたのでしょう。— 剣のお立たち合あいには、お考かんがえのお暇いとまがないからでございます。— お相手のお打うちは、一秒いちびょうのうちのお分わかれでお到来とうらいになります。— その瞬間に「お左にお避さけるか、お右にお避けるか」とお考えになる方は、すでに打うたれていらっしゃいます。— お心をお空にされた方のみが、十分にお速はやくお動きになります。— 禅の坐禅ざぜんは、武士がこの空のお心をお育そだみになるためのお道具どうぐでございました。— 道場のうちで、ではなく — 瞑想のお座蒲ざふのうえで、でございます。— お時ときのながれを重かさねて、毎日。— お心の静けさが、抜ぬかれた剣のお圧おのもとでも保たもたれるほど、深くなるまで。

名高なだかき御原理 剣禅一如 剣禅一如(けんぜんいちにょ) — 「剣と禅は一つ」 — は、まさにこのお一いち体たいを表してまいります。— 剣のお師の沢庵宗彭たくあんそうほう禅師さまは、十七世紀せいきに剣のお師の柳生宗矩やぎゅうむねのりさまへのお手紙てがみのなかで、こうお説ときになりました — お心は、どの一ひと点てんにもお留とどまりになってはなりません、と。— ご自身のお剣にも、お相手のお剣にも、勝ち負まけへの念にも。— 留まる方は、亡くなります。— お放しになる方が、生き残ります。— これが禅でございます — ご講説こうせつとしてではなく、生きるお術すべとして。

「武士にとって、禅は霊的なお余暇よかではございませんでした。— 生き残るためのお修練しゅうれんでございました。— ご自身のお心をお治おさめにならない方は、次の戦いを生き残られなかったのでございます。— かくほど単純たんじゅんに、かくほど厳きびしく、かくほどまことに。— そして、まさにこのご真摯しんしさこそが、今のお受うけとめのうちには、ほぼ完全にお欠かけでいらっしゃいます。」 マーク・ホサック博士

真言 — 真言、印、霊的な御鎧真言

禅がお心をお空になさるあいだ、真言は何かをお付つけ加くわえてまいりました — お力でございます。— 真言宗の密教は、三つのお道具を同時にお使いいたします — 三密 三密(さんみつ)、三つのお秘密ひみつでございます — 真言(お音)、印いん(お手のお形かたち)、観想かんそう(内なるお像ぞう)。— ともに、もっとも近き言葉ことばで申もうし上あげますならば、霊的な御鎧よろいと呼よべるものをかたちづくってまいります。

武士は、戦の前にこのお修めをお使いになりました。— 不動明王 不動明王(ふどうみょうおう) — 揺るがぬお明王みょうおう、武士の守護尊そん — の真言をお誦じゅしになりました。— 内なるお力をお結むすびにするために、お手で印をお結むすびになりました。— そして、戦場でご自身を取とり巻まくお守まもりの光ひかりと炎ほのおのお環わを、ご観想かんそうになりました。— これは、ご迷信めいしんではございませんでした。— ご集中、ご意志、内なるご安定あんていを、極の圧あつのもとで体系的たいけいてきに育んでまいる、お修めでございました。

お働きは、神秘的しんぴてきなご説明せつめいなくしても、お解かいになることができます — 戦の前に二十分ぷんのあいだ真言をお誦しになり、お息をお治めになり、お心をひとつのお像にお集あつめになる方は、お惧れと思いの渦うずに流ながされる方とは、まったく異なるお状態にお入はいりになります。— 真言のお修めは、武士に内なるお骨組ほねぐみをお授さずけくださいました — 外がすべて崩くずれても、保たれるお構かまえでございます。

大切たいせつなお点てんでございます — これらのお修めのお源は、仏教のみのうちには、ございません。— 真言のお修めは、シャーマン的道教と古きシャーマンの伝統のうちにもお根ねを持ち、中国と朝鮮ちょうせんを経て日本へとお渡りになりました。— 印は、修験道のお手のお形と山伏の伝統に結びついていらっしゃいます。— 真言宗は、交まじわりの場でございます — シャーマン、道教、神道、仏教の流ながれがともに合流するところでございます。— まさにそのために、このお修めはかくも力強くいらっしゃいます — お一つにいくつもの伝統の知恵をお担にないいたします。

修験道 — 山のうちの鍛きたえ修験道

禅がお心を磨き、真言がお心に御鎧をお着きせまいりますならば、修験道はお人全体を鍛えてまいります。— 山伏 山伏(やまぶし) — 山の行者ぎょうじゃ — は、お体を避さけるのではなく、お含ふくみになる霊的な深まりのお修めをなさいました。— 幾日いくにちもの険けわしい山のお歩あるき。— 凍るお滝たきのもとでの瞑想。— 断食。— お不眠ふみん。— すべては、お体の境さかいのお体験たいけんによりお心を強めてまいる、ひとつのお志こころざしのためでございました。

多くの武士が、来るお挑いどみに備そなえるために、山中で修験道のおこもりをお修めになりました。— 苦のお修めのため、ではなく — ご体験たいけんのため、でございます — 凍るお水のもとでも静かにお息をなさることをお覚おぼえになった方は、戦場のうえでもお体のご制御せいぎょをお保たもちになります。— 何日も空のお腹はらで歩み続けられた方は、お体が「もうやめたい」とお申しになる地点ちてんをご存じでいらっしゃり — その向むこうにまだお力があると、お知りでいらっしゃいます。— このご体験は、ご講説でお替かわりになりません。— ご自身のお体で、お果はたしになる必要がございます。

修験道そのものは、組織化そしきかされた日本仏教よりも、古きものでございます。— 日本のお原住げんじゅうの方々のシャーマンのお修めと、道教の気のお働きの術わざ、神道のお自然しぜんのお敬うやまい、仏教のお儀礼ぎれいとを、お結びいたします。— 修験道をなさる方は、いくつもの千年せんねんを遡さかのぼる流れのなかにお立ちでいらっしゃいます — ひとつのお宗しゅうの境界をはるかに越えて。— 武士はそれをご存じでいらっしゃいました。— 一つの伝統をお選びにはなりませんでした。— お働きになるすべてを、お使いになりました。

御原理

瞑想は、日本の武士にとって、三重じゅうでございました。— 禅がお心を空にし、真言がお心に御鎧をお着せ、修験道がお人全体を鍛えてまいりました。— この三つのお柱はしらは、ともに、今のお意味いみでの「瞑想」をはるかに超える体系たいけいをかたちづくってまいりました。— おくつろぎのお道具では、ございませんでした — 霊的、お体的なお練ねり達たつのご土台どだいでございました。

剣禅一如 — 剣とお心は一つでいらっしゃる剣禅一如

剣禅一如の御原理は、多くの方がお読みになるよりも、深きものでございます。— 「禅をお修めになり、より巧たくみにお戦いくださいませ」と申すだけではございません。— こう申してございます — 剣のお道と瞑想のお道は、同じ道でございます、と。— 互たがいに補おぎなうお二つのお修めではなく — 同じお心の動うごきが、お異なるお形でいらっしゃるのでございます。

剣のお師がお切りをお運はこびになりますとき、もっともよきお場合ばあいには、深い瞑想のうちに起こるのと、まったく同じことが起こります — 「我」がお退しりぞきになります。— お動きになる方とお動きとのお別わかれが、お解とかれてまいります。— 剣をお振ふるう剣の方はもうおいでにならず — ただ、お切りのみがおわすのでございます。— この状態を、古きお師方は 無我 無我(むが) — 我のないお姿すがた — とお呼びになりました。— そしてそれは、禅の瞑想のうちに 悟さとり(さとり)としてご体験になるものと、同じでございます — すべての境さかいがお落おちになる、その瞬間でございます。

「剣禅一如は、譬えではございません。— 瞑想のうちに十分に深くお入りになる方は、剣のお師がお切りの瞬間にご体験になるのと、同じお静けさ、同じ明らかさにお巡めぐり合あいになります。— 武士のお道とお心のお道は、二つのお道ではございません。— 元来、ただ一つでございました。」 マーク・ホサック博士

武士にとって、このお一いっ体たいは、抽象的ちゅうしょうてきな哲学ではございませんでした。— 毎日のご現実げんじつでございました。— お朝、お座蒲のうえで坐禅。— それから、道場のうちで剣のお稽古。— それから、お家の御祭壇ごさいだんの前で真言のお誦。— すべてが、お修めでございました。— すべてが、同じものへとお向むかっていらっしゃいました — どんなお事情のもとでも動どうじないお心。— 遅れなくお従したがうお体。— 内と外のお一体 — それが、決定の瞬間に、生と死のお分わかれをお意い味してまいったのでございます。

あなたさまにとってのお意味

ご自身は、お剣をお携たずさえではいらっしゃいません。— けれども、お戦いになっていらっしゃいます — 毎日、でございます。— お気の散らされ、お疑い、お注意を千々にお裂さこうとなさる世よのお騒さわがしさに対して。— 武士の瞑想は、歴史のお遺のこりものではございません。— ひとつのお招まねきでございます — お命がそれにかかっていた方のごとくお真摯しんしに、ご自身のお修めをお受うけとめくださいませ、と。

これは、お滝のもとにお立たつことや、何日もお断食になることを意味しているのではございません。— こういうお意味でございます — 毎日、お修めくださいませ、と。— お心をお空にしてくださいませ。— 不都合つごうになっても、おわすままにいらっしゃいませ。— ご結果けっかを求めてではなく、お姿勢しせいを求めてお修めくださいませ。— このご真摯しんしさ — お固かたくなさってではなく、ご奉献ほうけんのお姿すがたで — が、お違ちがいをお生みになります。— 武士の方々はそれをご存じでいらっしゃいました。— そして、そのお知恵は、真言霊気のうちに今も生きてまいります。

瞑想と武道のお繋がりを、お読みになるだけでなく、ご自身のお体でお感じになりたいとお望みでいらっしゃいますか。— tengu-akasha-dojo.de にて、霊能の武道のお修めをお訪たずねくださいませ — 内なるお静けさとお体のお力が、ともにお集つどうところでございます。

武士のお道

武士のお修めとしての瞑想

毎日のお規律きりつ、内なる明らかさ、段階だんかいを追おっての深まり。— 禅、真言、修験道がともにお集まりになるお道を、どうぞお確たしかめくださいませ。

心の道 霊的武士の道