武道のうちでは、「気」と申します。— 霊気のうちでも、「気」と申します。— 同じお言葉でございます — そして、同じお力でございます。— 象徴でも、譬えでも、お詩のお言葉でもございません。— 氣 は、息づくもの、お動きになるもの、おわすものすべてを通じて流れてまいる命のお力でございます。— 日本の剣のお師方は、それをご存じでいらっしゃいました。— 霊気を行ずる方々は、それをお感じになります。— そして両のお世界をご存じの方は、すぐにお気づきになります — ここにはお分かれがない、と。
西洋では、武道とエネルギーのお修めは、しばしば反対のお姿でとらえられてまいります。— 一方には、お規律、お硬さ、お体。— もう一方には、お静けさ、お柔らかさ、お心。— けれども、日本では、このお分かれは、いついつ存じませんでした。— 武士は瞑想なさいました。— お僧は剣のお術をお稽古になりました。— お二人は、同じお力 — 気 — をお使いになりました。— そして、お二人ともご存じでいらっしゃいました — このお力は、お心が完全にお静かになるときにのみ、自由にお流れになる、と。
漢字「氣」 — お一字を超えるもの氣
気の古い漢字 — 氣 — には、多くの方にはお見えにならないお物語がございます。— 外側のお姿は、立ちのぼる蒸気、息、お動きになりお放たれてまいるものを表してまいります。— 内側には、お米のお字 — 米 — がございます。— お滋養、お本質、お根本のものでございます。— 気は、ですから、抽象的なものではございません。— 生きたお本質が、お動きになっているお姿でございます。— 息とお滋養が、ともに。— お体を生かしてまいるお力、そしてお心をお目覚めにしておくお力でございます。
今のお書き方では、漢字は 気 へとお簡くなってまいりました。— 内側のお米が、お消えになったのでございます。— おそらく、それは何かをお示しでございます。— お字をお簡くなさったとき、お本質も失われてまいったのかもしれません。— 真言霊気のうちでは、意識して古いお姿 — 氣 — をお使いいたします。— 気をまことにご理解になりたい方は、満ちたお意味をお見になる必要がございます。— お簡くなったかたちでは、ございません。
この気は、日本のお文化のすべてを貫いてまいります。— 元気(げんき) — 命のお力、お元気。— 天気(てんき) — 天のお気、御天気。— 勇気(ゆうき) — 勇ましきお気、ご勇気。— 病気(びょうき) — 病のお気、ご病気。— そして、霊気(れいき) — 霊なるお気、お心のお力でございます。— 気は、特別な秘儀のお修めではございません。— 日本の方々が幾世紀にもわたり「生きていらっしゃる」とお呼びになってきたお言葉そのものでございます。
気合 — お声がお力となるとき氣合
剣道のお試合をご覧になったことのある方は、あの叫びをご存じでございます。— 大きく、深く、お腹の底から。— それが 気合 気合(きあい) — 文字どおり「気の合うところ」でございます。— 攻撃の叫びでは、ございません。— 完全なるご存在のお叫びでございます。— 気合がお響きになる瞬間、もうお疑いも、お躊躇も、分かれた意識もございません。— 全き人が、ひとつの点のうちにお凝集になります。
お声は、気をお運びになります。— 古き日本のお師方も、真言の御僧侶がお真言とお働きになるときも、それをご存じでいらっしゃいました。— 剣のお師が気合をお放ちになるとき、ご自身の命のお力を、ひとつのお音のうちにお凝集になります。— お声が、お力のお器となります — 真言霊気のうちでお唱えになる真言と、お変わりはございません。— おしくみは、同じでございます — 息がお音をかたちづくり、音がお意を運び、意が気をお動きになります。
気合だけで、お相手をお止めになったお師方の記がございます — お大きさによってではなく、その叫びのうちにあった気のお質によって、でございます。— 西洋のお耳には、おそらく信じがたく聞こえます。— けれども、真言の御僧侶が満ちたお力で真言をお誦しになる御姿に立ち会われたことのある方は、この現象をご存じでいらっしゃいます — お場が、お変わりになるのでございます。— お感じになる何かが、お入りになります。— 音が大きいから、ではございません — そのお背後の力が、まことのものだから、でございます。
無心 — 空のお心無心
武道と霊気のもっとも深いお類似は、おそらく日本の方々が 無心 無心(むしん) — 空のお心 — とお呼びになる状態のうちにございます。— 無はお無、お空。— 心はお心、お精神。— 無心は、ご自我がお黙りになる状態でございます。— 内なるお解説がない。— ご判定がない。— お惧れがない。— ただ、純粋で開かれた感のお働きのみ、でございます。
お考えになる剣のお師は、亡くなります。— 戦いの瞬間に、お分析、お疑い、ご戦略のお暇はございません。— 心がお悟るより前に、お体がお動きになる必要がございます。— ですから、武道家は長年同じお動きをお稽古になります — お覚えになるためではなく、お忘れになるため、でございます。— ご術が、お心がお制御になる必要のないほど深く根を下ろしになって、はじめて生きてまいります。— そのときはじめて、気がお動きを通じてお流れになります — お心によってお止められることなく。
霊気のお修めのうちにも、まったく同じことが起こってまいります。— お働きのうちに「正しくいたしているのか。— 十分にお感じになるのか。— エネルギーは流れているのか」とお考えになる方は、お流れをお塞ぎになります。— ご自我が、お道のうちにお立ちになっているのでございます。— 行ずる方が、お試みをおやめになり、ただおいでになるとき — 開かれたお手、静かなお心 — お移しが深くなってまいります。— 無心は、空のお頭ではございません。— ご関心から自由になった、満ちて目覚めたお心でございます。
残心 — 続いてまいる目覚め残心
お切りのあとに、もっとも危うい瞬間がおいでになります。— 戦いのうちに、ではなく — 戦いのあとに、でございます。— お緊張がお緩みたくなり、お心がお休みたくなり、お注意が途切れそうになるとき。— まさにそこに、残心 残心(ざんしん) — 残るお心 — がお入りいたします。— お働きが終わっても終わらない、目覚めのお心でございます。
日本の弓道においては、残心がもっともはっきりと現れてまいります。— 矢は、もう弦を離れました。— 飛んでまいります。— お当たりに、あるいはお外れに。— けれども、射ずる方は、お動きになりません。— お腕は開かれたまま、お視線は明らかに、お息は深く。— お崩れの瞬間も、急なお確認もございません。— 射ずる方は、お姿勢のうちに留まられます — まるでまだ射が終わっていないかのように。— お心にとって、まことに、終わっていないのでございます — お注意は、お体がお止まりになっても、生き続けてまいります。
この御原理は、霊気のお修めにも、そのままお移りになります。— お働きは、お手をお持ち上げ、お部屋をお離れることでお終わりになるのではございません。— 最後のお分のお質 — お手をゆっくりとお放しになること、ご余韻をお感じになること、お静けさのうちに意識してお留まりになること — が、ご体験のお響きの深さをお決めになります。— 霊気の残心は、こういうお意味でございます — お生じになったお繋がりを、お敬いになる、と。— お開きになったものを、急に断ち切られない、と。— 気にご自身のおリズムをお許しになり、目覚めて、おいでになる — お介入されることなく、お急かしになることなく。
お切りと、お手を置かれること氣
剣のお師は、お腕でお切りになるのではございません。— ご全身でお切りになります — もっと正しくは、気でお切りになるのでございます。— お力は大地から始まり、お足、お腰、お胴を通って、お腕に流れ、お刃を通ってお運ばれてまいります。— お師の御姿をご覧になる方は、すぐにお気づきになります — お動きが、お軽くお見えになる、と。— お弱いから、ではございません — お体に、抵抗がないからでございます。— 緊張なさったお筋もなく、お固くお抑えになったお肩もなく、痙攣のあるお握りもなく。— 自由なお流れ。— それが、気のお働きでございます。
気は、抵抗のないところに流れてまいります。— 剣のお師は、お刃が的を滑るがごとくお運ばれになります — お体が透き通ったものとなったから、でございます。— 霊気を行ずる方は、エネルギーがお手を通じてお流れになるようお許しになります — お心が透き通ったものとなったから、でございます。— 同じ御原理でございます。— 表しのみが、お変わりです — お刃か、お手のひらか。
霊気のうちには、まさに同じことが起こってまいります — お刃なしに、ではございますが。— エネルギーは、宇宙から行ずる方を通じて、お手を経て、お受けになる方へとお流れになります。— ここでも同じでございます — 行ずる方がお道のうちにいらっしゃらなくなるほど、お移しは明らかになってまいります。— ご意志のお力でお押しになる方は、お塞ぎになります。— お放しになる方が、お道すじとなってまいります。— よき剣のお切りと、ふつうのお切りとを分かつ御原理と、まったく同じでございます — そして、深い霊気のご体験と、表面的なものとを分かつ御原理と、同じでございます。
このお類似は、偶然ではございません。— 霊気は、武道と霊的なお修めが切り離しがたく織り合わされていたお文化のうちに生まれてまいりました。— 臼井甕男先生は、武士のお家のご出身でいらっしゃいました — このお繋がりを、ご自身のご体験からよくご存じでいらっしゃいました。— 気は、お二つのお異なるものではない、と先生はご存じでいらっしゃいました — 戦のために一つ、エネルギーのお働きのために一つ、ではございません。— 多くのお顔を持つ、ひとつのお力でございます。— ひとつのお分野のうちでまことにご理解になる方は、もうひとつのお分野のうちでも、ご理解になります。
あなたさまのお修めにとってのお意味
霊気をなさるとき、あなたさまは気をもって、おなさいになります — 日本の武士が幾世紀にもわたりお育みになってきた、まさに同じお力でございます。— このことをご存じになると、お姿勢がお変わってまいります。— つまり、霊気は、お受身のおくつろぎの技ではございません。— 目覚めをお要しになる、ご奉献と毎日のお修めのお規律でございます。— どなたかにお命じになるから、ではなく — お力が、まことにお受けとめになるご覚悟のある方にのみ、お開きになるから、でございます。
お手をお置きになるとき、無心をお修めくださいませ。— 内なるお解説をお静めくださいませ。— お手をお放しになるとき、残心をお修めくださいませ。— お目覚めのままに、おいでくださいませ。— ご体験のご余韻を、お響かせくださいませ。— そして、気合をお思い出しくださいませ — お声、お息、お真言 — どれも気をお運びになります。— ご意識してお使いくださいませ。— ご術としてではなく、ご全き命の表しとして。— 気は、お持ちになるかならないか、というものではございません。— ご自身が「ある」もの、でございます。— ただ、お流れをお許しになるかどうか、という問いだけでございます。
気をご理解になるだけでなく、お動きのうちにお感じになりたいとお望みでいらっしゃいますか。— tengu-akasha-dojo.de にて、霊能の武道のお修めをお訪ねくださいませ — 気のお働きとお体のお働きが、ともにお集うところでございます。