「忍者」とお聞ききになると、おそらく黒くろき装束しょうぞく、手裏剣しゅりけん、音おとのせぬ暗殺者あんさつしゃを思おもい浮うかべられるでしょう。映画えいがと大衆文化たいしゅうぶんかが描えがいた姿すがたでございます。誤あやまってはおりません ― けれども、真実しんじつの半分はんぶんにも達たっしておりません。武術ぶじゅつの奥おくに、多くの方が思おもい及およばれぬほど深ふかくまで達たっする霊性れいせいの伝統でんとうが息いきづいておるからでございます。

本物ほんものの忍しのび ― 忍者 あるいは 忍び シノビ ― は、ただの戦士ではございませんでした。真言密教みっきょう、修験道しゅげんどう、神道しんとう、そして道教どうきょうの呪術じゅじゅつを結むすぶ霊性れいせいの伝統でんとうを修しゅうされる方々でございました。印契いんげい、瞑想めいそうの技わざ、極きわめての圧あっのもとで心こころを静しずかに保たもつ力ちから ― それらすべては道場どうじょうからではなく、寺院じいんから来きたものでございます。

列の印契 ― 九字切りの列なりから
列れつ · 武術ぶじゅつと印契の出会い

九字切り ― 忍の霊性れいせいの核かく 九字切り

九字切り ― 「九つの音節を切きる」 ― は、忍術の霊性れいせいの側面そくめんのうちで最もっとも知しられたものでございます。九つの印契いんげい、九つの真言、空間を切きる九つの切きり目。大衆文化たいしゅうぶんかのうちで、常つねに目めに触ふれる姿すがたでございます ― 漫画や映像作品の中で、繰くり返かえし映うつされる幻想げんそうのひとつでございます。けれども、その由来ゆらいを知しっておられる方は少すくのうございます。そして、今いまもなお修しゅうされていることを知しっておられる方は、もっと少すくのうございます。

九字切りは忍術にんじゅつから生うまれたものではございません。忍はそれを受うけ継ついだのでございます ― 道教どうきょうの呪術じゅじゅつ、修験道しゅげんどう、密教の伝統でんとうから。九つの字は中国ちゅうごくの 抱朴子ほうぼくし ― 四世紀の道教どうきょうの書 ― に遡さかのぼります。そこから朝鮮半島ちょうせんはんとうを経へて日本へ渡わたり、修験道しゅげんどうの山伏やまぶしに取とり入いれられました。伊賀いがと甲賀こうがの忍 ― 山伏と密みつに触ふれ合っておりました ― がその実践じっせんを受うけ継つぎ、伝統でんとうの中心となる要素に育そだてたのでございます。

九つの字じのそれぞれが、固有こゆうの力を呼よび覚さまします ― 強つよさ、方向ほうこう、調和ちょうわ、自みずからを整ととのえること、気配けはいを察さっすること、思おもいを感かんじ取ること、空間と時間を越こえること、自然の力を導みちびくこと、悟さとり。忍は任務の前にこれらを用いました ― 中央へ戻もどるため、守りのため、知覚を研とぐため。けれども、九つの字は軍事ぐんじの用もちいよりも古く、奥おくに達たっします。幾世紀いくせいきのあいだ東ひがしアジアの修道しゅどうの伝統でんとうのうちで育そだてられた、意識いしきの状態じょうたいへの門もんでございます。

「九字切りは武術ぶじゅつの技わざではございません。東ひがしアジアの最もっとも古い霊性れいせいの実践じっせんのひとつでございます ― 道教どうきょうの呪術じゅじゅつ、修験道しゅげんどう、密教に根を下おろしております。忍しのびがそれを用いた事実じじつは、それがいかに力ある実践じっせんであるかを映うつす姿すがたでございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

修験道しゅげんどう ― 忍の霊性の根 修験道

修験道 シュゲンドウ ― 「修しゅうと験げんの道」 ― は山伏やまぶし ― 日本の山岳さんがくの修行者しゅぎょうしゃたち ― の伝統でんとうでございます。独立どくりつした宗教しゅうきょうではなく、融合ゆうごうでございます ― 密教、神道しんとう、道教どうきょうの呪術じゅじゅつ、そして古来こらいの山岳さんがくの霊性れいせいがひとつになり、身体を変容へんようの器うつわとして用いる実践じっせんへと結むすばれました。

山伏やまぶしは滝たきの下で瞑想めいそうします。燃もえる炭すみの上うえを歩みます。山々を登のぼり、断食だんじきし、荒野こうやのうちで真言を唱となえます。彼らにとって、自然しぜんは背景はいけいではございません ― 自然そのものが寺院じいんでございます。そして、彼らの実践じっせん ― 九字切り、護摩ごまの火の儀礼ぎれい、真言の唱となえ、霊性れいせいの守まもりの儀礼ぎれい ― は、忍しのびもまた用いた実践じっせんと同おなじものでございます。

この関係かんけいは歴史的れきしてきに確たしかでございます。伊賀いがと甲賀こうがの忍の本拠地ほんきょちは、修験道しゅげんどうの中心地のすぐ近ちかくにございました。多くの忍しのびがそのまま山伏でもあり ― あるいは山伏のもとで修しゅうしておりました。「山岳さんがくの修行者しゅぎょうしゃ」と「忍しのび」のあいだの境さかいは、しばしば溶とけておりました。そして、忍しのびに帰きせられる霊性れいせいの力ちから ― 不可視ふかし、予感よかん、読心どくしん ― は、修験道しゅげんどうのうちで体系的たいけいてきに育そだてられる瞑想めいそうの力ちからに他ほかなりません。

石の鳥居のそばのマーク・ホサック ― 戦士の道の静かな境
境さかいのうえで · 日本の石いしの鳥居とりい

田口流忍術とマーク・ホサック 田口流

マークはただの研究者けんきゅうしゃではございません。田口たぐち流忍術 ― 如拳如変術にょけんにょへんじゅつ、仏ぶつの拳こぶし ― の継承者けいしょうしゃでございます。これは世代せだいから世代へと伝つたえられる系譜けいふでございます ― 書物しょもつからではなく、師から継承者への直接ちょくせつの伝授でんじゅのうちで。この結むすびつきが、マークが忍術にんじゅつについて語かたるだけでなく、内うちから知しっておられる理由りゆうでございます。田口流忍術の修しゅうには、如拳にょけん棒術ぼうじゅつ、立棒術りゅうぼうじゅつ、円棒術えんぼうじゅつ ― すべての修しゅうが「仏ぶつの拳こぶし」の原理げんりのもとに ― が含ふくまれます。

この伝統でんとうのうちでマークが体験たいけんされてきたものは、その後のちのすべての歩あゆみを形かたちづくってまいりました。忍術と密教のあいだ、九字切りと真言宗のあいだ、印契と瞑想めいそうのあいだの結むすびつき ― これらは理論りろんのうえの関係かんけいではございません。実践じっせんのうちで体験たいけんされる生いきた結むすびつきでございます。マークのハイデルベルク大学における博士論文はくしろんぶん ― 「日本の美術びじゅつにおける悉曇しったん」 ― は、まさにこれらの結むすびつきを学術的がくじゅつてきに研究けんきゅういたしました ― 日本の伝統でんとうにおける霊気、九字切り、儀礼ぎれいの書しょの起源きげんを。

学問と実践じっせん

マークは、めったに同居しないものを結むすんでおります ― ヨーロッパで最もっとも定評ていひょうのある日本学学科がっかの一つにおける学術的がくじゅつてきな研究けんきゅうと、生いきた田口流忍術(如拳如変術)の系譜けいふのうちでの直接ちょくせつの伝授でんじゅを。これに加くわえて、真言霊気の創始者そうししゃとして、また日本における二十五年を超こえる霊性れいせいの体験たいけんをお持もちでございます。この合あわせが、忍術と真言霊気のあいだの橋はしを可能かのうにしております。

忍の霊性と真言霊気を結むすぶもの 繋がり

この結むすびつきは、作つくられたものではございません ― 歴史的れきしてきに育そだったものでございます。九字切り、印契、真言、守まもりの儀礼ぎれい、心こころを集あつめる力、知覚を研とぐ力 ― これらすべてが、忍術にも真言宗にも共ともに見みられます。一方いっぽうがもう一方から生まれたわけではなく、双方そうほうが同おなじ源みなもとから湧わき出でたからでございます ― 密教、修験道、道教の呪術じゅじゅつ。

真言霊気においては、これらの流ながれが合流ごうりゅうしております。三密の実践じっせん ― 身、口、意 ― が礎いしずえでございます。印契いんげい(手印しゅいん)、真言、観想かんそうは、忍しのびもまた用いた同おなじ道具どうぐでございます。違ちがうのは場ばのみ ― 戦いではなく、変容へんよう。生いき延のびるためではなく、目め覚ざめるため。力ちからは同おなじでございます ― それを用もちいる道は、ご自身じしんのお選えらびでございます。

多くの方にとって ― 大衆文化たいしゅうぶんかを通とおして初はじめて印いんと日本の霊性れいせいに触ふれられた方々にとっては特とくに ― この結むすびつきこそが入はいり口ぐちでございます。皆さまは印いんを目めになさり、感かんじておられました ― そこに本物ほんものの何かがある、と。正ただしかったのでございます。東ひがしアジアの最もっとも古く深ふかい霊性れいせいの伝統でんとうのひとつが、奥おくに息いきづいております。そして、それは開ひらかれております。

「子どもの頃に映像のうちで御覧ごらんになった印いん、呪文じゅもん、目めに見みえぬ力ちからは、創作そうさくではございませんでした。本物ほんものの何かを映うつす記憶きおくでございました。そして ― それは今もなおございます。」 マーク・ホサック博士はかせ

今日の忍術 ― 武術を越こえて 現在

忍術の軍事ぐんじの側面は過去かこのものでございます。封建ほうけんの戦いくさはもうございません。夜よるの城しろ攻ぜめもございません。残のこったもの ― そして今いまこそ大切たいせつなもの ― は、霊性れいせいの次元じげんでございます ― 心を集あつめる力、知覚を研とぐ力、障害しょうがいを越こえる力、極きわめての状況じょうきょうのうちで清明せいめいを保たもつ力。

これらの力は戦いくさの場ばに必要ひつようなのではございません。暮くらしのうえで必要ひつようなのでございます。瞑想めいそうのうちに、仕事しごとのうちに、関かかわりのうちに、世界が多おおすぎて心が静しずかな錨いかりを必要ひつようとする瞬間しゅんかんに。九字切りはまさにその錨いかりでございます。九つの字じ。九つの力ちから。幾世紀いくせいきのあいだ働はたらき続つづける実践じっせん ― 信じるからではなく、身体と心のうちに感かんじ取れる変かわりを呼よぶからでございます。

真言霊気においては、九字切りは独立どくりつした実践じっせんの道でございます ― 九つの段階、九つの伝授、書物や映像えいぞうには収おさまらぬほどの体系たいけいある深ふかまりとして。古き忍しのびの伝統でんとうと近代きんだいの霊性れいせいの実践じっせんのあいだの橋はしを架かける道でございます。

実践に出会う

九字切り ― 九つの字

印の背後はいごに息いきづく霊性の実践じっせんを発見はっけんしてくださいませ。九つの段階。九つの力。幾世紀いくせいきを超こえて息いきづく伝統でんとう。

九字切りを発見する 皆さまの道