怒りは、人がご体験になりうる最も力強いお働きのお一つでございます。— 燃え、固まり、砕く。— だからこそ、真言の伝統において、特別なお場所をお持ちでいらっしゃいます。— 抑えるべきものとしてではなく、— 原料(もと)として。— 変ずべきお力として。— この変容(へんよう)の御方が、— 金剛薩埵 金剛薩埵(こんごうさった) — ダイヤモンドの菩薩さまでいらっしゃいます。— そして、怒り、お罪のお感じ、業の滞りに対するお働きは、— 西洋でしばしば思われていることの反対でいらっしゃいます。
多くの霊性の伝統で、怒りはお障りとお考えになります。— お手放しになるべきもの、お溶かしになるべきもの、お乗り越えになるべきもの、と。— 真言の伝統において、怒りはお病ではございません。— まだ磨かれていないダイヤモンドでいらっしゃるのでございます。
御名 — 金剛薩埵とは、どのようなお意味でしょうか金剛薩埵
ヴァジュラ(金剛)は、密教の中心となる象徴でございます。— 悟りの不壊なるご性質を表してまいります。— 何ものにも傷つけられない真理。苦しみにも、無知にも、最も激しいお気持ちにも。— 金剛薩埵さまは、その原理を生きたお姿として体してくださる御方でいらっしゃいます。— 怒り、不安、癖の下に隠れていらっしゃっても、— ダイヤモンドのご性質が、私たちひとりひとりのうちに本来お備わりであることのお証しでいらっしゃいます。
真言の宇宙観のなかの金剛薩埵さま金剛界
金剛界曼荼羅(金剛界曼荼羅) — ダイヤモンド世界の曼荼羅 — のうちで、金剛薩埵さまは中心のお位置にいらっしゃいます。— 内なる輪のなか、大日如来さまのお傍に。— あるお伝えのうちに、金剛薩埵さまは宇宙の仏さまの最初のお現れであるとお記しになっております。— 形なき悟りが、ひとつのお姿をお取りになる、その瞬間でございます。
これにより、金剛薩埵さまは、絶対と相対の間、宇宙の真理と人の体験の間の橋渡しの御方でいらっしゃいます。— 私たちが今、どのような姿であるかと、— これからどのような姿になりうるかを結ぶ橋。— その橋は、お避けによって作られるものではなく、— 変容によって作られるものでございます。
百字明 — 百字の清めのお言葉百字明
金剛薩埵さまにまつわる最もよく知られた実践は、百字明 百字明(ひゃくじみょう) — サンスクリットではシャターアクシャラ・マントラでございます。— 仏教の伝統のなかで最も長く、最も力強い真言のお一つ。— 百のサンスクリットの音(おん)が、ある順序のうちに唱えられてまいります。— ひと音ひと音が、ひとつの清め、ひとつの変容、業の結びをそっと解くひと切れでございます。
チベットの伝統では、この真言は「四つの根本の修法」(ンゴンドロ)のお一つとされてまいります。— 十万回の繰り返しの後に、行ずる方は深い修法へと進ませていただくことが許されてまいります。— 日本の真言の伝統では、金剛薩埵さまの実践は儀礼の枠のうちに伝えられてまいります。— 機械的な繰り返しとしてではなく、伝授の御一部として。
変容(へんよう)の本来のお意味転
西洋では、仏教の伝統における「変容」のお意味について、よくある勘違いがございます。— 怒りを愛でお置き換えになることでも、お腹立ちを平和とお交換になることでも、お否定的なお気持ちをお肯定的に変えられることでも、ございません。— それは、霊性のお衣をまとった抑圧でございます。
真言の伝統は、変容を別のお形でお解になります。— 怒りは、お力でございます。— 怒りとして体験される同じお力が、清らかさとしてご体験になられる、— ご自我へのお執着がお手放しになるとき。— 怒りは消えてまいりません。お力はそのまま残ります。— けれども、その性質がお変わりになるのでございます。— 盲(めし)いた怒りから、見るお力へ。— 反応からお働きへ。— ご混乱から、ダイヤモンドへ。
これがヴァジュラのお象徴するもの。— 生のお力を、不壊なる清らかさへとお変えになること。— 金剛薩埵さまは、この道のりを体してくださる御方でいらっしゃいます。— そして、瞑想のうちに、行ずる方ご自身がこの御方とおなりになるよう、お招きされてまいります。— 想像のうちにではなく、— 直のお体験として。
怒りは、お敵ではございません。— まだ磨かれていないダイヤモンドでいらっしゃいます。— 金剛薩埵さまの実践は、お腹立ち、お罪のお感じ、お不安のうちに束ねられたお力をお取りになり、— それを別のものへとお変えになるのではなく、— その本来の姿へとお戻しになります。— 清らかさへ。— これは譬えではございません。— 瞑想のなかに直に体験されるお身体のご感じでございます。

金剛薩埵さまと霊気靈氣
ダイヤモンドの菩薩さまと、霊気とに、どのようなお繋がりがおありでしょうか。— ご想像よりも、もっと多くのお繋がりがございます。— 霊気のお授けのたびに、行ずる方は、ご快くないお力にお出会いになります。— お滞り、お固まり、お身体に蓄えられたお感情の古いお荷。— 多くの方の本能は、これらのお力を「お送り出す」、あるいは「お溶かす」ことをお望みになります。— けれども、それがいつも正しき道とは限りません。
金剛薩埵さまの御視点からは、別のお道がございます。— お滞りのお力を、お敵とせず、— 原料(もと)としてお見つめになる。— 固まったお力を、お溶かしになるのではなく、お変えになる。— 怒りをお押しのけになるのではなく、— 透き通るようにお変えになる、— 後ろにずっと潜んでいた清らかさが透けてまいるまで。
真言霊気のうちに、このお姿勢は具体的にお現れます。— 第二の段階のうちには、難しいお力の変容に直に向き合う技がございます。— お闘いではなく、お避けでもなく、— ご臨在によって。— 伝統が加持 加持(かじ)と申されるもののうちに。— 宇宙のお力と人のお気づきの相互の透過のうちに。— ご自身がお留まりに。— 場をお持ちに。— するとお力が、そっと変わり始めてまいります。— お強いになるからではなく、— 清らかさはお力の本来のお姿でいらっしゃるからでございます。— 執着がなくなるとき、自然にお現れになります。
三毒とその変容三毒
仏教において、苦しみの三つの根本のお原因は三毒 三毒(さんどく)とお呼びされてまいります。— 貪(とん、お貪り)、瞋(じん、お怒り)、痴(ち、お無知)。— 真言の伝統において、これらの三毒はお闘いの対象ではございません。— 覆われた三つの智慧のお姿としてお解になります。
お貪り — ご自我へのお執着がお手放しになるとき — は、分別の智慧としてお現れになります。— 大切なものとそうでないものをお見分けになるお力。— お怒り — 自己中心がお透き通りになるとき — は、大円鏡智(鏡のお智慧)としてお現れになります。— 物事を有りのままにお見つめになるお力。— お無知 — お気づきがおひらきになるとき — は、法界体性智としてお現れになります。— あらゆるお現れの本来のご性質をお知りになるお力でございます。
金剛薩埵さまは、この変容のお道のりにお寄り添いくださる菩薩さまでいらっしゃいます。— そのヴァジュラは、三毒をお切り取るのではなく、— その本来のご性質をお見せくださいます。— だからこそ、金剛薩埵さまの実践は、お修正ではなく、— お清めとしてお解されてまいります。— お汚れをお取り除くのではなく、— その下に本来からお在(いま)していらっしゃる清らかさを、そっと明かりに照らしてまいるのでございます。
ヴァジュラとお鈴 — 菩薩さまのお道具金剛鈴
お像のうちに、金剛薩埵さまは二つのものをお持ちでいらっしゃいます。— 右の御手にヴァジュラ(金剛杵、金剛杵)、— 左の御手にお鈴(金剛鈴、金剛鈴)。— ヴァジュラは不壊の清らかさを表してまいります。— 男性的な、お働きになる、お切りになるお力でございます。— お鈴は、空の智慧を表してまいります。— 女性的な、お受け取りになる、すべてをお包みになるご性質でございます。
二つを合わせて、ひと対でいらっしゃいます。— 清らかさと智慧、方便と悟り、慈悲と空。— 真言の伝統の儀礼の実践において、ヴァジュラとお鈴は具体的な御道具としてお使いいたします。— 御僧の方が両御手にお持ちになり、— その結びを通じて、悟りの二つの面の完全なる一つを、お呼びさましくださるのでございます。