日本では、観音さまには、いたるところでお出会いいたします。— お墓のかたわら、お寺の境内、山の頂上、道のほとり。観音さまは、お聴きになることをお休みになることのない御方でいらっしゃいます。— お呼びすれば、必ずお応えくださいます。分け隔てなく。
真言密教において、観音さまは特別なお位置にいらっしゃいます。— ただお祈りを捧げるためのお姿ではございません。— 観音さまは、霊気が流れてまいる伝授のお流れのなかにいらっしゃる御方でいらっしゃいます。— そして、十二世紀の覚鑁さまがお書きになったように、— すべての有情の心のなかに、ひと輪の蓮の花として、静かにお宿りでいらっしゃいます。
御名 — 観音さまとは、どのようなお意味でしょうか観音
正式の御名は観世音(かんぜおん、観世音) — 「世のすべての声をお聴きになる御方」でいらっしゃいます。— 古い経典には、観音さまがあらゆる呼びかけを、同時に、すみずみまでお聴きになる、と記されております。— ただの超えた力ではなく、果てしない共感のお姿として、自然に現れてまいります。— 観音さまは、お聴きにならずにはいらっしゃいません。慈悲は、お選びになることではなく、— 観音さまの本来のご性質でいらっしゃいます。
サンスクリットの御名はアヴァローキテーシュヴァラ — 「下を見つめる御主(ぬし)」でございます。— インドでは元々、男性のお姿でいらっしゃいました。— 仏教が中国・日本へと伝わるにつれ、お姿は変わってまいられました。日本では、観音さまは千変万化のお姿で現れてまいります。— ある時はやさしく、ある時は女性として、ある時は十一面、また千の御手とともに。— お姿は変わります。慈悲は、変わりません。
真言の伝統のなかの観音さま真言
真言の御学(みおしえ)において、観音さまはただの崇めの対象を超えていらっしゃいます。— 観音さまは、真言霊気が流れてまいる伝授のお流れのなかにいらっしゃる御方でいらっしゃいます。— 大日如来 — 千手観音 — 薬師如来 — 不動明王 — 虚空蔵菩薩、というお流れ。観音さまは、宇宙の仏さまの直後の二番目の環に立っていらっしゃいます。— つまり、大日如来さまのお力が霊気として世に出でてまいる前に、それは慈悲を通って流れてまいるのでございます。
これは、偶然ではございません。— 真言の御学において慈悲(慈悲、慈悲)とは、属性のひとつではございません。— それは、宇宙のお力が流れることを許す、ただひとつの通路でございます。慈悲なきところに、伝授はございません。共感なきところに、霊気は流れません。— 観音さまがそのお位置に立っていらっしゃるのは、慈悲がすべての条件でいらっしゃるからでございます。
真言の改革者でいらっしゃる覚鑁さま(1095〜1143)は、阿字観のお書のなかで、心のなかの蓮の花を観音さまそのものとお記しになりました。— 瞑想のなかに咲く蓮の花。それは、遠い昔より、すべての有情のなかに本来お備わりになるもの。— 外の救いではなく、内なるご性質。阿字観の瞑想のうちに心の蓮を観じてまいるとき、観音さまにお逢いするのでございます — ご自身のなかで。
千変万化のお姿変化
観音さまは、ただひとつのお姿で現れてまいるのではございません。— 苦しむ有情が必要とするお姿を、お取りになるのでございます。真言の伝統では、六つの主なお姿が崇められてまいりました。— 六道のそれぞれに対する一つずつ。— そのうち三つは、特に実践のうえで大切でございます。
千手観音
千手観音千の御手、千の御眼。— ひとつひとつの御手にはお助けの御道具。ひとつひとつの御眼が、苦しむ有情をご覧になります。— 京都の三十三間堂、奈良の唐招提寺には、何百もの千手観音さまが、この限りない見守りと御業を体してお立ちでいらっしゃいます。
十一面観音
十一面観音十一の御面。— そのうち三つはやさしく、三つはお叱りに、三つはお励ましに、ひとつはお笑いに、ひとつは仏さまとして。— 十一の御面が、同時にすべての方向をご覧になります。お見逃しになる方は、お一人もいらっしゃいません。— 密教の伝統では、十一の意識のお働きと結ばれていらっしゃいます。
如意輪観音
如意輪観音願いを叶える宝珠(如意)と、法輪(輪)をお持ちの菩薩さま。六本の御手、お頬に御手を当てて思案のお姿で。— ちょうど、こちらのお願いに今、お耳を傾けていらっしゃるかのように。誠実な願いの成就をお司りでいらっしゃいます。
聖観音
聖観音最も素朴で、最も清らかなお姿。— 二本の御手、ひと輪の蓮の花。— 聖観音さまは、その原の御姿でいらっしゃいます。— 余分の御手も、十一の御面も、宇宙的なお装飾もなく。ただ、慈悲のみ。— 清らかに、まっすぐに、静かに。

曼荼羅のなかの観音さま曼荼羅
胎蔵界曼荼羅(胎蔵界曼荼羅) — 真言の伝統の母胎の世界の曼荼羅 — のなかで、観音さまは独自のお領域(観音院、観音院)をお持ちでいらっしゃいます。— 曼荼羅の心の近く、大日如来さまのお傍に。— このお位置が物語っております。— 慈悲は余のことではなく、宇宙観の心そのものでいらっしゃるのでございます。
儀礼の伝統において、観音院がお働きになるのは、お守りについて、看取りについて、心のお開きについて。— 真言の寺院で観音さまの瞑想を行ずる方は、曼荼羅のこのお領域に静かにお入りになります。— ただの想像ではなく、儀礼の実相として。御印を結び、真言を唱え、瞑想する者は、その間、観音さまとひとつになってまいります。
真言真言
観音さまの最もよく知られた真言は、千手観音さまの真言でございます。—
キリク(キリーク)は、サンスクリットの悉曇フリーフの日本のお発音 — 観音さまの種子でいらっしゃいます。真言の実践のうちに、この悉曇文字を心に観じてまいります。— 黄金の光を放ち、月輪のうえ、蓮の花の上に。— 真言を唱えながら同時に悉曇を観じてまいるとき、三密の実践がひらかれます。— 身(印)、口(真言)、意(観想)。— 三つのしるしが、同時にお働きになるのでございます。
西洋でよく知られている真言「オン マニ パドメ フム」は、チベットの伝統に由来し、同じ御方 — アヴァローキテーシュヴァラ — のお力でございます。— 日本の真言密教では、めったに用いられません。— こちらでは、観音さまには日本独自の真言があり、伝授のお流れのなかで受け継がれてまいります。
観音さまと霊気靈氣
菩薩さまと霊気とに、どのようなお繋がりがあるのでしょうか。— 西洋の霊気を行ずる多くの方が想像なさるよりも、もっと深いお繋がりでございます。真言霊気の伝授のお流れは、観音さまを通って流れてまいります。— つまり、すべての伝授、すべての気のお運び、すべての御授かりの場が、観音さまの慈悲に静かに満たされていらっしゃるのでございます。— ただのお考えではなく、エネルギーの構造として。
実践のうえでも、それは具体的に現れてまいります。— 霊気をおあげになる方は、お聴きになります。— 御耳ではなく、御手で、お身体まるごとで。御手は、お感じになります。— 気の滞りを、痛みのお在所(ありか)を、流れたがっているところを。— この身体で聴くお姿は、まさに観音さまがあらわされるところ。— 観 — 観じる。音 — 音を。— 御手のひとを抱く、その音を。
霊気をお授けすることは、観音さまの実践でございます。— 御手をお当てになるたびに、お相手の必要とするものをお感じになるたびに、— 観音さまが太古より続けていらっしゃることと、同じ実践をなさっていらっしゃるのでございます。— 聴き、感じ、お応えになる、と。— 霊気を機械的に「あてる」方と、本当に共にいてくださる方との違いは、まさにこれ。— 慈悲。— ひと言もなく、お相手のお声をお聴きになるお力でございます。

三十三のお寺 — 観音さまの巡礼巡礼
日本には、いくつかの観音さまの巡礼の道がございます。— 最もよく知られておりますのは、西国三十三所(西国三十三所) — 西日本の三十三のお寺の巡礼でございます。— 三十三のお寺、それは観音さまが法華経のうちに三十三のお姿で現れてまいるとお説きになっているからでございます。
マークは、これらのお寺をお参りいたしました。— ある時は、京都での三年間の研究の御滞在のうちに、ある時は、その後の御旅のなかで。— ひとつひとつのお寺には、それぞれの観音さまのお姿。— 一つには千手観音さま、もう一つには十一面観音さま、また別のお寺には如意輪観音さま。— このお姿の豊かさは、ひとつのお話を語っていらっしゃいます。— 慈悲は、必要とする方に合わせて、お姿を変えてまいる。— 定まったお姿はなく、— その瞬間に最も相応しいお姿をお取りでいらっしゃいます。
マークとアイリーンがご案内いたします霊性の日本巡礼にも、観音さまのお寺は欠かせない場所でございます。— 観音さまのお像のかたわらにお立ちになるとき、— 博物館ではなく、暁の四時にお経をお唱えになる御僧の方々のいらっしゃる生きたお寺で — 慈悲という言葉の意味が、静かに変わってまいります。— もう、概念ではなく。— お顔をお持ちになります。千の御顔を。
身代り観音 — お身代わりに立ってくださる御方身代
日本の観音さまの最も心打たれるお姿のひとつが、身代わり観音(みがわりかんのん、身代わり観音) — 文字どおり、「お身代わりにお立ちくださる御方」でございます。— 全国に、観音さまが危険に瀕した方の代わりにお立ちになったお話が、数多く伝えられております。— 処刑を宣告された侍が、その朝、自身の代わりに傷ついた観音像をお見つけになった、と。火事に閉じ込められた女性が、見知らぬ御方にお救い出されたのち、近くのお寺の観音像にお焦げのお跡を見つけた、と。
これらのお話は、ただの奇跡譚ではございません。— 真言の伝統において御学として正確に表される、ひとつのことを伝えてまいります。— 観音さまは、お遠い御方ではいらっしゃいません。— その近さは、ご自身と観音さまとのあいだの境を、そっと透き通すほどでいらっしゃいます。— 阿字観の瞑想のうち、心の蓮が開いてまいるとき — まさにそれが、お体験になることでございます。— 瞑想する者と、宇宙の慈悲との間に、もはや隔たりはございません。