不動明王 ・ 高野山のお寺の青銅像 ・ 火焔光と剣と羂索
不動明王 ・ 火焔光かえんこうと剣けんの青銅像せいどうぞう

忘わすれられないお顔かお

不動明王 ― ふどうみょうおう。文字もじどおり、揺るがざる明王みょうおうでいらっしゃいます。はじめてお姿すがたを拝はいするとき、多おおくの方かたが思おもわず身みを引ひかれます。引ひき絞しぼられた眉まゆ、むき出だしの牙きば、右手みぎての剣けん、左手ひだりての羂索けんさく。お背せには火焔かえんが燃もえさかります。

けれど、これは魔物まものではございません。明王みょうおうでいらっしゃいます ― 大日如来だいにちにょらいの忿怒ふんぬのお姿すがたでございます。その厳きびしいお顔かおは、慈悲じひのお働はたらきそのものでございます。お背せの炎ほのおは人ひとを焼やかれません。人ひとを縛しばっているものを静しずかに焼やき清きよめてくださるのでございます。

忿怒ふんぬのお顔かおのうしろに、不動明王はやさしく、あたたかい御方おかたでいらっしゃいます。お怒いかりはご自身じしんに向むけられたものではございません ― ご自身じしんが自由じゆうになられることを妨さまたげているものに向むけられているのでございます。

不動明王の持もたれるもの ― そしてその意味いみ

不動明王のお姿すがたは、偶然ぐうぜんに形かたちづくられたものではございません。一つひとつのご持じ物もつに、ふかい霊性的れいせいてきな意味いみがそなわっております。お姿すがたを静しずかにご理解りかいされるとき、そのお力ちからもご理解りかいになります。

剣けん
剣けん ・ 智慧ちえのお刀かたな
迷まよいと業ごうのかたまりを静しずかに断たたれます。正確せいかくに、清すみわたって、逃にげられることなく。もう役やくを終おえられたものを、静しずかに切きり放はなたれるのでございます。
火か
火焔かえん ・ お清きよめの炎ほのお
障さわりを静しずかに溶とかしてくださる、お清きよめの炎ほのおでございます。固かたくなり、こびりついたものを、裁さばくことなく静しずかに焼やき清きよめてくださいます。
羂けん
羂索けんさく ・ 結むすびの縄なわ
抑おさえられるべきものを捕とらえ、結むすばれます。壊こわすお働はたらきの型かたを静しずかにつかまえて、これ以上働はたらかないようにお留とどめくださいます。

剣けんと炎ほのおと羂索けんさく ― この三みっつはあわせて、変容へんようのひとつの体系たいけいとなっております。羂索けんさくが業ごうのかたまりを静しずかに捕とらえます。剣けんがそれを断たちます。炎ほのおが残のこりを清きよめます。あとに残のこるのは、清すみわたりでございます。

業ごうのかたまり ― なぜそれほどに頑かたくなでございますか

どなたもご存ぞんじの感かんじでございます。繰くり返かえされる型かた。いつも同おなじように立たちあがる反応はんのう。どれだけ気きづきがあっても消きえていかない主題しゅだい。あるかたまりは幼おさない頃ころからのものでございます。あるかたまりはもっと奥おくにまで届とどいております。

仏教と霊性的れいせいてきなお伝つたえのなかで、これは業ごうのかたまりと呼よばれてまいりました。罰ばつのお話はなしではなく、刻きざみつけのお話はなしでございます。身体しんたいに、気きのなかに、振ふるまいに、何なにかが静しずかに書かき込こまれているのでございます。そしてここに難むずかしさがございます ― 気きのうえで固かたくなったものは、頭あたまのうえだけでは解とけないのでございます。

不動明王の働はたらき

不動明王はやさしくお働はたらきにはなりません。直じかにお働はたらきになります。そのお力ちからは、ほかの道みちがそこで静しずかに立たち止どまる場ばで静しずかに働はたらかれます ― 何年も、世代せだいを越こえて固かたくなった業ごうのかたまりに。分析ぶんせきでも、ご理解りかいでもございません。気きそのもののお働はたらきのなかでの変容へんようでございます。

慈悲じひとしての忿怒ふんぬ

西洋せいようの感覚かんかくでは、慈悲じひとお怒いかりは反対はんたいのものとされております。真言の伝統でんとうのなかでは、そうではございません。不動明王はその最もっともよきお姿すがたでございます ― 慈悲じひのお心こころからのご忿怒ふんぬでございます。解とき放はなたれることをお願ねがいになるからこそ、燃もえていらっしゃるのでございます。その強つよさは攻撃こうげきではございません ― ご決意けついでございます。

やわらかな霊気だけでは足たりないご状況じょうきょうがございます。業ごうのかたまりが深ふかくまで刻きざまれているとき、逃にげられないお力ちからが必要ひつようになります。居心地いごこちのよくない場ばを静しずかにご覧らんになり、もっとも固かたく抱かかえられた場ばに正確せいかくにお働はたらきになるお力ちからでございます。

それが不動明王でいらっしゃいます。荒あらく、暴力的ぼうりょくてきではございません。けれど、揺るがれません。

お名前なまえがすべてを申もうしております ― 「動うごかれざる御方」。固かたまっておられるからではなく、何なにがあってもお静しずけさを失うしなわれないからでございます。どんなに深ふかい型かたも、どれほど古ふるい固かたまりも。解とけるまで、お傍そばに居いてくださいます。 マーク・ホサック博士はかせ

真言霊気のなかの不動明王

真言霊気のなかで、不動明王への伝授でんじゅはもっとも深ふかいご体験たいけんのひとつでございます。進すすんだご深ふかまりにそなわっており、はじめの段階だんかいではご体験たいけんになれない実践じっせんのひろがりを静しずかに開ひらいてくださいます。

この伝授でんじゅを独ひとり立だたせているもの ― それは、古ふるくからの仏教の瞑想めいそうでは、その御方おかたとともに静しずかに瞑想めいそうをして、お支ささえをお願ねがいいたします。真言霊気のなかでは、ご自身じしんがそのお力ちからを通とおされる器うつわになっていかれます。不動明王のお力ちからがご自身じしんの御手みてを通とおって流ながれていかれます ― 直じかに、感かんじられるかたちで、相手あいてのお気きの奥おくへと。これはほかでは得えられないものでございます。

この実践じっせんは、三密さんみつとともにお働はたらきになります ― 剣けんのお印いんを身体しんたいのしぐさとして、不動明王の真言しんごんを音おととして、お背せの炎ほのおのご観想かんそうをお心こころのお働はたらきとして。身しんと口くと意い ― 同時どうじに、ひとつにまとまって、一点いってんに静しずかに集あつめられます。

護摩木のお書きと不動明王の火の儀礼
護摩ごま木ぎ ・ 御祭壇ごさいだんでの火かの儀礼ぎれい

不動明王と九字切り

不動明王は九字切りと切きり離はなせないお結むすびをいただいておられます ― 真言の伝統でんとうの九ここのつの印いんでございます。九字切りの道みちの第だい二にのご段階だんかいでは、不動明王の儀礼ぎれいが静しずかに実践じっせんされます ― 不動明王の三密さんみつ、剣けんのお印いん、観かん字観かんの瞑想めいそうでございます。

不動明王とともにいただく九字切りの実践じっせんは、お護まもりとお清きよめとを結むすびます。そのお力ちからを静しずかにお呼よびになり、お場ばを清きよめて、修行者しゅぎょうしゃを九ここのつの印いんへとお支ささえくださる儀礼ぎれいでございます。九ここのつの印いんを満みちたお力ちからとともに実践じっせんされたい方かたには、不動明王とのお結むすびが必要ひつようでございます。

なぜ今いま、不動明王なのでございますか

表面ひょうめんにとどまるものが多おおい時代じだいのなかに、私わたくしたちは生いきておりますことがあるかもしれません。霊性れいせいの実践じっせんのなかにおいてさえも、ときにそうでございます。少すこしのお休やすみと、少すこしのお気きづきだけ。それぞれにお意味いみがございます。けれど、奥おくのほうに解とかれたいものがあると感かんじておられる方かたには、それだけでは足たりないことがあるかもしれません。

不動明王は、まさにその方かたのためにいらっしゃいます。静しずかにご覧らんになるご覚悟かくごのおありになる方かたのために。強つよさがあらわれてもお逃にげにならない方かたのために。真まことの変容へんようはお休やすみの週末しゅうまつではなく、お勇気ゆうきを必要ひつようとする道みちであるとご存ぞんじの方かたのために。

厳きびしいお顔かおは、お誘さそいでございます ― お見みつけになるものを怖こわがられないでください。御おん身は傍そばに居いてくださいます。お離はなれになりません。

個別こべつのご体験たいけんでございます。 結果けっかには個人差こじんさがございます。霊気と霊性れいせいの実践じっせんは、医療いりょうや心理療法しんりりょうほうの代かわりとなるものではございません。
不動明王のお力ちからに触ふれる

真言霊気のなかでお会あいになる

不動明王は真言霊気の進すすんだ実践じっせんにそなわっておられます。道みちは第だい一いちの段階だんかいから静しずかに始はじまり、ご想像そうぞうになるよりも奥おくへとお導みちびきいたします。

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