サムライのお城のひとつひとつに、お像がございました。仏陀のお姿ではございません。やわらかな菩薩のお姿でもございません。炎のなかにお立ちになり、右手に剣、左手に縄、容赦のないお眼を湛えられた御方のお像でございます。不動明王 不動明王 ― 揺るがれざる明王。武人のお守護神でいらっしゃいます。真言密教のいかなる御方も、サムライと忍者からこれほどまでに深く仰がれてまいりました御方はいらっしゃいません。
西洋では知られていないことがございます。不動明王はやわらかなお守り手でいらっしゃいません。明王 ― 智慧の御王、お光の御王でいらっしゃいます。お怒りは人間的ではございません。清みわたりが迷いに向けられたお怒りでございます。お背の炎は身体を焼かれません ― 怖れと幻と、御心を縛るすべてを静かに焼き清めてくださいます。だからこそ、日本の武人たちはお戦いの前に、お名前をお呼びになったのでございます。

サムライのお仰ぎ 武士
サムライは勝利をお願いになりませんでした。清みわたりをお願いになりました。大事なご瞬間に震えない御心をお願いになりました。日本の武人のあいだの不動明王へのお仰ぎは、平安時代にまで遡ります ― 千年を越えて。源平の大きなお戦のなかで、サムライはお真言の御守りをお身につけられました。武将はお軍勢を戦へとお導きになる前に、不動明王の御儀礼を営まれました。
なぜ不動明王なのでございますか。それは、武人がもっとも必要とされるものをお体現くださるからでございます ― お心の不動でございます。お名前がすでにそのことをお申しになります。不は非ず。動はお動き。明王はお光の御王。お動かしになれない御方でいらっしゃいます ― 怖れにも、疑いにも、退くお誘いにも。お戦いの前に不動明王にお祈りになったサムライは、外のお守りをお願いになったのではございません。内なる確かさをお願いになったのでございます。
忍者もまた不動明王を仰がれました ― けれどそれぞれのお仕方で。サムライがお寺の大きな御儀礼を営まれた一方、忍者はそのお真言とお印を密かに実践なさいました。不動明王は忍者の密のご実践のひとつでいらっしゃり、九字切りや修験道の儀礼と深くお結ばれておりました。忍者にとって不動明王はお守護神であるばかりではなく、姿を消す力、怖れなき御心、ご覚りの感覚を開いてくださるお力でいらっしゃいました。
倶利迦羅剣 倶利迦羅
不動明王の右手に剣が燃えております。普通の剣ではございません。倶利迦羅剣 倶利迦羅剣 ― 龍のお剣でございます。火の龍がからまるお刃でございます。このお剣はお肉を切られるのではございません。迷いを、幻のお覆いを、ご本性を見ることを妨げるすべてを静かに断たれます。
サムライにとってこれは深いお真理でございました。もっとも危ない敵は戦場に立っているのではございません。ご自身のお頭のなかに坐しておられます。疑い、ためらい、「御身はそれほどのものではない」と申す声。倶利迦羅のお刃はまさにそれを断たれます。大事な瞬間にお動きになるお力を表します ― ためらいなく、振り返ることなく、内なるためらいのないままに。サムライはこれを決 ― ご決意を一点に静かに集めること、と呼ばれました。
古い日本の刀の多くに、倶利迦羅のお姿が刻まれておりますのは偶然ではございません。サムライのお刃と明王のお刃は、武人のお心のなかでひとつでございました。お刀を抜かれた御方は、不動明王のご決意もお抜きになっておられたのでございます。
羂索 ― 魔を結ぶ縄 羂索
左手に不動明王は縄をお持ちでいらっしゃいます ― 羂索 羂索でございます。これは魔を結ばれる縄でございます。けれど、いかなる魔でございますか。怪しい怪物ではございません。ご自身のお心のなかの魔でございます ― 貪り、怒り、愚かさ。仏教のなかで三毒と呼ばれてまいりました、すべての苦のお根もとでございます。
武人にとって、これは具体的なお意味を担っておりました。名声への貪りは軽率にしてしまいます。敵へのお怒りは盲目にしてしまいます。ご自身のお力への愚かさは慢心を生みます。これらの魔はそれぞれ、譬えではなく、本当に命に関わるものでございました。羂索はそれを結ばれます。抑えるのではなく、引き寄せられます。武人がそれをお気づきになり、越えていかれるよう、静かに顕にしてくださるのでございます。
真言霊気の実践のなかで、羂索は同じ場でお働きになります。ご自身の陰からお逃げにならず、静かにお捕えになるお力でございます。内なる魔からお逃げになる方は、その魔に追われていらっしゃいます。結ばれる方は自由になられます。
変容の炎 火焔
不動明王は炎のお輪のなかにお立ちでいらっしゃいます ― 火焔光でございます。この炎はお飾りではございません。変容の炎でございます。もう役を終えられたものを静かに焼き清めてくださいます。怖れ。執着。とうの昔に消えていくべきだった古い型。
サムライはそれを直にご理解になりました。お戦のひとつひとつの前に、何かが消えていく必要がございました ― お死への怖れでございます。お死を怖れる武人はすでに失われておられます。不動明王の炎は、その怖れが静かに焼かれていく瞬間を表します。抑えつけによってではなく、表面的な勇気でもなく、怖れがもう居場所を見つけられないほどに深い変容によってでございます。
お戦の前の不動明王の御儀礼のなかで、この変容はご意のままに呼びおこされました。お真言、お印、火焔光のご観想を通して、武人たちは変えられた意識のなかにお入りになりました。炎は象徴であるばかりではなく ― 生きられたご体験でございました。この御儀礼からお出ましになった方は、もう同じ方ではいらっしゃいませんでした。
不動明王の炎は敵を焼かれません ― ご自身が清みわたって動かれることを妨げているものを焼き清められます。怖れ、疑い、執着 ― お心を濁らせるすべてが火のなかへと入られます。あとに残るのは、武人のあらわな清みわたりでございます。この変容はサムライのお伝えにとっても、真言霊気のご実践にとっても、核でございます。
忍術と真言霊気のなかの不動明王 真言
忍術においても、真言霊気においても、不動明王が中心のお役目を担われるのには理由がございます。両方のお伝えは同じ源からきております ― 真言密教、修験道のお山のお修行、古い日本の巫の実践。不動明王はそれらすべてのお道の交わる場にお立ちでいらっしゃいます。
忍術のなかで、お真言は密の九字切りのご実践のひとつでいらっしゃいます。忍者が危ない御務めの前に結ばれた九つのお印のなかには、不動明王のお力もお呼びになるものがございます。お印 ― その特定のお手のお形 ― は、普通の勇気を越えた怖れなさをお働きにします。怖れがおありにならないのではございません。怖れよりも大いなるお力がそこに息づいておられるのでございます。
真言霊気のなかで、不動明王には進んだ実践のなかでお会いになります。お真言 のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん たらた かん まん は、真言の伝統のなかでもっとも力のあるおひとつでございます。軽がろしくお伝えされるものではございません。お受けになる方は伝授をお受けになります ― 千年を越えて師から弟子へと受け継がれてまいりました、不動明王のお力の直のお伝えでございます。
このお結びは偶然ではございません。忍術の大師範でいらっしゃった田口先生 ― マークの直の師 ― は、武術とともに、真言の霊性的な御儀礼もお修めになりました。田口先生にとって ― 古の武人たちと同じく ― 霊性の実践と武術のあいだに違いはございませんでした。両方とも一つのお道でございました。そして不動明王は、両方の門にお立ちでいらっしゃいました。

不動明王はご自身にとって何を意味するのでございますか
サムライでいらっしゃる必要はございません。忍者でも、修行者でもいらっしゃらなくてけっこうでございます。けれど正直にお感じになるとき、不動明王が結ばれる魔はご存じでいらっしゃいます。変わることへの怖れ。強くおありになるかというお疑い。とうに過ぎ去ったものへのお執着。どなたも御自身のなかに戦場をお持ちでいらっしゃいます。
不動明王はやわらかな抱擁をお差し出しになりません。炎をお差し出しになります。そしてその炎のなかに、ご自身を小さくしているものを静かに解き放たれるご機会がございます。剣がお切りになります。縄が結ばれます。炎が焼き清めてくださいます。あとにお残りになるのは、ご自身でいらっしゃいます ― お仮面もなく、怖れもなく、お縛りもなく。これが、武人たちが千年を越えてお名前をお呼びになりつづけてきた理由でございます。慣らわしのためにではなく、実にお働きになるからでございます。
不動明王のお力を、ご理解のうえだけでなく、身体のなかでお感じになりたい方へ。 tengu-akasha-dojo.de にて、媒霊の武術のご実践がお待ちしております ― 武人のお伝えが今も息づくお場でございます。