西洋の霊気の世においては、ほとんど問われることのない問いがございます ― 臼井甕男先生はどの霊的伝統に属しておられたのかという問いでございます。答えは記録に残っておりますが、幾十年にもわたって見過ごされてまいりました。臼井先生は天台の方でございました。傍らに、文化的な所属としてではなく、日本のもっとも古く深い密教の流れの一つを実践される方として、でございます。
そして、まさにここから霊気のお話が始まります ― ぼんやりとした「霊的な啓示」のなかにではなく、千余年の歴史を持つ具体的な伝統のなかで。瞑想、真言、儀礼、山岳行を含む伝統。臼井先生の決定的なご体験の場 ― 鞍馬山 ― へと、まっすぐに導く伝統でございます。

天台仏教とは何でございますか 天台宗
天台仏教は単なる一つのお宗ではございません。大海でございます。そこには共に流れ込むものがございます ― 法華経の哲学、台密の密教の儀礼、禅の瞑想、念仏の実践、修験道の山岳行、神道の要素。天台は、後のほとんどすべての日本のお宗の母でございました ― 禅、浄土、日蓮のすべてが、比叡山に根ざしておられます。
霊気を理解するうえで、これは決定的でございます。臼井先生が実践されましたものは、ただ一つの技法ではございません。天台のなかで幾世紀にもわたって並び立ち、互いに染みあってまいりました、霊的な方法の全ての場でございました。
台密 ― 天台の密の面 台密
西洋において、日本の密教はまずもって真言 ― 空海大師のお宗 ― として知られております。けれども、天台のなかには独自の密教の流れがございます ― 台密 台密、「天台のお宗の密の伝え」でございます。
台密と真言密教は多くを分かち合っております ― 曼荼羅、真言、印契、身・口・意の三密。けれども、台密はこれらの密の実践を法華経の哲学と結びつけました ― すべての衆生がすでに悟りを内に持っているという思想と。付け加えるべきものはない。道はすでにあるものを露わにすることである、という思想と。
台密は説きます ― 宇宙の力はあなたの外にはございません。すでに内にあるのでございます。実践は「内」と「外」の境を解くことにございます。まさにこの原理が霊気の伝授のなかに息づいております ― 外から来る力ではなく、露わにされる力でございます。
天台の伝統に立つ方は、真言においても中心となるのと同じ要素を用いられます ― 悉曇悉曇の字(瞑想の対象として)、曼荼羅(宇宙の秩序を映す)、印契(身体を儀礼に変える)、そして真言 ― 言霊 として理解される、現実を形づくる音 ― でございます。
法華経 ― 天台の礎 法華
天台仏教の中心には法華経 法華経 がございます ― 仏教の世界全体においてもっとも影響力のある経典のひとつでございます。その核心のお知らせは大胆でございます ― あらゆる衆生は例外なく、すでに仏性を内に持っております。これから育てるべき潜在としてではなく、露わにされたい生ける現実として。
この思想は実践に大きな結果をもたらします。悟りが達成すべき何かではなく、すでに己が姿そのものであるならば ― すべての方向が変わってまいります。努力のお話ではございません。開きのお話でございます。登りではなく、気づきでございます。業績ではなく、戻りでございます。
霊気をご存じの方は、ここに馴染みのものを見いだされます。霊気の力は「作る」力ではございません。流させる力でございます。受け取られるものであり、稼がれるものではございません。伝授はすでにあったものを露わにいたします。これは偶然ではございません。法華経の哲学が、ひとつの実践へと移されたものでございます。
入我我入 ― 「彼が我に入り、我が彼に入る」 入我我入
入我我入は天台台密においても真言密教においても実践される原理でございます。瞑想において、実践なさる方は宇宙の力 ― しばしば大日如来 大日如来、宇宙の仏 ― がご自身に入るのを観じられます。同時に、ご自身も宇宙の力のなかへと入られます。境が溶けてまいります。
これがまさに、霊気の伝授のなかで起こることでございます。普遍の力が受け取られる方のなかに入ります。そして、受け取られる方が開け、力のなかへと入られます。授ける方も受ける方もない ― 合一がございます。境が消えるからこそ、道が開かれてまいるのでございます。
西洋の霊気の伝えにおいて、この原理はあまり名づけられません。「通路になる」「己を開く」「気を流れさせる」と申します。それらすべてが入我我入を表しておりますが ― その源となる伝統の深さなくして。真言霊気においては、この結びが意識的に結ばれてまいります。実践がご自身の根を取り戻します。
鞍馬山 ― 天台の場 鞍馬
多くの霊気の実践なさる方々が、鞍馬山を「臼井先生が開けのご体験をなさった場」としてご存じでございます。けれども、こう問われる方はわずかでございます ― 当時の鞍馬はどのような場であったのか。お答えはこうでございます ― 天台の場でございました。鞍馬山には天台のお寺がございました。そこで実践されましたお山の行は、天台と修験道の型に従っておりました。
現在の鞍馬寺は1949年より独自のお宗 ― 鞍馬弘教 ― に属しております。けれども、臼井先生のお時代、明治の末から大正のはじめにかけては、鞍馬は天台の網のなかにございました。そこでお勤めをしておられた僧の方々は天台の僧侶でございました。そこで営まれた儀礼は天台の儀礼でございました。山の道で瞑想なさる行者の道は天台の道でございました。
これは意味いたします ― 臼井先生が鞍馬山に退かれて断食と瞑想をなさったとき、異例なことをなさったわけではございません。一千年にわたって天台の伝統に知られていた型に従われたのでございます。山岳行 ― 自然のなかへの退き、断食、深い瞑想 ― は、天台においても修験道においても中心の要素でございます。臼井先生はどこかへ赴かれたのではございません。幾世紀にもわたって、まさにそのような実践のために用いられた場へと赴かれたのでございます。
最澄と空海 ― 二つの師匠、一つの遺産 最澄空海
臼井先生の伝統を理解するためには、密教の仏教を日本にもたらされた二人のお開きをご存じでなければなりません ― 天台の開祖、最澄大師 最澄、そして真言の開祖、空海大師 空海 でございます。お二方とも804年に中国へお渡りになりました。お二方とも密の伝えとともに帰国なさいました。そしてお二方とも、今日に至るまで働き続ける仕方で、日本の霊性を形づくられました。
最澄大師は法華経を中心とする天台の伝統を持ち帰られました。空海大師は密教の完全な伝授を持ち帰られました。お二方のあいだには協力もあり、緊張もございました ― 最澄大師は空海大師に密教のお経をお願いになり、空海大師は直の伝授こそが替えのきかぬものであるとして、一部をお断りになりました。
この緊張 ― 文字の伝えと直の伝えとのあいだの ― は、日本の密教の歴史すべてを貫いております。そして、霊気のなかにも息づいております ― 象徴は本のなかで見つけられます。けれども、真の力は人から人へと伝えられるのでございます。情報としてではなく、体験として。
天台と真言は対立するものではございません ― 同じ大河の二つの流れでございます。両派ともに密の実践を伝えており、両派ともに真言、印契、曼荼羅をお用いになります。臼井甕男先生は天台の伝統に立たれましたが、お束ねになりました実践は両派をともに含み ― さらに修験道、神道、シャーマニズム的道教へとも広がっております。
マーク・ホサックのお寺での実践 実践
天台と霊気の結びは、本のなかからの論ではございません。実践のなかでのみ開かれる体験でございます。マーク・ホサックは日本でのご研究の年月のあいだ、天台のお寺において実践なさいました ― 傍観する方としてではなく、共に参る方として。朝の勤行に加わり、真言を唱え、寒き山のお寺で瞑想を続けてまいりました。
そこに現れますのは、直接の近しさでございます。天台の儀礼における気の受け渡しの仕方 ― 三密 ― 印契(身)、真言(口)、曼荼羅(意) ― の合一を通じて気が働くその仕方は、霊気の礎でございます。形が似ております。内なる姿勢は同じでございます。原理は同じ ― 入我我入。彼が我に入り、我が彼に入る。
天台のご実践をご存じの方は、霊気を別の層から理解されます。20世紀のはじめに無から突如生まれた孤立した方法としてではなく、古き伝統の生きた枝として ― 最澄大師から中国へ、中国の天台から印度の密教の源へとさかのぼる伝統として。
これがご自身の実践にとって何を意味するか 道
天台との結びは、学者のための歴史の細部ではございません。霊気を理解し体験する仕方を変えてまいります。霊気の伝授が入我我入の原理に基づいているとご存じの方は、それを異なる仕方で感じ取られます。受身の受け取りとしてではなく、能動の合一として。ただの通路ではない ― ご自身もお流れの共なる形づくり手でございます。
法華経が「仏性はすでに己が内にあり」と説いていることをご存じの方は、霊気を外から入る異なるものとして受け取ることをおやめになります。力はいつもそこにございました。伝授がそれを露わにいたします。付け加えるものはございません。
そして、臼井先生がお一人の幻視家ではなく、生きた伝統のなかの実践者であったとご存じの方は、ご自身のご実践もまた別の光のなかに立つことをお感じになります。お一人ではございません。臼井先生をさかのぼり、最澄大師、空海大師、密教の諸祖師へとつながる系譜のなかに立っておられます。権利のお話ではございません。お招きでございます。
真言霊気のなかにおいて、この結びは意識的に育まれております。天台の要素は歴史の脚注ではなく、ご実践を養う生きた泉でございます。より深く歩みたいとお感じになる方は、伝授と会のなかにその場をお見つけくださいませ ― 言葉がほのめかすことしかできないものを、直に体験なさる場でございます。