九つの手印しゅいん。九つの音節。空気を切きる九つの切きり目。映像作品えいぞうさくひんのうちで派手はでな戦闘せんとう技わざとして描えがかれるものには、本物ほんものの由来ゆらいがございました ― 任務の前に、戻もどって来こられるかどうかわからぬ戦士せんしたちの手てのうちに。封建ほうけんの世の忍しのびたちは、九字切り 九字切り を見せるためには用いませんでした。生いき延のびるために用いたのでございます。

けれども、九字切りはただの戦たたかいの技わざではございませんでした。心こころを研とぎ澄すまし、身体しんたいを中央に戻もどし、目めに見みえぬ力との結むすびつきを育そだてる儀礼ぎれいでございました ― すべてが賭かかったその瞬間しゅんかんに。九つの印いんは、暗闇くらやみへ踏ふみ出だす前の戦士の最後さいごの祈いのりでございました。

皆の印契 ― 九字切りにおける戦士の印
皆 · 戦士たちの知覚ちかくの印いん

源流げんりゅう ― いかなる武術ぶじゅつよりも古く 源流

九字切りを理解りかいしようとする方は、忍しのびよりさらに遠とおく遡さかのぼってご覧になる必要ひつようがございます。九つの印いんは、ひとつの伝統でんとうから生うまれたものではございません。その根は、中国ちゅうごくの道教どうきょうの呪術じゅじゅつ、修験道しゅげんどうの山岳さんがく修行しゅぎょう、神道しんとうの儀礼ぎれい、そして真言宗の密教みっきょうへと達たっします。これらの流ながれが日本でひとつに結むすばれ ― その合流ごうりゅうから、危機ききのうちで守まもられたいという人間の願ねがいと同じほど古い実践じっせんが育そだったのでございます。

道教どうきょうの典籍てんせきのうちには、僧侶そうりょと戦士の双方が邪じゃなるものや敵意てきいから身みを守まもるために用いた手印しゅいんと呪じゅがございます。修験道しゅげんどうの山伏やまぶし 修験道 は、これらを取とり入いれ、山々のうちでの清きよめと力ちからを得える儀礼ぎれいと結むすび合わせました。密教みっきょうのうちでは、印契は体系たいけいある制度せいどへと育そだてられ、それぞれの手印が固有こゆうの宇宙うちゅうの力ちからを呼よび覚さます形かたちに整ととのえられました。神道しんとうのうちには、働はたらく前に人を目めに見みえぬ力と息いきを合あわせる、同じ原もとの願ねがいを担になう清きよめの儀礼ぎれいがございます。

忍しのびは、これらすべてを受うけ継つぎました。独立どくりつした集団しゅうだんではございませんでした ― これらの伝統でんとうの縁ふちに暮くらし、働はたらくものを取とり入いれ、極きわめての圧あっのもとで働はたらかなければならぬ実践じっせんへと整ととのえました。寺院じいんの儀礼ぎれいのような長ながき典礼てんれいではなく ― 九つの印を素早すばやく結むすび、奥おくに沈しずめた、出立しゅったつの前の静寂せいじゃくのうちで。

任務の前の儀礼ぎれい 儀礼

お想像そうぞうください ― 夜でございます。敵てきの領内りょうないの縁ふちに立っておられます。数分すうふんのうちに、城しろへと忍しのび込こみ、守まもられた廊下ろうかを進すすみ、知しらせを得える ― あるいは、誰かを退しりぞける。身体しんたいは張はり詰つめております。心こころは駆かけ巡めぐります。ひとつの過あやまちが、最後さいごのものとなりかねません。

その瞬間しゅんかんに、忍は両手りょうてを合あわせます。迷信めいしんからではなく、体験たいけんからでございます。幾いく世代もの戦士たちが気きづいておりました ― 九つの印が、身体と心のうちに、ただの意志いしでは届とどかぬ変容へんようを呼よぶことを。印契いんげいは両手りょうてを特定とくていの絡からみのうちに置き、身体のうちの気きの流ながれを整ととのえ直なおします。唱となえられる真言は呼吸こきゅうと同おなじになり、観想かんそうされる象徴しょうちょうが心こころに方向ほうこうを与あたえます。

その結むすび ― 鼓動こどうがしずかになります。知覚ちかくが広ひろがります。恐おそれは無感むかんへとなるのではなく、清明せいめいへと転てんじてまいります。麻痺まひの状態じょうたいに陥おちいるのではなく ― その逆ぎゃくでございます。常の状態じょうたいでは到底とうてい達たっしえぬほど、目覚ざめてまいります。感覚かんかくが研とがれ、空間くうかんの感かんじが濃こくなります。世界が遅おそくなったかのように映うつるのは、ご自身の心が速はやくなったからでございます。

「忍しのびは迷信めいしんから九字切りを修しゅうしたのではございません。それが働はたらくから修しゅうしたのでございます。一つの散ちった瞬間しゅんかんが死しを呼よびうる世界において、数秒すうびょうのうちに心を一点いってんへと運はこぶ道具どうぐが必要ひつようでございました。九字切りがその道具どうぐでございました。」 マーク・ホサック博士はかせ

戦いの場ばにおける九つの印 九字

九つの印 ― リン、ピョウ、トウ、シャ、カイ、ジン、レツ、ザイ、ゼン 臨兵闘者皆陣列在前 ― それぞれが戦たたかいに欠かかせぬ性質せいしつを呼よび覚さましました。抽象ちゅうしょうの哲学てつがくとしてではなく、具体的ぐたいてきな内うちなる状態じょうたいの変かわりとして。

リン は力ちからと意志いしを育そだてます ― そもそも動うごけるための礎いしずえ。ピョウ は気きの流ながれを方向ほうこうづけ、五感の奥おくへと知覚ちかくを開ひらきます。トウ は周まわりとの調和ちょうわを呼よびます ― 戦士は地形ちけいとひとつになり、変かわりが目めに見みえる前に感かんじ取ります。シャ は身体の自みずからを整ととのえる力と再生さいせいを呼よび覚さまします。カイ は直観ちょっかんを、危あやうさを感かんじ取る力を開ひらきます。

ジン は他たの方かたを読よむ力ちから ― 思おもい、気持きもち、次の動うごき ― を育そだてます。レツ は自然しぜんの力と、常の知覚ちかくの奥おくの次元じげんと結むすびます。ザイ は五大ごだいの調ととのえを授さずけます ― 幻想げんそうの意味いみではなく、自然しぜんの力ちからへの深ふかき理解りかいとして。そして ゼン は結むすびでございます ― 知覚と動うごきのあいだに一ひとつの思おもいも挟はさまらぬ、完まったき現前げんぜんでございます。

実際じっさいの場ばでは、九つの印すべてが常つねに結むすばれたわけではございません。状況じょうきょうに応おうじて、熟練じゅくれんした忍は個こ々の印を強調きょうちょうすることも、列つらなり全体ぜんたいを数呼吸すうこきゅうのうちに通とおすこともできました。大切たいせつなのは外の形だけではございません ― 長年ちょうねんの修しゅうのうちに奥おくに根ねを下おろした内うちなる結むすびつきが、指先ゆびさきが触ふれた瞬間しゅんかんに全体ぜんたいの状態じょうたいを呼よび覚さますほどに深ふかくなっていたのでございます。

在の印契 ― 五大の調え
在ざい · 五大ごだいの調ととのえ

守まもりの儀礼ぎれい ― 目めに見みえぬ鎧よろい 護身

忍しのびは、九字切りに支ささえられた固有こゆうの守まもりの儀礼ぎれいを知しっておりました ― 格子こうし切きりでございます。差さし伸のべた指で、横よこと縦たての線せんを交互こうごに空中に描えがきます ― 九つの切きり目からなる格子こうしと、九つの音節。この格子は、戦士を包つつみ込こみ、邪じゃなるものから守まもる気きの結界けっかいとして受うけ取られました。

不可解ふかかいに聞きこえるかもしれません。けれども、同じ実践じっせんが密教みっきょうの寺院じいんのうちで千年を超こえて守まもりの儀礼として伝つたえられ ― 幾いく世代もの僧侶そうりょと戦士が互たがいに独立どくりつに確たしかめてきたことを思おもえば、近代きんだいの西洋せいようがこの次元じげんをなぜそう容易よういに忘わすれたか、と問とい直なおすべきでしょう。この実践じっせんは理論りろんから生うまれたのではございません。真しんに働はたらくもののみが生いき残のこる条件じょうけんのもとでの体験たいけんから生うまれました。

格子切りに並ならんで、ほかにも守まもりの実践じっせんがございました ― 任務の前の身体の儀礼ぎれい的な清きよめ、特定とくていの真言を唱となえること、摩利支天 摩利支天 ― 戦士の守まもりの尊そん ― を観想かんそうすること。摩利支天は比喩ひゆではございませんでした。忍しのびにとっては、暗闇くらやみへ踏ふみ出だすたびに、印・真言・観想で呼よび覚さます生いきた力でございました。

原理

戦いの場ばにおける九字切りは魔までも術じゅつでもなく ― 心の技わざでございました。九つの印は戦士を、最もっとも目覚めざめた、清明せいめいな、静しずかな状態じょうたいへと運はこびました。今日「フロー状態」と呼よばれるものは、忍しのびにとっては霊性れいせいの実践じっせんの結むすびでございました ― 日々修しゅうし、決けっめたい瞬間しゅんかんに呼よび出だす実践じっせんでございました。

これは、皆さまにとってどういう意味でございましょう 道

皆さまは敵の城に忍しのび込こむことはございません。剣けんを振ふるうこともございません。けれども、すべてが賭かかるような瞬間しゅんかんはご存知ぞんじでしょう。難むずかしいお話はなしし合い。人生じんせいを変かえうる決断けつだん。清明せいめいを必要ひつようとするときに、雑音ざつおんしか聞きこえぬ状況じょうきょう。これらの瞬間しゅんかんに、同おなじ原理げんりが働はたらいてまいります。

九字切りは歴史れきしの骨董こっとうではございません。今日も、五百年前と同じように働はたらく生いきた実践じっせんでございます ― なぜなら、外そとの状況じょうきょうに反応はんのうするのではなく、内うちなる状態じょうたいを変かえるからでございます。印契、真言、観想は、人間の身体・心の仕組しくみに働はたらきかけ ― そしてこの仕組しくみは、忍しのびの世から変かわっておりません。

九字切りの戦闘せんとうの側面は、この実践じっせんが本来ほんらい何なにのためのものであったかを思おもい出ださせてくださいます ― 柔やわらかな瞑想めいそうの夕べのためではなく、事ことが立たち上あがる瞬間しゅんかんのために。お持ちのすべてを必要ひつようとする瞬間しゅんかんのために ― それを越こえる何かを。忍しのびは知しっておりました ― この力はご自身のうちにございます。九つの印は、それを解とき放はなつ鍵かぎでございます。

「指を絡からめ、音節を唱となえるとき、心理学しんりがくだけでは説とき明あかせぬ何かが起おこります。身体が応こたえます。心が応こたえます。何なにかが整ととのってまいります。忍しのびは体験たいけんから知しっておりました。九字切りを修しゅうされる方は、ご自身でそれを体験たいけんされます。」 マーク・ホサック博士はかせ
陣の印契
陣じん · 戦いと心の結むすび目
九つの印

真言霊気のうちの皆さまの道

生いきた実践じっせんとしての九字切り ― 日々の修しゅう、段階を追おう深ふかまり、内うちなる姿すがた。日本の戦士たちが幾世紀いくせいき歩んできた道へお進すすみください。

皆さまの道はここから 九字切りの基礎