死は、多くの方々が後ずさりなさる経験のひとつでございます。それは無理もないことでございます。私たちの今の文化には、死を語る言葉も、儀礼も、場もほとんど残っておりません。死を退けつづけ、それが訪れたとき、言葉を失ってしまう。ふさわしい器のない悲しみとともに、ひとりで立ちつくしてしまうことが多うございます。
真言の伝統では、これがちがっております。ここでは、死は終わりとしてではなく、移ろい — 変容 — として受けとめられてまいります。心は本来清らかで、こわれることのないもの — それが千年以上にわたって生きられてきたこの実践の経験でございます。心は無のかなたに去るのではなく、続いてゆきます。そしてこの道には寄り添うことができます — 死の前に、臨終のあいだに、そしてそのあとも長く。
これは、悲しみを軽んじる慰めではございません。何百年もの実践のなかで育ってきたたたずまいでございます。そして、避けがたきものに、目を閉じるのではなく、開かれた心で出会うようにという招きでございます。

四つの段のおつきあい 四段
真言の伝統は、死へのひとつの答えだけを知っているのではございません。四つの段 — 水のなかの石を巡る波のように、臨終のときを取り巻く四つの輪を持っております。それぞれの段にそれぞれの深さがあり、それぞれの儀礼があり、それぞれの意味がございます。
第一の段は、生きている方々に関わります。 病になられてからではなく、いまでございます。無常 — むじょう 無常 — の意識は、日本の文化において暗い思いではございません。生のいきいきとしたありさまの源でございます。桜が数日しか咲かないと知る方は、桜を別の目で見つめます。一つひとつの出会いが最後となりうると気づく方は、別のかたちで人と出会います。真言の実践において、無常への観想は土台のひとつでございます — 不安としてではなく、目覚めとして。
第二の段は、ご家族に関わります。 日本では、ご家族が大切な方の死に向けて、ともに備えてゆかれます。お話があり、儀礼があり、共にいる時間がございます。だれもが、ひとりで担う必要はございません。寺院の集まり — 僧伽 — が、受けとめる網となります。真言霊気では、この段は共にする実践に表れます — 瞑想、お祈り、三密の場のなかでの静かにそばにあるありさま。
第三の段は、お亡くなりになる方ご自身に関わります。 ここでは静けさが大切でございます。慌ただしさや機器ではなく、静けさ、真言、開かれた心の在りように満たされた周りの場が大切でございます。真言の伝統では、お亡くなりになる方に瞑想がさし出されます — 押しつけられるのではなく、寄り添いとして。これから来るものについてのお話。道は続いてゆくという確かさ。そして、向こう岸で待つ光。
第四の段は、お亡くなりになった方々に関わります。 ここに、西洋の目には珍しく映ることがございます。真言の伝統では、おつきあいは最後の息で終わりません。続いてまいります — 三十三年にわたって。寺院では、お亡くなりになった方々のための儀礼が、年ごとに行われます。空虚な繰り返しとしてではなく、生きたつながりとして。お亡くなりになった方々は、忘れられたりなさいません。お祈りによって、実践によって、集まりの力によって、抱きかかえられてゆかれます。
阿弥陀さまと浄土 阿弥陀
仏教の臨終のおつきあいに尋ねてゆかれるなら、いずれ 阿弥陀 阿弥陀 さまに出会われます — はかりしれない光の仏さまでございます。日本では阿弥陀如来とお呼びします。ご自身のお名前を呼ぶ一切の生けるものを、ご自身の浄土(浄土 浄土)へお迎えするとお誓いになった仏さまでございます。完璧な生のお褒めとしてではなく、限りなき慈しみのこころから。
浄土とは、キリスト教でいう天国のような場ではございません。変容の場でございます — もっとも深い気づきへの条件がそろえられた場でございます。そこに着いた方は、究極の解放を可能にする平安を見いだされてまいります。

真言の実践では、阿弥陀さまへのつながりが三密によって結ばれてまいります — 三密 三密: 身、口、意が同時に整えられます。手は阿弥陀さまの 印契 を結びます。声は阿弥陀さまの 真言 を唱えます。心は阿弥陀さまのはかりしれない光を観想いたします。この三重の実践は、思考を超えた場を開きます — 死を迎えられる方とそばに寄り添う方の双方が経験できる、まっすぐなつながりでございます。
そのかたわらに、念仏 — 南無阿弥陀仏 のとなえがございます: 「阿弥陀仏に帰命いたします」。流派によっては、これが臨終のときの中心のお祈りとなります。真言の伝統では、これは三密という、より深い実践のなかに置かれます — 同じ光へと導く幾つかの道のひとつとして。
光と移ろいの儀礼 光明
真言の伝統には、移ろいに寄り添ういくつかの儀礼がございます。そのうちの二つを、ここで申し上げます — お手引きとしてではなく、西洋の方々にあまり知られていない実践への小さな窓として。
光明真言 光明真言 は、真言の伝統でもっとも力ある真言のひとつでございます。闇のなかに光をもたらすために、道を照らすために — 言葉どおりにも、たとえとしても — 唱えられます。大日如来、宇宙のすべてを貫く光の仏さまと深く結ばれております。臨終のおつきあいにおいて、光明真言は移ろいに方向を与えるために唱えられます — 光のほうへ、清らかさのほうへ。
土砂加持 の儀礼では、清められた砂が棺やお骨に置かれます。この砂は篤い真言の祈りによって満たされたものでございます — 実践の力をたずさえ、お亡くなりになった方の道を寄り添ってまいります。深きいたわりのはたらきでございます: 生きている方々が、お亡くなりになった方に、物のお供えを越える何かを差し上げることでございます。
死は変容であって、終わりではございません。心は本来清らかで、こわれることのないものでございます。 真言の伝統は、この移ろいに四つの段で寄り添ってまいります — 生きている方々に、ご家族に、お亡くなりになる方に、お亡くなりになった方々に。それぞれの段にそれぞれの儀礼があり、真言があり、静けさがございます。どなたもひとりでこの道を歩まれることはございません。
動物にも、伝統は独自の道を持っております。馬頭観音 馬頭観音 — 馬の頭を持つ観音さまのお姿 — は、動物の守護尊でいらっしゃいます。日本の寺院では、亡くなった動物のための儀礼が馬頭観音のお像の前で行われます。動物を見送られたことがあり、その悲しみが人の喪失と同じほど真にあったと経験された方は、ここに、その悲しみを軽んじずに、まっすぐ受けとめてくださる伝統を見いだされます。

真言の伝統における仏教の臨終のおつきあいは、本を読んで「適用する」体系ではございません。伝授、伝授の流れ、集まりに支えられた、育まれてきた実践でございます。この道を歩みたいとお思いの方 — ご自身のために、大切な方のために、あるいは他の方々のおそばにありたいというお気持ちから — は、真言霊気のなかに、深さと温もりを結ぶ入り口を見いだされてまいります。
これは、死を打ち負かす道ではございません。開いた目と開いた心で、死に出会う道でございます。そして、阿弥陀さまの放たれる光は、消えることがない — そのことを知ることでございます。