西洋で「癒し」という言葉が使われるとき、多くの人がまず医学を思い浮かべます。診断と治療。お薬、手術、検査値。それは理解できますし、大切なことでもございます。けれども仏教における「癒し」は、根本のところで別のことを指しております。壊れた身体の修復ではございません。仏陀が 苦 — 苦しみ、満たされなさ、内なる引き裂かれ — と呼んだ状態からの解放を指しております。お薬では成しえない解放でございます。
真言の伝統 — 日本における密教 — において、この解放は抽象的な概念ではございません。儀礼、真言、瞑想、霊性の伝授によって、経験されてゆくものでございます。そこで起こることは、行ずる方々によって深く触れるものとして語られることが多うございます。けれども、それは医療行為ではございません。決してそうではございませんでしたし、そうあるべきものでもございません。
三毒 — 仏陀の見立て 三毒
2500年以上前、仏陀はひとつの見立てを示されました。一人の患者についてではなく、人間のあり方そのものについて。仏陀の見立ては次のようなものでございました — 苦しみは、外の事情だけから生まれるのではない。苦しみは、毒のようにはたらく三つの内なる力から生まれてくる。日本の伝統ではそれを 三毒 三毒 と申します。
むさぼりとは、物欲だけのことではございません。次のものへと絶え間なく手を伸ばす — 「これでは足りない」という感じでございます。いかりとは、あらわな攻撃だけのことではございません。すべての形の拒みであり、抵抗であり、「いまあるもの」への内なる戦いでございます。そして無明とは、おろかさのことではございません。事の真のつながりを見ないこと — 表と深さを取りちがえることでございます。
仏教における「癒し」とは、この三毒を見抜き、徐々に変容させてゆくことでございます。むさぼりは寛さに変わってゆけます。いかりは慈しみに変わってゆけます。無明は智慧に変わってゆけます。これは速やかな道ではございません。これは一つの道でございます — そして真言の伝統では、1200年以上にわたって歩まれてきた道でございます。

加持と薬師如来 — めぐみであって、薬ではなく 加持
真言の伝統には、しばしば誤解される一つの実践がございます — 加持 加持。この言葉はときに「祝福」、ときに「力づけ」と訳されます。その核に在るのは、霊性の力が伝わってゆく営みでございます — 仏さまから、行ずる方を通って、お受けする方へと。これは結びつきのはたらきであって、医療の処置ではございません。
加持を経験された多くの方々が、深く触れる出来事として語っておられます。あるは温かさを、あるは軽さを、あるは内なる平安を覚えられます。あるは、長く忘れていた静けさを感じられます。これらの経験は一人ひとりにそれぞれであり、あらかじめ決められるものではございません。これらは癒しのお約束ではございません。出会いでございます — 個の自己より大きな何かとの出会いでございます。
そして 薬師如来 薬師如来 がいらっしゃいます — いわゆる「薬の仏さま」でございます。お名前には 薬 の字が含まれます。これが西洋ではしばしば誤解の元となります。薬師如来は、内科医に代わる仏教的な存在ではございません。薬師如来の「癒し」とは、霊性の無明からの解放を指しております。お与えになる「薬」とは、法 — 苦しみの本質と、そこから出る道についての真実 — でございます。日本の寺院では、薬師如来が何世紀にもわたって礼拝されてまいりました。お像のもとで深い経験を語る方々が多うございます。これらの経験は、お医者さまの診察に代わるものではございません。別の場 — 医療では及ばないところ — を開いてくれるのでございます。
霊気と全体的な道 霊気
西洋では霊気がしばしば「エネルギー・ヒーリング」と呼ばれます。この呼び方は問題をはらみます — 霊気にはたらきがないからではなく、「ヒーリング」という言葉が誤った期待を呼ぶからでございます。霊気は医療法ではございません。西洋医学の代わりではございません。多くの方々が支えとして、心地よいものとして経験される霊性の実践でございます — 医療のかたわらに、補うものとして。決して代わりとしてではなく。
霊気が歴史的に育った真言の伝統において、霊性の力との関わりは、つねに大きな全体の中に置かれておりました。身、心、エネルギーは、けっして切り離して見られませんでした。瞑想は心を静めます。真言の念誦は響き合いを生みます。儀礼の実践は、日常では得がたい経験への場を開きます。そして手によるはたらき — 西洋で霊気として知られるもの — は、この織物の一部でございます。全体ではございません。
真言霊気では、この全体的な道が大切に保たれております。実践は手当てを、悉曇の瞑想、真言、印契と結びます。仏や菩薩のお力とともにはたらきます — 信仰体系としてではなく、経験できる実践として。そこで起こることは一人ひとりに違っております。あるは深い静けさを覚えられます。あるは思いがけない清らかさを感じられます。あるは、家に帰ってきた感じ — もとから自分の中に在ったものへ — として語られます。
この身・心・エネルギーの織りなしを、真言の伝統は 三密 三密 という原理で示してまいりました — 身(印契)、口(真言)、意(瞑想)。三つすべてが一つになるとき、それぞれだけよりも深い経験が立ち現れてくるのかもしれません。大日如来、真言の宇宙仏は、この一つなるものの体現として伝統の中心にいらっしゃいます。
仏教の実践と霊気は、医療に代わるものではございません。 この記事に記された実践は、霊性のはたらきを持つものでございます。一人ひとりに、支えとして、豊かさとして経験されることがあるかもしれません — 個別に、あらかじめ決められない仕方で。お身体のことでお困りの際は、必ずお医者さまや治療者にご相談ください。霊性の実践は、医療の道に寄り添うことはあっても、決して代わりとなるものではございません。霊気のセッションは医療行為に代わるものではございません。